最弱無害のアンタッチャブル

水川 湖海

序章 学生になれなかった女

 大正十三年。


 帝都が関東大震災に見舞われてから、早くも一年近くが経とうとしております。未だ被災の傷痕は残ってはいるものの、すっかり復興の影に埋もれて人々は平和な生活を取り戻したように思えました。

 着慣れぬ洋服を撫ぜる風にのって、桜の花びらが舞い散ります。風情ある光景に見惚れつつ、花弁を追いかけて体の向きを変えました。

 春風が花びらを乗せたまま煉瓦造りの校門を潜り、落成したばかりの校舎へと吸い込まれていきました。これからわたくしが通うことになる、東京女子高等師範学校の仮校舎にございます。

 日本晴れの元、木造の校舎は堂々と建ち、震災復興の象徴として輝いておりました。


 わたくしは女の身でありながら、明日よりあの学び舎に身を置いて学ぶ機会が得られたのです。胸が不安と期待で揺れましたが、それがなんと心地よいことでしょうか。

 自らの手で未来を切り開くことができる。良い時代になったものでございます。

「杏樹様。杏樹様。あすこが杏樹様がお通いになる寺子屋なの?」

 何者かがスカートの裾を引っ張りました。視線を下ろすと、着物姿のおかっぱ頭が眼に入りました。わたくしは驚きに身をすくめました。


「座敷童! なぜついてきたのですか。ここは帝都、天御門のお膝元です。お前が見つかりでもしたら、幽世に送り還されてしまいますよ」

 わたくしは座敷童を隠すようにかき抱きました。素早く付近に視線を巡らせ、天御門の姿がないか確認しました。幸い目に入るのは、御学友となる女生徒と、甘水を売る商人の姿ばかりです。この隙に座敷童をどこかへやろうと思いましたが、その小さな体がわたくしに縋りついてきました。


「でも杏樹様、その天御門に嫁ぐため、寺子屋に行くんでしょう? 何で我らを根絶やしにしようとする、悪い奴らのところに嫁ぐの? 酷いことされないか心配だよ?」

 わたくしを気遣って、危険な道程をここまできてくれたのですか。口元が嬉しさでほころびそうになりましたが、すぐに緊張で引き締めました。

 俯く童の顔をあげさせて、潤んだ瞳を正面から見据えます。


「童や。よくお聞きなさい。確かにわたくしは天御門に嫁ぐため、この学び舎に入ります。しかしそれは天御門の内裏に入り、妖怪を殲滅せんとす文明開化政策の軟化を狙ってのことなのです」

「難しいことはよくわかんない……」

 座敷童がぐずってかぶりを振りますが、構わずその頭を撫でつけて言い聞かせました。

「それでいいのです。あなたにもわかるよう、結果を出すことがわたくしの務めにございますから。さ。早くマヨヒガに帰りなさい。ここにいてはいずれ天御門に見つかりますから……」


 こくりと座敷童が頷くと、その姿はずるりと私の影に沈んで消えたのでした。

 そうなのです。学ぶ喜びに気をとられて、本来の目的を忘れてはなりません。

 決意を新たにし、師範学校の門をひたと見据えました。

 わたくしは在学中に、天御門に強い影響力を持つ殿方に見初められなければならないのです。


『衛境衆』はもう御館様しか残っておりません。天御門と正面切って戦える力はなく、かような姦計に頼るほかないのです。

 もし我らが倒れたなら、その庇護を受ける神祖様や妖怪様が行き場をなくしてしまいます。存在すらを許されなくなってしまうのです。その結果世界は一つの価値観に縛られた、裏寒いものに変わってしまうでしょう。

 そんな恐ろしいことが、許されていいはずがありません。

 いち早く陰陽寮に影響力を持つ殿方を見つけて、事態を打開しなければ……。


「それでも……気になります……」

 一体わたくしは、どのような殿方と結ばれるのでしょうか?

