第十三話

 翌日。

 早朝――というか深夜というか。その狭間の曖昧な時間帯。

 起きてシャワーを浴びて歯を磨き、身支度を整えつつ窓を開けると、外はまだ薄暗く、空気も幾分ひんやりしていた。

 午前四時ちょっと前、そろそろ言われた集合時間である。

「…………」

 扉に向かいながら未だにじんじんする額を擦る。

 昨日の自由時間――結局ベッドで寝落ちしてしまったフラトは、エンカが再びノックもなく扉を開けて部屋に這入ってくるまでぐっすり眠っていた。

 自分で思うよりもずっと、疲れていたのかもしれない。

 身体的にというよりは精神的に。

「鍵くらい掛けてから寝なよー」

 エンカの言う通りである。

 流石に部屋に誰か這入って来れば寝ていようと気が付く、勝手に意識は覚醒するが、とは言え、不用心過ぎた。

 ごめん、と言おうとしてしかし――上手く言葉が出なかった。

 というか目を覚ましたはずなのに目の前が真っ暗なままだった。

 電気すら消さずに眠ってしまったはずなのに。

 しかも――それどころか。

 腕も胴体に、そして両足同士もくっついてまるで動かない。

「もう、いつまで寝てるのホウツキ。お腹空いたし、行くよー」

 そんなフラトの状況にまるで疑問を持たない様子のエンカにより、問答無用でベッドから引き摺り落とされそうになったところ、咄嗟に、そのまま後頭部を打ち付けるのはまずいと身を捻ったのだが、そのときに、後頭部の代わりに顔面を、特に額を強打したのだった。

 因みに――言うまでもなく。

 フラトが仮眠している間に糸でぐるぐる巻きにして拘束したのは蜘蛛である。

 意趣返しに夕飯を野菜だけにしてやったら案の定、部屋に戻ってから喧嘩になったのだが、その壮絶な死闘は割愛しよう。 

 実にしょうもなかった。

 結果として、フラトの亜空間収納の中に大量の蜘蛛の糸玉が追加されたのだった。

「お、おはようさん」

 フラトが階段で一階まで降りると、既に受付前にいた大男――オーナー兼料理長に気さくに挨拶をされたので、

「おはようございます」

 フラトも挨拶を返しながら、男の傍まで行く。

「すみません、遅かったですか?」

「いんや、なんなら少し早いくらいだから気にするな。昨日は仕込みの途中だったからさ、ろくに自己紹介もせずに悪かったな。俺はカシキ・マネキノ。聞いたと思うが、この宿のオーナーで料理長をしている。宜しくな」

「僕はフラト・ホウツキです。こちらこそ宜しくお願いします」

「おお。それでな、一応――」

 とそこで一旦言葉を区切ってカシキはきょろきょろと辺りを見回してから、声を抑えてフラトに言う。

「見せてもらってもいいか?」

「? …………ああ」

 カシキが何を言っているのか察したフラトは、指輪を嵌めている右手をすっと胸の前まで掲げた。

 すぐさま、掲げた右手の前に黒い靄が発生。

 昨夜の壮絶(にしょうもない)極まる喧嘩の後だったので、もしかしたら起動しないんじゃないかという不安があったが、こういうところはちゃんとしてくれるらしい。

 恐らく、下手なことをしてフラトが怪しまれでもすれば、自分の食糧事情も危うくなると踏んでのことだろう。

 小賢しい。

「おう、確認した。ありがとな」

「はい」

 頷いてフラトは右手を下げた。

「悪いな無駄に魔力を使わせちまって。一応、向こうに行って実は使えません、なんて言われても困るからさ」

「いえ、大丈夫ですよ」

 そもそも自分が使ってるわけでもないので、と心の中で付け足すと、そんな心が見透かされたのか、頭上から糸玉が投げつけられた。

 しかもとげとげが付いていてまあまあ痛かった。

 昨日の夜から、こんな風に形状にもバリエーションを見せるようになってきており、何がどう切っ掛けとなって作用しているのかは知らないが、蜘蛛も蜘蛛で成長しているらしい。

