第17話
「相変わらず、悪趣味な場所」
車から降りると、ヒールのかかとが枯れた草を貫く。かつてここは巨大な児童買春集団が運営する〈
「こんなところを好む君もな」と、白い瞳の男も車を降りた。
「私はなにも好んでいない」
「君の分身がここを選んだんだ。君が選んだと言っても相違ないさ」
「生物の遺伝子は常にエピジェネティックな変化を繰り返しているの。たとえDNAが全く同じ一卵性の双子でも、内的因子や外的因子によって有効化する遺伝子の
人の気配を察してか、その彼女が建物の中から現れた。
「姉さん!」
「久しぶり、シェアリア」
研究用白衣を纏った少女が白い布地の裾を靡かせながら走り、ウェルメに抱き着いた。同じ肌色、同じ髪色。笑顔を見せる彼女――シェアリアの顔立ちはあどけないながらウェルメと瓜二つだった。まるで昔の写真を見ているみたいと毎度のようにウェルメは思うが、しかし、それにしては彼女の目の奥は深く暗く沈み込んでいた。あたりまえだ。彼女は物心ついた頃から組織に性的な道具として育てられてきた。彼女の振る舞いはすべて顧客を喜ばせるためのものだ。当時、子役アイドルとして活躍していたウェルメのDNAをどこかのクズがこの場所を根城とする組織に持ち込み複製を依頼、そしてそれは実行された。見知らぬ女性の子宮か人工子宮かは知らないが、その中で胎児として成長し、一〇ヶ月ほどで生誕。そして九歳から十六歳になるまでの間、彼女は性玩具として組織の教えを実践する暮らしを強いられていた。酷い辱めを受けるためだけに生み出された私のコピーが、今はその地獄から解放され、笑っている。その奇跡が愛おしくて、ウェルメは彼女を強く抱きしめた。
「痛い、痛いよ」
「あら、ごめんなさい。久しぶりだったから、つい」
抱き合ってクスクスと笑い合う同じDNAの二人。
「人って、自分の匂いってわからないじゃない。でも私は確かにシェアルの匂いを感じているの」
「私もよ、姉さん。ずっとこのままで居たいなって思える、すごく不思議で危うい匂い」
顔をほてらせ、二人はゆっくりと唇を重ねた。探るように相手に入り、互いに舌を絡ませ合う。その仕草が激しくなりかけたところで、ふと、ウェルメは顔を引いた。唾液の糸に引っ張られるように、シェアリアがわずかに声を漏らしてその後を追おうとする。
「シェアル。今日はお願いがあってきたの」
「なぁに。駆け引きなら応じないから」
「研究はどう?」
「順調……と言いたいところだけど。大きな壁に衝突中」
「具体的には」
「
ウェルメに抱き着きながら言ったシェアリアの言葉はどこか神妙だった。
二度と自分のような被害者を生みたくないと考えたシェアリアは、現在、生物の遺伝子を後天的に暗号化させるための物質を発明しようとしている。
細胞分裂によってDNAが複製される際、DNAを作る四種の塩基による二重螺旋構造は一度引き剥がされ、それぞれ独立した塩基列の紐になる。独立した塩基列の紐には
「混合調整物質の働きは問題なさそうなんだけど、DNAを任意の物に挿入する成功率が低いということが今の課題なの。キャス9が切断してすぐに任意の塩基配列が挿入されればいいんだけど、自然修復と人工塩基列の挿入が並列して行われてしまった場合のカオス化によってこちらが狙った以外の変異が起こってしまって、無秩序な異常コピーは連続して、最終的にそれは
「肌が青くなったり、目からビームが出たりする?」
「そういう変化で済めばいいんだけどね。来て。あれ、なにかわかる?」
シェアリアはウェルメの手を引いてロッヂの中へと移動した。内部には大きなベッドやX状の磔台、三角木馬、そのほか多様な拷問用具が並べられている。そんな部屋の中で彼女が指さしたのは、部屋の隅にある、蔓植物のようななにかだった。鉛筆ほどの太さの蔓が無数に絡みついて床から天井に伸びて、点々と葉を生やしている。一見して植物のようではあるが。
「触ってみて」
「……温かい」
「そう」
「これは、動物?」
「正解」と、シェアリアは笑った。「ハムスターに混合調整物質を投与したの。そしたら二週間目に身体から芽が出て一日一センチ以上のペースで成長をはじめた。ケージで飼えなくなったから放し飼いにしてみたんだけど、やがて部屋の隅で運動能力を失って――つまり動物としての死を迎えて、でも今はそこでそうやって成長を続けている」
「エサはどうしてるの?」
「ちゃんとあげてるよ。ほら、そこに口があるから、ヒマワリの種と水を適宜。はじめは混合調整物質も経口投与してて成長も無秩序だったんだけど、その投与を中止してみたら一ヶ月ほどで細胞は安定と統一性を取り戻して、葉を生やしてる」
不思議な蔓生物の根元にこぶのような毛の塊があり、そこからげっ歯類特有の前歯が小刻みに動いている。
「それで、肝心の遺伝子は」
ウェルメが言うと、シェアリアは得意げな顔をした。
「暗号化はできている。そういう意味では混合調整物質の発明は成功と言えるかな。この変態化さえなんとかすれば、人間にも投与できる完璧なものになる。はじめは皮下か筋肉への注射を何回か実施して全身にゆっくり混合調整物質が浸透すれば、あとは投与も不要になるし、その人の子孫には暗号化が引き継がれる」
「素晴らしい。十分よ」ウェルメはシェアリアの頬を撫で、また深いキスをする。「その混合調整物質だけど、今すぐ使いたい竜がいるの。このままだと、その竜は私たちと同じ目に遭うかもしれない」
「同じ目に? 鉄壁と言われた〈メチルロック〉を突破した竜がいるってこと?」
察しのいい分身を見つめつつ、肯定の沈黙。
「ありえない」
「その感嘆は科学者として適切?」
クスッと笑うウェルメを前に「信じられない」とシェアリアは言いなおした。
「竜は人間によって突然変異を奪われたはず。手足に手錠がついた状態で鍵付きの水槽に沈められながらも、それが布に覆われた瞬間、観客席の後ろから姿を現したってこと?」
「トリックの存在が前提であるかのような例えね」
「そりゃそうよ。だって、ありえ……信じられないから」
「確認する?」
ウェルメは、久悠から預かったリュウの鱗が一枚入った透明のビニール袋を胸元から取り出し、それをシェアリアの前でちらつかせた。対するシェアリアは、それを気にしながらもムッとした。
「混合調整物質の精度を上げるには必要な作業」
「素直になれっ」
「確認……したい」一度照れたように目を背けたが、すぐにキッとウェルメを睨むシェアリア。「混合調整物質の作成は一日もあれば可能だから。それまで姉さんはここにいて」
「うん、安心して。もちろんそのつもりだから」
「でも、いいの? それでも混合調整物質は遺伝子の暗号化こそ可能なものの、それ以外の突然変異の制御については破綻してる」
「そうなったら悲しいことだけれど、仕方がないわよ。精一杯がんばってみて。今はあの子の遺伝子を暗号化させることが最優先。……たとえ、その子がその子でなくなってしまったとしてもね」
ウェルメが小さな自分を抱き寄せると、彼女は容易にそれを受け入れた。
〝わかっているな?〟
わかっているわよ――と、ウェルメは外で待つ白い瞳の男に対し、心の中で思っていた。
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