 世間ではお見合いで夫婦となるのが常識でございますが、没落した武家の娘であるわたくしにはそのような席が用意されることはありません。つまるところは運命の出会いを果たさなくてはならないのです。

 運命の人ですか……わたくしの素敵な殿方。お優しい方であれば、嬉しいのですが……。


「高原さん。高原さんではなくて? ごきげんよう」

 唐突に背中から呼びかけられ、わたくしは軽く飛び上がって驚いてしまいました。同時に三人の女学生が、わたくしの元へ歩み寄ってきます。仮校舎の落成式で知り合い、浅い付き合いだというのに大変良くしてくださった方々です。


「これは一条、二宮さん、三原さん。先日はありがとうございます」

 腰を折って会釈すると、お相手様も返礼をくださいました。

「高原さん。落成式の後、カフェーでご一緒して以来ですわね。東京にはもう慣れましたか? 間違って高価な店に入り込んだりしていないでしょうね?」

 一条さんの問いかけに、わたくしは忸怩たる思いのあまり顔が火照るのを感じました。

「その。あの時お支払い頂いたお代金は必ずお返しいたします。どうか平にご容赦ください……」

 蚊が消え入りそうな声で呟くと、一条さんは口元を手で覆って上品に笑いました。


「失礼しましたわ。ちょっとからかっただけですの。だってカフェーで慌てふためくあなたを思い出したら、ついついもう一度拝見したいと思ってしまいまして」

 恥ずかしい……。上京したばかりのわたくしは、とにかく上流階級の殿方を探すことしか頭にありませんでした。そのために文化人が集うカフェーに通う事や、舞踏会などの催しに顔を出すべきとは教えられていたのです。

 しかし知らなかったのです。カルピスがあんなにも高価な品だということを。

 カフェーで一杯を注文したまでは良かったのです。十五銭(三五〇円)。わたくしにも払えます。しかしながらお父様にこの感動をお伝えしたいと、瓶で持ち帰ろうとしたのが浅はかでした。一瓶一円六十銭(五千六百円)。まさか薄めて提供しているとは夢にも思わなかったのです。


 代金を支払えず狼狽えていたところを、さっそうと現れて救ってくださったのがこの一条さんでした。

 お連れの三原さんも、わたくしの醜態を思い出したのでしょう。ハンカチで口元を覆って忍び笑いを漏らしました。

「確かに。一条さんのお気持ちも分かりますわ。まさかカフェーでカルピスを……瓶で……原液なのに……うぷぷっ……失礼、思い出したらまた笑いが……」

 二ノ宮さんが必死で笑いをこらえながら、三原さんの袖を引っ張って諫めます。

「三原さん。人を笑うのは淑女としていかがなことかと思います。それに高原さん。あなたもいけませんよ。私たちとご一緒してからも、殿方そっちのけでカルピスに夢中でございましたもの」


 羞恥の炎で身が焦がされます。甘いものなど冷や水(白玉の入った、砂糖で味付けをした水のことにございます)や汁粉しか口にしたことがないわたくしには、自分を忘れてしまうほど強烈な体験だったのです。

 二ノ宮さんは厳しい顔で続けました。

「あなたも上流階級との縁を持つために、カフェーにいらしたのでしょう? なのに一条さんが代金を支払った後も、殿方そっちのけでカルピスに夢中で。いい家柄の御仁と付き合いを深めなくてどうするんですの? このままでは『卒業』してしまいますわよ」


 言い返すことのできない正論でございます。

 帝都で学ぶ女性は、卒業までに殿方を捕まえられないと、『卒業面』という不名誉なあだ名を頂戴するそうです。その意味は分かりませんが、卒業すれば教員として学校に勤めることになります。御館様には教師になった場合、子供たちに妖怪と人間の融和を説くよう仰せつかっています。しかし衛境には、それだけの時間がないのです。

 御館様がこのていたらくを知ったら、烈火のごとくお怒りになるでしょう。


 わたくしが泣きそうになっていると、一条さんは笑いを押し殺しました。

「あら、ごめんなさい。少々悪戯が過ぎましたわ。ですが高原さん。あなたも悪いのですのよ? カフェーで殿方は高原さんを気にしていたというのに、全く相手にしなかったんですもの」

 二ノ宮さんが後を引き継ぎました。

「わたくしたちのように出会いを求める婦女子にとって、殿方の気を引くだけで何もしない人がいられると困るんですの。高原さんのようなね。ハッキリと対応して頂かなければ、こちらを意識してもらえないではありませんか」

 三原さんも頷きます。

「それならば多少の礼儀を弁えて頂かないといけませんわ」

 そのまま三人に詰め寄られて、わたくしは身を縮めました。


「も……申し訳ありません」

 プッと噴き出したのは、一条さんでした。二ノ宮さんも、三原さんも、どこか寒々しい上品な仕草をかなぐり捨て、子供っぽい笑い声を上げたのでした。

 お三方はひとしきり笑い終えた後、目尻に浮いた涙を拭いながら言いました。

「ねぇ。高原さん。あなたフルーツパーラーに足を運んだことはありまして?」

「い……いえ……あのような愚行は、二度と犯すつもりはありませんので……」

 わたくしが激しく首を横に振ると、一条さんは親しみやすい面持ちを向けて下さるのでした。


「でしたら今度の休日にでも、わたくしたちとご一緒しません? そこで少しずつ慣れていけば、二度とあのような醜態を晒さなくて済みますわ。パフェーは召し上がったことはあるかしら? 食べておいて損はなくってよ」

