第二十一話

「よっと」

 フラトはうつ伏せに転がるエンカを、一先ず引っ繰り返して仰向けにした。

 その際に、エンカの下に敷かれた蜘蛛糸製のマットは、頭上の蜘蛛が器用に、するすると解くようにばらして自身の中に回収していた。

 あんな小さな身体のどこに、とはもう思わない。気にしない。気にしない。

 この蜘蛛に関していちいち疑問に感じていたらきりがない。

 とは言え、しかし、あんな敷物を一体いつの間に作り出していたのやら――糸を吐き出しエンカの足首に括り付けてから、落下するまでに掛かった時間は長くない。

 その間に蜘蛛が新しく糸を吐き出したりもしていないとなると、エンカの足首に括り付けた糸から更に派生させてそんなものをこしらえたということになる。

 回収されてしまう前にフラトは蜘蛛糸の敷物を少し触って調べたが、クッション性を出す為に厚く作られ、意外にも、かなりの衝撃を吸収できていたかもしれない。

 複雑な編み込みまで施された、妙に凝ったデザインは絶対にいらないだろうに、蜘蛛にとって落とすことは想定内で、楽しんでやっていた節さえ見られる。

 怒られるのはフラトだというのに…………。

 いや、だからこそ、それを見越して遠慮なくやらかしたのかもしれないが。

 兎も角。

 この蜘蛛がそもそも落とすことを前提でやったのだとしたら、派手に落下したように見えはしたが、エンカは、その際の衝撃をほとんどその身に受けてはいない可能性が高い。

 この蜘蛛は悪戯好きではあるが、一線は超えない。そこら辺弁えているのは、この短い付き合いでよく理解している。

 蜘蛛だって、エンカの存在がなければこの遺跡を攻略することは不可能だということくらい理解しているだろう。

 何より、何事もなくエンカが起きなければ、フラトが怒られることがないのだから、多分蜘蛛は、それを一番避けたいはずだ。

 つまり、こうしてエンカが気を失ってしまったのは――その大部分の要因が、これまでの甲冑との戦闘によるダメージ、疲れの累積によるものの筈だということである。

「…………」

 すぅすぅ、と聞こえてくる穏やかな吐息は、気を失っているというよりは眠っているように見える。

 苦しそうでないのなら、大丈夫だろう。

 フラトはそんなエンカの背中と膝裏に腕を通し、抱えて持ち上げた。

「よっ…………う、お――」

 思わず衝いて出そうになる言葉を飲み込む。

 何、とは言わないが、意識のない人間を抱えるというのは中々に重労働なのである。

 魔術と違い、フラトの使う『気』は動かしてこそ、流してこそ――ヒト一人を抱えた状態で上手く体重移動をコントロールし、必要以上に疲れないよう歩くことは出来るが、『ヒト一人分の体重を身一つで支えている』という体感は変わらない。

 基本的に、単純な力仕事はフラトの持つ筋肉や体力に依存するので、得意かと言われればそうでもないのだ。

 万が一にも落とさないよう、丁寧にエンカを抱えたまま、ゆっくりとした足取りでフラトがナナメ達の下へ戻ると、ナナメとトウロウは、出しっぱなしにしていた丸太のところへ戻って、各々鞄から水筒を出して水分補給をしていた。

