犬男の悲哀

銀ビー

第1話

 闇の中、狭い部屋をゴソゴソと動き回る四足歩行の怪しい影。


 時折「ウウウ…」という悲し気な唸り声が響く。


 その影はゆっくりとした動きで台所の冷蔵庫に近づいて行く。


 漸く辿り着いた冷蔵庫の前で震える前足で器用にその扉を開けた。


 庫内灯の灯りに照らし出されたのは一人の男だった。


 冷蔵庫からペットボトルを取り出すと美味そうにゴクゴクとその喉を潤す。


「はぁ〜、生き返った」


 そう呟いたのはこの部屋の主。


 その姿はとても人様に見せられる状態ではなかった。


 何しろ辛うじてTシャツは着ているもののパンツすら穿いていないのだ。


 ナニがブラブラしている。醜い事この上もない。それはまるで動物のようだ。


 この男が何故こんな姿で部屋を四つん這いで動いているのかを説明するには時を遡らねばならない。


 それは昨日の昼前だった。


 男は昼飯を買いに外に出ようとTシャツにGパンというごく普通の恰好で靴を履こうとしていた。


 だがその時には不幸はその背後まで迫って来ていたのだ。


 踵をスニーカーに入れるために屈みながら右手を斜め後ろへと伸ばした瞬間だった。


『ピシッ』


 実際には聞こえていないだろうが男には何かが壊れる音がハッキリと聞こえた。


 突然疾る鋭い痛みと同時に膝の力が抜けて男は玄関に崩れるように蹲った。


「えっ!?」


 男は何が起こったのか全く分からなかった。


 ただ一つ分かっているのは全く身体が動かせない事。いや、動かせはするのだろうがそのためには腰の激痛に耐えなければいけないのだ。


 予備動作としてほんの少しでも重心を移動させようとするだけで稲妻の様な激痛が全身を貫く。


 男は脂汗を流しながら拍動の度に伝わる鈍い痛みを玄関に蹲った姿勢のままジッと耐えるしかなかった。




 そう、これは都会に暮らすありふれた男のギックリ腰との孤独な戦いの記録である。





 そうして頭を上げて首が振れるようになったのは既に夕暮れの頃だった。外からは定時のチャイムが聞こえてくる。


 そこから更に時間をかけて時折襲い来る鋭い痛みに耐えながら少しずつ上体を起こしていく。腕の力を必要としない位置まで上体を起こせたときには既に辺りは暗くなっていた。


 痛みに耐えるために全身に力を入れていたのだろう。背中の筋肉はバキバキに固まっている。半日も同じ姿勢を続けていれば無理も無い事だ。


 だがそこに留まる事はできなかった。


(とにかく横になれる場所まで移動しなければ)


 男は不意に襲い来る痛みに怯えながら玄関に正座した状態で体の可動範囲の確認を行っていく。


(右腕OK、左腕OK。肩も小さな動きならOK。首の左右はゆっくり動かせば大丈夫。でも上下はNG。上体の捻りは最小限だな)


 壁に手を突き膝立ちになろうとするが痛みがそれを邪魔する。


 男はそこで方法を変える事にした。せっかく持ち上げた上体を再び前方に倒して両腕でそれを支える。土下座の頭を下げる前のような姿勢だ。

 そこからジリジリと尻を上げ、床に突いた掌を少しずつ前方へとずらしていく。


 重しの無くなった膝から先の血流が勢いよく復活しジンジンとした痛みと共に足の感覚が生きている事を教えてくれる。いや、痺れただけだけど。


 男は出来るだけ腰に負担をかけないように腕で上体を支えながら足の痺れが回復するのをじっと待つ。ここまで半日を費やしたのだ。五分や十分待つなど大したことではない。


 痺れの感覚が抜けてから膝を支えに足首を持ち上げて長時間の正座で固まった足首を解していく。


(うん、膝から先は大丈夫そうだ)


 そこまで確認できた男は次の行動に移った。


 二本の腕で支えていた上体を上腕二頭筋で調整しながらゆっくりと床に近づけていく。怠惰な日常を過ごしてきた上腕二頭筋と大胸筋が震えるが耐えるしかない。床へのソフトランディングに成功したら今度は頭で体を支えて腕を前方へと送り出し体を少しずつ滑らせるように前方へと伸ばしていく。この時、力が後方へ逃げないように足首を直角に曲げ足の指を立てておくのを忘れてはいけない。


 そんな事を何度か繰り返して玄関から続く廊下を抜けて居間に辿り着いた所で男は力尽き泥の様に眠りに落ちた。




 男が再び目を覚ますと世界は変わらず闇の中だった。ベランダからの僅かな街の灯りだけが室内を照らす。意識を失うように眠っていたのはどのくらいだったのだろう。ほんの数分なのか何日も前なのか。あの苦しみは悪夢だったと思いたい男の微かな希望は上体を起こそうとした瞬間に儚く打ち砕かれた。


