第43話

「できたよ。姉さん」

 悪趣味な〈遊び場プレイルーム〉で、白衣姿の少女が小さな瓶を二つウェルメに手渡した。久悠に渡すための混合溶液だ。この溶液があれば、二匹の竜の遺伝子は暗号化される。

「ありがとう、シェアリア」

「でも、確実に成功するかは――」

 シェアリアは、部屋の隅で未だ生き続けている樹木化したハムスターを見つめる。ウェルメは、そんな不安そうな研究者を豊満な胸で抱き、優しく額にキスをした。

「きっと大丈夫よ。それにもし暗号化がうまくいかなかったとしても、それはそれとして考えましょう。無理なお願いをしているのは私なんだから。竜ちゃんたちは可哀相だけど、でもそれは私の責任」

「……うん」

「あともう一つ、シェアリアに相談があるの」

「また?」

 もう嫌だとばかりに、シェアリアはウェルメの胸に顔をうずめた。彼女はウェルメの敏感な場所を十分に熟知しているから、服の上から胸を鷲掴みにしてピンポイントで刺激を送り、ささやかな抵抗をしてみせる。

「今度はバイオテク関連の相談じゃなくて」色っぽい声を漏らしつつ、ウェルメは続けた。「そろそろ計画を実行しようかなって」

 シェアリアの悪戯が止まる。

「計画……。もしかしてあの計画のこと?」

「そう」

「でもそれはヒトゲノムの遺伝子暗号化技術を確立してからの話じゃなかったの。今の進捗からすると、まだ――」

「臨床試験には程遠いってことはわかってる。でも、この瓶の届け先には竜の未来がある。それはつまり、あなたにも未来があることを示している」

 ウェルメはそう言うと、紋白端末上に二枚のチケットを表示させた。

「これは?」

「静止軌道ステーションに繋がるリニアクライマーの搭乗券。今度、人工生物に関連する国際フォーラムが開かれる。私はペット竜関連企業の人間とでも名乗って、そこで私は意中の相手と接触する。そこでうまく話が進めば、仲間が見つかれば、この招待券で下見に行ってもらう予定。無重力環境においてペット竜の同伴が可能なのか専門家の知見を伺いたい、なんてテキトーな名目を添えてね」

「それじゃあついに。叶うってことだね」

「そう。ついに叶うよ」

 ――火星への、私たちの逃避行が。


 それからウェルメはマイナ経由でリュウとアオの混合液を久悠へと届け、同時にノルウェーの首都オスロで開催された国際フォーラムでレクトアと接触した。フォーラム参加者は他にも宇宙物理学からナノサイエンスまでありとあらゆる分野の科学者が集まっており、聞くところによると、このフォーラムは、科学的に権威のある賞に付随されるものらしい。ウェルメはスカンディナヴィア半島の隅に位置するこの国の賞のことはよく知らなかったが、ハチソン機関研究、紋白端末開発、火星開拓における最新技術、宇宙基地トーラスについてなどなど、ウェルメでも聞いたことのあるテーマについて最新の情報が共有されていた。とはいえ、話の内容は専門性が高すぎて、彼らがなにを話しているのかわからなかった。そのフォーラムで、レクトアはゲスト枠として人工生物保護に取り組む活動家として演説をおこなっていた。人工生物の未来をどのように切り開くのか。それは地球上で達成可能なのか。いや。もうそれは不可能だと彼女は落胆していた。しかし次の瞬間には顔を上げ、希望に満ちた口調で聴講者に訴えた。

「竜が自由を得られる手段が一つだけあります。火星です。火星の竜の爪痕マリネリス・コクーンは、今、開拓者の惜しみない努力によって花や緑に溢れています。そこには空気があり水があります。それらを維持していくためには生態系が必要です。地球のそれはすでに確立され、環境破壊が進む中ですら完璧なまでの効果を発揮していますが、火星は違います。まだ確立されていない生態系にこそ、竜たちの生きる余白が存在します。私は、火星における竜の野生化及び繁殖について提唱します。竜は、火星でこそ自由になれるのです」

 彼女の力強い演説は、参加者のスタンディングオベーションを呼んだ。質疑応答は過熱し、レクトアが降壇してからも彼女を呼び止め個別に質問しようとする参加者が後を絶たなかった。

「竜の繁殖は可能と思いますか? 〈メチルロック〉を解除するですか? それとも、火星用の固有の竜種を作成するということですか?」

 中国訛りの日本語で、一人の科学者が彼女に問いかけていた。国際言語よりも母国語の方が反応してもらいやすいと踏んだのだろう。その人物の読みは当たりだった。レクトアは足を止め、その人物と意見交換をはじめた。

 私も真似しちゃおうかな。同じ国で暮らしていながら、わざわざ海外のこんな地図の隅っこにまでやってきたのだ。現地で話すよりもこういった場で接触した方が話は格段に早い。信用もされる。しかしそもそも、話ができなければ意味がない。レクトアが再び移動を開始したところで、ごった返す大衆の中、ウェルメはレクトアに声をかけた。