「すみません、丸太の椅子、お借りしてます」

 近付いてきたフラトに気付いたナナメが、小さく頭を下げながら言った。

「どうぞどうぞ。そんな畏まらず、好きに使って下さい」

「ありがとうございます」

 言いながらナナメは立ち上がり、

「下ろすの手伝いましょうか」

 と、自分も魔術の行使で疲れているだろうに、フラトの方へ寄ってきてくれたのだが。

「あ、ありがとうござ――は?」

「あ」

 ナナメが近付いてくるよりも早く、抱えていたエンカの片足がぐるんと大きく旋回してフラトの首に引っ掻けられた。

「いや、おい、てめ――」

 更にエンカの上半身もぐるんと回り、遠心力によってフラトの身体はあっという間に床に捻じ伏せられたのだった。

「ぐふぅぁっ」

 肺の空気が強制的に吐き出される。

 一瞬の硬直の隙にフラトは手を取られ、捻られ、関節を極められた。

「ああっ! お前、おい、トバク…………やめ、あ…………あああああああああああああ痛い痛い痛い痛い痛い痛い、馬鹿、解け!」

 ぎりぎりと関節が軋み、筋肉が歪む。

「ふう」

「何が、ふう、だ。気絶してたんじゃねえのか! 離せ! 一旦休憩、みたいな溜息吐き出してんなよ!」

「いや、疲れたなって」

「まあ、それはそうだろうね! まじでお疲れ様! ありがとう!」

「ん」

「どけ」

「んーん」

「首を横に振るな、いたたたたたたた! 気まぐれで絞るな! 言っておくけど滅茶苦茶痛いんだからな」

「もう疲れて動けない」

「この状態で!? 何でだよ!? だったら飛び掛かる前から疲れてたろうが。最後の気力を変な使い方すんじゃねえよ」

「はいはい」

「僕を面倒臭い奴みたいにあしらうな」

 そんな二人のやり取りを、目を丸くしていたナナメも今はくすくすと微笑ましそうに笑いながら見ていた。

 丸太に座り直しながら。

 いやいつの間に戻った。助けろ――とフラトは心の底から思う。

 トウロウはトウロウで、まるで関心がないかのように、あるいは見えていないかのように天井を見上げて長く長く息を吐き出していた。

 エンカ以外に唯一、甲冑の一撃を受けた人物。

 しかも残り二本になった腕から繰り出された強力な一撃を、だ。

 たった一撃とは言え、あんなもの受け止めるのは全身全霊だったに違いない。だから疲労困憊なのもわかる。

 しかし少しくらいは関心を向けてくれてもいいだろうに。

「くそ、この…………いや、固っ……………………んん、ぐっ、こなくそ」

 すったもんだ。

 ああだこうだ。

 身じろぎしつつ、少しずつ少しずつ――本当に微塵も動かなくなったエンカの拘束から這う這うの体で、フラトはなんとか抜け出すことに成功した。

「ふう」

 汗を拭いつつ、またしても床に仰向けで転がったエンカから離れて一息。

 と。

 フラトが床に捻じ伏せられた際に頭上から姿を消していた蜘蛛が、身体をよじ登って戻ってきた。

 そして定位置となった頭の上へ。

「お前、自分だけ逃げてずるいぞ…………ん?」

 愚痴を言っていると、蜘蛛から一本の糸が伸びてエンカの身体に巻き付いた。

「待て待て、何して――」

 転がったままなのにするすると身体の下も通して数周身体に巻き付けたところで、その糸に引っ張られ、エンカの身体が浮いた。

 さっきはかなりの速度で吹っ飛ぶエンカを、事も無げに足首に絡めた糸で引っ張ったりなどしていたわけだから、持ち上げるくらいはできるのだろうが、たった一本巻き付けただけの糸でとんでもない力である。

 純粋な力ならフラトよりも強いかもしれない。

 ここにきて新発見である。

 しゅるしゅる、とエンカの身体が浮いたことで糸の巻き付くスピードは更に上がり、あっという間に身体中をぐるぐる巻きにして、再び床に転がされていた。

 まるで繭のようになってしまった。

 そんな繭の中から――

「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁああぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあ」

 くぐもった変な声が聞こえてきた。

「これ…………一応、鼻と口のところ空いてますね」

 興味深そうにナナメが繭の傍らにしゃがみ込み、触ったり突いてみたりしながら言う。

「何だその気遣い」

「撚蜘蛛は確か、捕食前の獲物をこうしてぐるぐる巻きにして、その糸に麻痺毒を仕込んで十分に弱らせてから食べると聞いたことがありますけど…………」

 言いながらナナメがフラトの頭上に視線を向ける。

「え、食う気なのお前?」

 フラトも、見えはしないが視線を上に向けながら問うと、否定するように糸玉が投げつけられた。何故かフラトにだけ。

「違うみたいですね」

「けど、だったらこれ、どういうつもりなのでしょうか?」

 ナナメは試しにとばかりに、繭の表面の糸を指でつまんでぐいーっと伸ばしていた。

 その指を離すと、ぴちん、と勢いよく伸ばされた糸が元に戻る。

 がちがちに固められているわけではないが、これだけ巻きつけられたものをひっぺがして救出するのはかなり困難であり、手間だろう。

 どういう性質を付与して蜘蛛がこの糸を吐き出したにしても、まずナイフなんかで簡単に切れるような脆いものではないだろうし。

「まあ、撚蜘蛛の麻痺毒に関してはそれこそ、小さな子供だったり衰弱した老人だったりしない限りは、人に害を及ぼすような威力はないということらしいですが――」

 そもそも、とナナメは続ける。

「撚蜘蛛の麻痺毒は、その麻痺効果で直接的に相手を弱らせることを目的としてはいない、という説もありますからね」

「どういうことですか?」

「何もこの糸から針が伸びて、刺されて、体内に何かしら『麻痺』を引き起こすような成分を注入するわけではないということです。魔獣や魔蟲は人と同様に魔力を持っていると言われていますが、人の様に魔術を使うわけではなく、種族、種別ごとに特定の能力を使うとされています。撚蜘蛛の『麻痺毒』もその能力によるものらしく、巻き付けられた糸の内で接触部から麻痺毒の効果が浸食してくるようなイメージ、と言えば伝わりますでしょうか。つまり、ある程度の魔力さえ持っていれば、相殺させるような形で抵抗することができるんです」