「パフェーで……ございますか……? それは一体……」

「ご存じないのね。よろしい。わたくしが一つご馳走してあげましょう」

 一条さんは有無を言わさぬ強い口調でぴしゃりといいました。二ノ宮さん、三原さんも、わたくしに声をかけてくださいます。

「わたくしも婦女子の嗜みというものを教えて差し上げます。ハンカチはお持ちで?」

「婦女子は殿方の前では慎み深く、はしたなくお喋りをしないものです。ハンカチを使った会話法があるのですよ」


 最後に一条さんが、ニコリと微笑みかけてくださいました。

「あなたにはさっさといい人と出会って、退場してもらわなければ困りますわ。それに——わたくしたちは目的を同じにする、同志ですものね」

 わたくしはなんと果報者でしょうか。学ぶ機会だけでなく、このようなお優しい友人にも恵まれたのです。残すは素敵な殿方との出会いのみ。

 お父様に帝都へ行けと言われた時は、どうなることやらと不安でした。しかしようやく、やっと希望を抱けるようになってまいりました。

 後はわたくしの頑張り次第にござります。きっと誠心誠意日々を過ごせば、素晴らしい明日へとたどり着けるはずです。その明日が待ち遠しくてたまりませんでした。


「では参りましょうか、高原さん」

 一条さんが一歩踏み出した、その時です。

「杏樹や……杏樹や……」

 黄色い級友たちの声に、しゃがれたゼイゼイ声が混じりました。

 わたくしの背筋を悪寒が走り、緊張が胃を持ち上げました。恐る恐る背後を振り返ると、異様な出で立ちの男が佇んでおります。

 鴉の面をつけ、束帯を纏った大男です。その身体は『気』とでも申しますか、黒い湯気のようなものを放っているのですが、『こういうことに慣れたわたくし』ですらも、一種の忌避感を覚えずにはいられないのでした。

 衛境衆が最後の一人、わたくしが御館様とお慕いする、居上慎之介様その人にございました。


 御館様はかなり憔悴しているようです。身の丈ほどもある大錫杖を支えにして、やっとこさ立っておられる様子でありました。

「お……御館様ッ! いかが為さったのですか!?」

 わたくしは慌てて御館様に駆け寄り、ふらつく身体を支えました。覆いかぶさった御館様の肢体から、雨のごとく血が滴ってきます。足元に視線を落とせば、広がった血だまりが鏡となり、わたくしの情けない顔を映しているのでした。

「高原さん? いかが為さいました?」

 皆様方が、不思議そうに声をかけています。しかし御館様が見えないのか、視線を彷徨わせて困惑するだけでございました。


 御館様がわたくしの肩を掴み、じっと正面から見つめました。鴉の面の通して見える瞳は、命の灯が消える直前の異様なぎらつきを放っているのでした。

「杏樹や。やはり天御門は裏切った。衛境の技を盗むだけで、文明開化政策をやめる気はさらさらない。もはや我らは邪教徒と呼ばれる身である。このままではマヨヒガをも奪われるだろう。急いでここを去ぬぞ」

 御館様の影が生き物のようにうねり、わたくしの脚を伝って這い上がってきました。

 わたくしの身体は影に呑まれていき、意識はまどろみの中に墜ちていきます。


「杏樹や……杏樹や……贄姫となり、復活の時を待つのじゃ……」

 わたくしは呆然とするしかありませんでした。

 いくら何でも早過ぎはしませんか? まだ学び舎に通ってすらいません。お友達ができたばかりです。未来の旦那様も見つかっていないというのに。

 わたくしは何も出来ていないのです。だというのに、その手段をとらざるを得ないのですか?

 一条さんたちが心配する声も、今では遠く彼方にあります。天御門の陰陽師たちの声が、聞こえたような気もしました。それらをかき消して、はっきりと鼓膜を打つのは衛境の呪詛でした。

『東昇西沈吾座不転、東昇西沈吾座不転。日影より出でて、月光へと沈むべし』

 やがてわたくしの表情としてこぼれたのは、虚しい笑いでした。


 もう。手遅れだったのです。

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