 ほんとしょうもない。

「なあ…………」

「何でしょう」

「いや何でしょうって…………それ」

 とカシキがフラトの頭の上を指差す。

 昨日何も言われていない時点で、魔蟲を連れ込むこと自体が厳禁というわけではないのだろうが、矢張り珍しくはあるのだろう、と他人事のように思う。

「お洒落ですよね」

「は?」

「お洒落ですよね」

「…………まあ、お前さんがそれでいいならいいけどよ。見る限り落ち着いてるし、何か悪さをしそうにもないっぽいし」

 よし。

 矢張り通じる。

 何故通じるのかはわからないが。

 深く関りたくないという、ある種の拒絶反応なのかもしれないが。

「んじゃまあ、行くとするか」

 宿を出て行くカシキの後について、まだまだ薄暗い道を歩く。

「ほれ」

 歩きながらカシキがフラトに向かって放り投げてきたものを咄嗟に受け取った。

 銀色の包みで丸められたそれは、ほんわりと温かい。

「これは?」

「おにぎりだよ。中身は出汁に使ったおかかと昆布を醤油で煮詰めた簡単なものだけどな。朝飯まだだろ?」

「もらってもいいんですか?」

「ああ。これくらいはサービスだよ。というか俺の分を作るついでだからな、大した労力じゃない。遠慮なくもらってくれ」

 言いながらカシキが手に持つ自分のおにぎりの包みを開いてかぶりつくのを見て、フラトも同じようにかぶりついた。

「うまっ」

 出汁に使われた後とはいえ、おかかと昆布にも風味がちゃんと残っていて、空きっ腹にはとても幸福な味がした。

 お米自体もほんのり甘くて美味しいし、お弁当として売られていても不思議ではないと、冗談抜きで思う。

 夢中でかぶりついていたら、カシキが鞄に入れて持ってきていた水筒からお茶まで入れて出してくれたので、それをもらって胃に流し込んだ。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様」