「成程」

「なので撚蜘蛛側からすれば麻痺毒を相殺、抵抗されることはそもそも前提条件。ただそこで、こうしてぐるぐる巻きにして身動きを取れなくしていることに大きな意味ができるんです」

「逃げられなければ、ずっとその麻痺毒に抵抗し続けなければならない」

「はい、そういうことです。どれだけじわじわと僅かなものでも、魔力は有限。消費し続ければいつかは枯渇し、撚蜘蛛はただそれを待っていればいい。こうしてぐるぐる巻きに出来てしまった時点で、ほぼほぼ勝ちは確定してるってことですね」

「身体が大きいわけでもなく、かといって超攻撃的な特性があるわけでもない。それでも戦って食糧を得なければ生きていけない。蜘蛛なりの生存戦略なわけですか」

「ですね。といってもそもそも、撚蜘蛛は網を張ってそこで身動きの取れなくなった獲物を糸でくるむ、或いは徘徊しながら投網の様に糸の塊を吐き出して、相手の身動きを封じたところをぐるぐる巻きにする、といった方法を取るので、人間ほどの大きな獲物がぐるぐる巻きにされるなんてこと、まずないのですけれど」

 というかこれまで聞いたことありませんし、とナナメ。

「トバクさんほど多く魔力を有していて、あれだけの魔術行使、魔力操作ができるのであればたとえ気を失っていたとしても、普通の撚蜘蛛の麻痺毒くらい食らわない筈なんですが…………ましてや呻くほどのダメージなんて……………………」

「普通の撚蜘蛛なら、ですか」

「あー……………………確かにその子なら、普通に人くらい捕えてしまいそうな雰囲気が、どことなくありますね。でも、本当に捕食するつもりなら、鼻や口部分にわざわざ呼吸する為の穴なんて開けないでしょうし、じゃあ、これはどういうつもりのぐるぐる巻きなのか…………ちょっとわかりかねますね」

 勿論、フラトにもわからないし、心当たりなんてものもない。

 蜘蛛が説明してくれるわけでもなく、これ以上考えてもわかりはしないだろう。

 かといってそのまま転がしておくのも奇妙に過ぎるので、矢張り一度どうにかして解く必要があるか、とフラトが繭に手を伸ばそうとしたところで。

「んーんーんーんーんー」

 繭が唸りながら、ぐにんぐにん身じろぎするように転がって、二人から距離を取った。

「…………」

「…………」

 意味のわからなさに固まる二人。

 最初に口を開いたのはフラトの方だった。

「トバク、お前…………どういうつもりだ」

「んーんー」

 ぐねぐねと繭が気持ち悪く動く。

「いや、口のところ開いてるんだったら喋れるんじゃないのか?」

「まあね」

 普通に返答が返ってきた。

「じゃあ最初から普通に喋れや。んで、どういうつもりなんだよ?」

「この痺れ具合が下手なマッサージよりも気持ちいいから、ちょっと暫くこのままでどうぞよろしく」

「…………」

「…………」

 フラトとナナメは無言で目を合わせ、静かに丸太に座り直した。

 少しでも心配したのが阿保らしい。

「取り敢えずトバクもこんなだし、ここで一度しっかりと休息を取りましょう」

 なんだかんだ言って。

 なんだかんだふざけているように見えはするが、エンカは疲労困憊の筈なのだ。

 じゃなきゃあんな風に――いやどんな風にだって話だが、蜘蛛の糸に巻かれながら、貴重な時間を消費しようなぞと思わないだろう。

 多分…………、思わないよな?

 いや、なんか面白そう、くらいのノリでするかもしれない。残念ながら。

 まあ彼女のことはさて措き――疲労しているのはエンカだけに限らない。

 今もって全身で疲れを表しているかのようなトウロウは勿論、ナナメだって石突の数字を見破るのに何かしらの魔術を行使し、それだけでも床に膝を突くほどだったのに、更にそこからエンカを救うためになけなしの魔力をふり絞っていた。

 皆、休息が必要な筈だ。

 フラト以外は。

「……………………」

 もうなんていうか、本当に――何もしていないのが自分だけで罪悪感というか焦燥感みたいなのが凄い。

 冷や汗が背中を大量に流れているかのような悪寒。

 元から大して戦力になれないのは想定済みと言えば想定済みだが。

 なのだが…………。

 実際に周りが活躍し始めてしまうと、思うところがないでもなかった。

 まあまあ気まずい。結構肩身の狭さは感じている。

 そんなフラトの様子に気付いたのか、ナナメがフラトの方を見て口を開く。

「あの、ほら、あれです…………この丸太とか、レモン水とか」

「おい、それでフォローしてるつもりなのかタナさんよ」

 つい強めに言ってしまった。

 惨めである。

 フラト・ホウツキ。

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