第16話
「リュウちゃんの遺伝子について、ちょっと私に考えがあるの」とウェルメさんが切り出した。「この件、少しだけ預からせってもらっていいかしら。こっちもあんまり表立って動けることじゃないんだけれど、もしうまくいけばリュウちゃんの遺伝子は私がなんとかできると思う」
「なんとか?」
できるものなのか?
久悠の疑問を察したように、ウェルメは微笑んだ。
「だからあとの問題は、それまでの間のリュウちゃんの居場所だけ」
「それについては、おれはキリガミネ高原牧場に行ってみようと思ってる」
「賛成よ。私はここに居てもらっても構わないんだけどね。でもなにかあった時に私では守り切れないから」
「でも、そのレクトアさんって信用できる人なんですか? 守ってもらえるんですか?」
「限界はあると思うけど、でも大丈夫じゃないかしら。だって、セレストウィングドラゴンを森で匿おうとしている時点で相当のことよ」
「むしろ私はそこに引っかかってるんです。その人、なんでわざわざ森で匿っていたのか……もしかしてリュウくんが生まれることを知っていたからかな、とか」
マイナの言葉を聞いて、久悠は静かに息を飲んだ。それは想定していなかったからだ。たしかに可能性としてはある。何らかの方法でリュウが産まれることを知り、セレストウィングドラゴンを人里離れた森に連れ出し、その時を待っていた……
しかし久悠はレクトアのあの言葉が今も忘れられない。
〝生きてるから〟と、温かい口調で。
〝尊厳〟と、冷たい口調で。
「まぁ考えすぎるとだれも信用できなくなりますけどね。いい人がいればいいですけど」
「そうね」とウェルメさんが笑う。「でも、この世界にいい人なんていない。私たちが使ういい人っていうのは〝(私にとって都合が)いい人〟って意味だから。そんな人はいないし、求めてはいけない。そういう意味で信用できる人なんてのもいない。だから大事なのは、自分がだれを信用したいと思えるか。自分がだれの役に立ちたいか」
「う。それってもしかして婚活にも言えますか」
「さぁ、どうかしらね」
クスクスとウェルメは笑う。
「ウェルメさん、ありがとうございます」と久悠は言った。「レクトアが信用できるか、信用したいかは今はまだわかりませんが、とりあえず彼女と会ってみます。リュウのことを伝えるかは様子を見ながらで」
「そうね。遺伝子が無防備って情報は絶対に流出させられない。でも知っておいてもらわないと対策ができない。その判断は慎重にね」
久悠が頷いたのを見て、ウェルメはまたニコッとした。
「じゃあ、私は早速、リュウちゃんの役に立てるようがんばってこようかな」
「今から行くんですか?」もう夜ですよとマイナが言う。
するとウェルメは「女性の秘密は夜にあり、よ」と言って、人差し指を口に当ててウィンクした。
店の電気が落ち、薄いロングコートを羽織ったウェルメが出かけていく。出がけに彼女はマイナが解析したリュウの鱗を預かりたいと久悠に話しており、久悠はそれに応じていた。信用していいものか……しかしウェルメのいつもとは違うどこか芯のある表情をその時に認め、久悠は託すことにしていた。出かける彼女の様子を、久悠とマイナは建物の二階にあるマイナの部屋から見送っていた。
「どこに行くんだろうな」
「私が知るわけないじゃないですか。超ミステリアスな人なんですよ。ウェルメさん」
「それにしてもなにをしようとしているのかわからない。リュウの無防備な遺伝子を今からどうにかできるものなのか」
「うーん、わからないですけど」マイナは腕を組み、頭を傾げながら続けた。「久悠さんはプチエプ事件って知ってますか?」
「いや?」
「
「人工生物は生まれながらに遺伝子が守られているが、それを後天的に引き起こして人間の遺伝子も複製から守ろうということか」
「そういうことです」とマイナが言う。「かつて生物工学界隈では、常に人体内部で引き起こされているエピジェネティクスを人工的に管理することで老化を防ぎ寿命を延ばそうという計画があって、それは実際に実行されています。DNA編集技術も相まって、この国の人々は健康長寿かつ発達上のでこぼこもフラットになり、一律で優秀になりました。ちなみに私たちはその末裔で、かつてのそれらは私たちに遺伝されているので、いちいち治療を受ける必要はなくなっていますが」
「その技術をリュウに使おうってことか」
「わからないですけどね。そんなツテがウェルメさんにあるのかもわからないです」
まぁ、今は彼女に頼るしかないか。
「それより久悠さん。せっかくですしちょっと飲んでいきません?」
マイナは部屋の冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ニッと笑った。
駅前のロータリーに、一台の半浮遊自動車が停止した。そこに立つウェルメのちょうど正面にきた後部ドアがゆっくりと開く。自動車は彼女を乗せると、タイヤホイールが青白く発光し、浮遊しながら動きはじめた。
「珍しいな。お前から連絡してくるなんて」
ウェルメの隣に座っていた男が、ゆっくりとした口調で言った。スーツ姿で、ブリムハットを深く被っている。その奥から、彼の白い瞳がジッと彼女を見据えていた。
「別に」と、ウェルメは淡白な口調で言う。「あんたに会いたかったわけじゃない」
「連れないな」
「私が会いたいのは」
「わかっているさ。だが、わかっているな?」
「さぁ。私、あんまり頭良くないから」
「キレる女はそう言うんだ」
車の運転席にはだれも乗っていない。完全自動運転だ。半浮遊自動車のみが使用できる超速道路に車が乗り、ジェット機と同等の速さで外の景色を流しはじめる。
到着したのは、海を越えた隣国だった。車はさらに山奥へと向かい、古い農村へとたどり着く。灯りはなく、夜の漆黒に飲み込まれた田舎の集落。その村から地下へと向かうトンネルに入ると、やがて巨大な地下ドームが現れた。壁も天井も白で塗りつぶされ、味気ない水銀灯が空間を照らしている。ドーム中央には人工的な自然と木造りのロッヂが一つだけ建てられており、その周辺を漂う空気は黒い霧で淀んでいるかのようだった。
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