 お腹を満たしつつ、少しずつ明るくなってきた道を進んでいくと、早朝から賑わいを見せる市場に到着した。

 道中、あんなにも静かだったのが嘘のように、人が沢山行き交い、言葉が飛び交っている。

 カシキが自然とその中に混ざっていくのにフラトもついて歩き、次々と購入された食材を手に持ち、仕入れが全て終わったところで亜空間収納を起動して、全て中に入れた。

「いやあ、助かったよホウツキ君」

 市場の中を一時間程歩き回った後、カシキが満足気な顔で言った。

「いえいえ。美味しいおにぎりもいただいたことですし」

 実際フラトがやったことなんていつもより早起きして、おにぎりもらって、買い物中の荷物持ちをしたくらいである。

 その亜空間収納の魔術だって起動しているのが自分ではないので、お礼を言われるとなんだかちょっと申し訳に気持になるフラトだった。

「仕入れも勉強したいって言っていつもは娘がついて来るんだがね、あいつにあまり重いものを持たせるわけにもいかないし」

「娘さんって、あの受付の人ですか?」

「そうそう」

 家族経営だったらしい。

「この通り、俺がこんなんだからなあ」

 言いながらカシキが自分の身体を見下ろす。筋肉質でガタイのいい身体を。

「別に普段から筋トレとかしてるわけじゃないんだぜ?」

 おどけた様にカシキは言うが、フラトはそれを目を眇めて無言で見つめ返した。

「そんな嘘吐きを見るような目を向けるなって。本当なんだから。筋肉が付きやすい体質らしい」

「体質にしてはごつ過ぎません?」

「まあ俺だってそう思うけど、そうなんだから仕方ねえだろ。んでまあ、もし娘にもそんな体質が少なからずとも遺伝してたらと思うとさ」

「成程」

「定期的に重いものを持つようなことを繰り返してたら、俺みたいになっちまうかもしれないだろ」

「流石にそこまではならないでしょうけど…………」

 しかしまあ――カシキ程にはならなくとも、女性としてはガタイがよくなってしまうかもしれない。

 ということで、娘さんと二人で来ても普段はほとんどをカシキが持つことになる為、こうして自分で何も持たなくていいというのは、かなり楽に感じるらしい。

「それにしても、まあ今更なんだが、良かったのか?」

「何がですか?」

「その亜空間収納の魔具を堂々と人前で使うことになってしまったことさ」

「ああ…………」

 そういえば、あまり人前に晒さない方が良かったんだったか、とそれこそ今更フラトも思い出す。

 思い出しはするが、そもそもこの手伝いをするように仕向けてきたのがそれを言ってきたエンカなのだ。

 どうしようもない。

「まあ大丈夫じゃないですかね」

「気楽なものなんだな。普通はそんな貴重な魔具は持っていたとしても、人目に晒したくないものだと思ってたんだが」

「確かに、起動してからというもの、あっちこちから物珍しがるような視線を送られてきてはいますが」

「だろ。だから普通は宿なんかでその特典を利用したりはしないんだよ」

「え、じゃあ――」

「そ。ほとんどどこでも形骸化したサービスみたいなもんだよ」

「形骸化…………ですか」

「ああ。結局、どこで特典を利用するにしてもその魔具の特性上、今日みたいに市場に来て仕入れの手伝いってのが結構オーソドックスだが、今日、他にホウツキ君と同じように亜空間収納を起動している奴を目にしたか?」

「してないですね」

「あれだけの人混みだからな、どうしたって人の目から隠しての起動は難しい。必ず人目に付く。人目を引く。そんなところでは、使いたがらないってのが普通だと思うぜ」

「そりゃ、そうですよねー」

「それに、そんな希少な物を持っているってことは、大体その持主はかなりの実力者だからな。わざわざ特典を受けずとも、割引なんてなくても、問題なく支払えるだけの財力があるんだよ」

「へえ…………」

 フラトは遠い目で相槌を打った。

 つまるところ――そんな形骸化したサービスを利用しているフラトは実力はあるのに財力のない散財癖、浪費癖のあるゴミ人間か、棚ぼた的にとんでもないものを手にしてまんまと目先の利益に飛びついた考えなしの阿呆ということになる。

 恥ずかしいことこの上ないなと二日連続で顔を覆いたくなるフラトだった。

 何せ、どんな理由にしろ傍から見れば変な奴には違いないのだから。

 いや――まあ。変な奴と言うならそれ以前に、撚蜘蛛なんか頭に乗せている時点でって話なのだが。

「どうした? 気分でも悪くなったか? 顔色悪いぜ」

「いえ、何でもないです」

 傍から見れば、事情を知らなければそんな変な奴でしかないフラトにここまで親切に、優しくしてくれるのだからカシキはいいおっさんに違いない。

「まああんなおにぎり一個じゃ腹は満たされないよな。悪いなあれくらいしか用意してやれなくて」

「いえいえ別にそういうことじゃ――」

「もしうちの宿で朝食を食べていくなら美味いのは保証するし、娘にはあんたの分大盛にしてやるように言っておくからよ」

「はあ…………ありがとうございます」

 なんだか勘違いされているようだが、まあ、大盛は普通に魅力的なのでわざわざ訂正はしないことにした。

 とまあ。

 そんなこんな話しながら帰り道を歩いていたら、あっという間に宿に戻ってきた。

 そのままカシキの先導で厨房まで行き、指示の通りに市場で購入したものを亜空間収納から取り出して大きな調理台の上に置いていく。

「おし。全部あることは確認した。ありがとな、助かったよ」

「いえ、こちらこそ。おにぎりありがとうございました。美味しかったです」

 特典の対価としての労働だったのに、食事までもらったのだから、わざわざお礼を言われるようなことではない。

「あの、それでもし良かったらなんですが――」

 とフラトはカシキに相談を持ちかけた。

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