「久悠ちゃんがお世話になっています」

 ごめんね久悠ちゃん。ちょっと使わせてもらうわね。

 そしてにこにこ笑顔で話しかけたウェルメに、レクトアは振り向いたのだった。


  *


 火星へ行く。

 それも、複数の竜を引き連れて。

 夜のゴルフ場でそれをレクトアから聞いた時、久悠はにわかには信じられなかった。

 一体どうやって。

 物理的にも資金的にも一大プロジェクトであるはずだった。

「連れていくのは、所属のない竜。そのほとんどは保護竜だね。だからリュウとアオも対象になるはずだよ。ACMSに問い合わせたから間違いない」

「そうなのか?」久悠は顔を上げた。「この二匹はラツェッドが」

「公的な取り扱いとしては、ACMSが管理している状況。そもそも問い合わせ先の人は、ACMSが保護したリュウとアオを職員が善意で引き取っていることを知らなかったよ。だからそのラツェッドって人の動きはたぶんACMSの非公認だと思う。つつけば問題が出てくるかもね。とにかく、今回のプロジェクトのためにリュウとアオを私たちが引き取ると申請すれば、ACMSに断る口実はない。利権的なしがらみでこの二匹をお仲間のだれかに流したいと考えている人もいるかもしれないけど、こっちは国際的な流れの中で動いている。世界に対して情けない動きを晒すわけにはいかないと思う」

「国際的な流れ?」

「レクトアちゃん、この日のために世界中の科学会議を巡行してスポンサー集めに勤しんでいたのよ」ウェルメがニコニコとレクトアを褒めた。「凄いわよね。物理的にも資金的にも、火星に向けた準備はもう整っているの」

「久悠くんも一緒に行ったよね。静止軌道ステーション。そこから月宇宙基地を経由して火星に向かう。竜や私たちは遺伝子の冬眠スイッチを起動エピジェネティクスさせて、数週間の惑星間航行をする。竜も、ウェルメさんのクローンちゃん――シェアリアちゃんも、その世界で火星開拓事業に従事しながら、だれにも束縛されない生を営む」

 赤い大地。赤い空。そこに咲く花々の中、人間と竜が自由に遊ぶ光景を久悠は思い浮かべた。その空想に向け、世界は――レクトアは動いているというのか。

「すごい」

 久悠は端的かつ的確にレクトアを称賛した。

「すごい」

 同じ言葉を繰り返す。久悠の心は震えていた。自分が情けない時間を過ごしている間に、この女性はなんてことを成し遂げようとしていたのか。かつて彼女のすべてに触れていたはずの久悠だったが、彼女の信念にまでは触れられていなかった。彼女はすごい人物だった。手を伸ばせばきっとまた触れられる。その身体のすべてを感じられる。しかし、だからこそ、久悠は――

「リュウとアオを頼む」

「え?」レクトアが久悠の思わぬ反応に聞き返す。

「アオの飼い主はあんただ。リュウはできればおれが飼いたいが、今のおれにその力はない。だからあんたに任せたいんだ。二匹を火星に連れて行ってやってくれ」

「久悠くんも一緒に来てくれればいい。火星に行けば竜たちは自由になるけど、慣れない環境にストレスも抱えやすい。どんな竜にも好かれる久悠くんは竜たちにとって必要な存在」

「ありがとう。だが、おれは火星には行かない。少なくとも今は行くことができない」

「どうして」

「この星でまだやることがありそうだからだ。少なくともラツェッドが火星にまで手を伸ばすことがないよう対処する必要がある。それに、この星にはまだまだ暗い森の中を彷徨っている竜がたくさんいる。おれはそういった竜を救う方法を考えたい。猟銃はもうないしな」

「……そう」

「ねぇお姉ちゃん」とシェアリアがバハムートの上からサラサラの髪の毛を垂らしつつ声をかける。「そろそろ出発しないと。予定の時間からかなり遅れちゃってる」

「あら。急がないと〈雲の糸〉で他の竜ちゃんたちと同流できなくなっちゃうわね」

「久悠くん」

 レクトアが久悠を見つめる。

「いつか、会いに行くよ」

 そう言って、レクトアからの最後の誘いを久悠は断った。

「そう。……うん。絶対に会いにきて」レクトアは頷いて、ウェルメと共にバハムートの背に乗った。「野生の竜を保護したら、私が居たシェルターに連絡して。そこから定期的に火星に向かう便が出る予定だから」

「わかった」

 レクトアが大型竜の背に乗る。

 バハムートは赤い瞳で久悠をジッと見つめていたが、レクトアの合図を受けて夜空を見上げ、翼を広げると、大きくそれを羽ばたかせた。激しい風が巻き起こり、その巨体が宙に浮く。

「またね。久悠くん」

「ああ」

 バハムートはさらに高く空を飛び、やがて夜空の暗闇に黒い鱗を溶かしていった。久悠はしばらくその姿を追って見送っていたが、ほどなくして見失ってしまった。風が木々を揺らすごとに竜が引き返してきたのかと振り返ってみるが、そんなことはなかった。

 少しだけ、風が冷たくなってきていた。

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