『ピキーン』

「オオッッッ!!」


 腰から全身に奔る鋭い痛み。

 男の口からは思わず悲鳴にも似た叫びが漏れる。


 再び脂汗を流しながら痛みに耐える事数分。何とか四つん這いの姿勢を取る事に成功した。そうまでして態勢を変えたのには当然意味がある。


 トイレに行きたい。


 男は痛みに耐えながら尿意にも耐えていた。弱り目に祟り目である。


 今が何時かも分からないが半日以上排泄行為を行っていない。膀胱がキャパシティーを超えるのは目前だった。


 普段ならほんの数歩で移動できる距離をジワジワと数分をかけて進んだ。足の指を立て床に踏ん張りながら少しずつ前方に体をズラしていく。膝がある程度伸びたら今度は掌で体を固定しながら足首の動きを使って膝を前に進めていく。これを繰り返す事によって僅かながらでも前進する事ができる。前を見ようと頭を上げると痛みが奔るので視線は床を見つめるのみだ。


 そうして辿り着いたトイレの扉を開け、トイレに設置されている手すりを掴んで何とか体を便座の上へと引き上げた。トイレの壁の手摺には人生で最大の感謝を捧げたい。人としての尊厳は君のお陰で保たれたのだから。


 既にGパンとパンツは膝の上まで下げている。後は欲望を解放するだけ。あまりの解放感に思わず嘆息が漏れる。何とか着座姿勢を保ってはいるものの拍動に合わせてズクンズクンとリズミカルに鈍い痛みが続いている。


 一時の解放感に身を委ねたのが拙かった訳でもないだろうが次なる問題がすぐに訪れた。


 立ち上がれないのである。


 人は椅子から立ち上がる時に僅かに重心を前に移さねばならない。額を指で押さえられると立ち上がれなくアレである。前に屈めないので座った拍子に足首までずり下がっているGパンもパンツも上げられない。


 さてどうするかと一応悩んではみたが早々に諦める事にした。どうせ誰もいないんだから問題はないだろう。自室では裸族の人も結構いるらしいし。


 膝から下の自由は利くので足の指を使って何とかGパンとパンツを足から抜いた。この際、見てくれよりも足の自由を優先するしか選択肢はなかった。


 腰の角度を変えると痛みが疾るので腕の力だけでゆっくりと慎重に体を引き上げ、そこから再びゆっくりと移動を始める。


 腰に振動を与えないように上半身をなるべく動かさずに小さな歩幅でソロリソロリと動くさまは窓からの明かりに照らされまるで闇を彷徨うゾンビのようだ。


 この光景を部外者として目にしたなら間違いなく叫び声を上げるだろう。


 いや、下半身がフルオープンな段階で人に見られれば案件でしかないのだが。


 せっかく立てたので二足歩行を試みるがやはり上手くない。足を上げる事ができないのだ。つくづく人間は普段から無意識に絶妙なバランスで重心移動を行っている事を思い知らされる。


 仕方がないので廊下の壁に手をつきながらゆっくりと四つん這いの姿勢へとトランスフォームを敢行する。


(喉が渇いた。腹も減ってる)


 そもそも昼飯を買いに出ようとしていたのだ。何か口にれないと体力が保たない。


 辿り着いた台所で冷蔵庫を開けて熱中症用にと買っておいた経口保水液とゼリー飲料をGETする。


「はぁ〜、生き返った」


 一息つけて余裕が出来たのかベッドサイドの引き出しに入れてある薬の中に以前別件で処方された痛み止めがあった事を思い出した。


 次の目的地は寝室に決定した。

 数分のインターバルを経て男の次なる旅が始まった。


 四つん這いでの移動にも大分慣れてきた。人間の脊椎は緩いS字を描いている。背筋を伸ばし腰椎の前弯部分に負荷がかかった時に痛みが発生している疑いがある。そこで男は意識して猫背の体勢を維持することで痛みの発生頻度が下がる事を身をもって学習していた。これにより男の移動はかなりスムーズに行えるようになっていた。


 そして辿り着いた目的の地で引き出しの中身をぶちまけながら探し出した薬を服用する。確か一回一錠と言われていた気がするが痛みに負けて三錠飲んだ。オーバードーズである。服薬は用法容量を守りましょう。


 そして男は薬が効いてくれることを祈りながら外の景色が白み始めた事も気づかぬままカーペットの上で再び眠りに落ちた。人に戻れることを切に願いながら。



 




 

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犬男の悲哀 銀ビー @yw4410

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