ゼダの紋章 第1幕 4人の旅立ち
永井 文治朗
第1話 深夜の図書室
それはエルシニエ大学に広まるあまりにも有名なウワサだ。
ある初夏の日の深夜、たまたま居残りしていた一人の学生が深夜の構内を歩いていた。
どうやら中庭で居眠りをしていてキャンパス内に取り残されてしまったらしい。
学生は慌てた様子で誰もいない深夜のキャンパスを足早に歩いていた。
すると、たまたま通りかかった校舎の一角にポツンと明かりが灯っていた。
不審に思ったその学生は興味本位で近づいてみることにした。
どうやら明かりが
学生は
もしかしたら誰か不審者が入り込んでいるのかも知れない。
なにしろエルシニエ大学の図書室といったら
教授級にしか
それ故に泥棒が入り込んでもおかしくはなかった。
学生は窓の外からそっと様子を伺った。
広い図書室の一角に明かりが灯っており、僅かに窓が開いていた。
学生は開いた窓から中をのぞき込んだ。
研究机の一つに明かりが灯っている。
そこには頭からすっぽりとなにかを被った人影が見えた。
学生はよく確かめてみようと別の窓に回り込み、じっと目をこらした。
うずたかく積まれた本の間で何者かが
のぞき込まれていることにも気づかず、なにかに取り
「そこにいるのは誰だっ!」
すると人影は手を止め、むっくりと起きあがりこちらを向いた。
「邪魔をするなっ!」
目を光らせ
後日、学生は目撃した様子を
しかし、かえってきた答えは深夜の図書室には厳重に鍵がかけられ、
それでは学生が見た人物は何者であったのだろう?
その当然とさえいえる謎は
尾ひれのついたウワサ話はそこかしこで語られたが、最初に目撃した学生についても謎に包まれた。
半狂乱となり自殺したとか、
興味と好奇心から何人かが確かめようと試みたが悉く失敗に終わった。
有志の者たちが事務局や守衛にも聞いて回ったということだが、成果はなかったという。
学生が目撃した者の正体がなんだったかは更に色々とウワサされ、卒業論文を書きかけのまま命を落とした学生の霊だとか、図書室に住み着いた悪霊の一種だとか、人間研究に熱心な悪魔の
ウワサは今も一人歩きを続けており、3ヶ月を経て現在に至っている。
そして女皇暦1187年11月4日。
メル・リーナとルイス・ラファールは図らずも、当時のエルシニエ大学最大のミステリーに
女皇暦1187年11月4日 21時11分
エルシニエ大学構内
研究棟も暗い影を落とすことさえしなくなり、風も冬の気配を
しんと静まりかえった人気のない校舎の脇を二人の女性が連れ立って歩いていた。
足許は
「ねぇ、やっぱりいいよぉ」
小柄で童顔のメル・リーナは足取りも重く、心細さにうつむきかけながら、すたすたと前を歩くルイス・ラファールにその独特の声をかける。
メルの声は可愛らしいといえば可愛らしいが聞く人によっては生理的嫌悪感を感じるかも知れない。
とにかくなにか普通とは違っていた。
小柄なメルに対し、ルイスはそれより頭ひとつぶんほども背が高く
まっ、今は若干ながら
「そんなこと言ったって、今日中にどうしても持って帰らないと明日朝の提出に間に合わないでしょ、ロモンド教授ってとてもキビシイ人だし」
ルイスの声は女性にしてはやや低い。
いわゆるハスキーボイスだった。
スタイルは抜群で健康的だ。
髪は金髪で肩の辺りまで伸ばしている。
二人はそれぞれエルシニエ大学生を示す
同じサイズだというのにメルの栗色の長い髪にちょこなんと乗ったそれはどうしても大きく見えてしまう。
頭そのものが小さいので
その
最高学府生を示すトレードマークであり、
中原諸国から頭脳と学力に自信のある学生達が集う超難関大学だ。
それだけでエリートなのだと
ちなみに約200年後のティルト・リムストンたちの時代にはとっくに廃止されていた。
なぜならそんな分かり易い目印をつけていようものなら、学生達が無用なトラブルに巻き込まれるからだ。
かわりに構内に出入りする際は門で
折角の
およそ学内に人の気配は感じられなかった。
誰かが居たら居たで面倒だったが、しんと静まりかえっていてメルとルイスは心細さを感じずにいられない。
二人はつい三時間ほど前まで図書室で学部の他の仲間たちと一緒に提出課題に取り組んでいた。
正門は午後六時に閉門となるため、それまでに勉強を切り上げ、
朝一番では翌日8時半の一限目の提出期限には絶対に間に合わない。
二人は学生たちだけが知る秘密の抜け道からこっそりと忍び込むことにしたのだ。
時計の針は既に午後九時を回っている。
幸いにして二人は裏門近くから構内に潜り込む抜け道を知っていたが、当然のことながら構内には誰もいない。
人の気配がまるでない真っ暗なキャンパスはまだハタチ前後といううらわかい女性二人にはかなり恐ろしい場所だった。
「やっぱり
メルは今にも泣きそうな顔をして前を歩くルイスの背中を見つめる。
この筋金入りのお嬢様は良きに付け悪しきに付け
女の子同士の会話でもちっちゃくて可愛いという意味も込め、メル姫様とか呼ばれている。
そうした認識もあって背丈が男子学生たちとさほど変わらないルイスは護衛兼お目付役だと周囲の学生達から
「うーん、事情を話しても入れてくれるかどうかわからないしねぇ」
「図書室まで行っても鍵が開いてないかも?」
「それはそうなんだけれど、一応は行って確かめてみないとね」
弱気なメルを励ましているものの、ルイスだってまったく怖くない筈はなかった。
むしろ苦手にしている。
男勝りの長身で勝ち気、あだ名通りの姉御肌のルイスとはいえまだ二十歳そこそこの小娘に過ぎない。
幽霊だのなんだので
「こわいよぉ」
「もぅ、メルったら本当に臆病ねぇ」
そういうルイスでさえ足取りはひどく重い。
なにごともなければ夜の大学になどに好んで入りたくもないし、済ませられるものならばとっとと用事を済ませて退散したい。
二人は進まぬ足取りで法科研究棟を抜けて、ひたすら図書室を目指していた。
「そういえば・・・」
ルイスはあることを思い出しかけたが、慌てて口をつぐんだ。
余計なことなど言わないに越したことはない。
「なによぉ?急に黙らないでよぉ」
「なんでもない」
不意にルイスの
嫌なことを思い出してしまったとばかりに整った顔立ちの頬が引きつる。
「あのさ、あたし聞いちゃったんだけど、夜の図書室に幽霊が出るってウワサ。ルイス知ってる?」
(まったく、この娘ときたら・・・)
メル姫様のいつもながらの天然と間の悪さにルイスはしばし頭を抱えた。
レポートに限らず
まるで状況と空気が読めないメルの一番悪い癖だった。
この悪い癖のお陰でルイスは学生生活において今まで散々な目に
男友達からの
そうした場合、いつもとばっちりを食うのはメルの保護者がわりで周囲からは良き相棒とみられているルイスだった。
「・・・知らない」
ルイスはかぶりをふった。
金髪が揺れて影を落とす。
「えー、だって有名だよぉ!」
メルは抗議の声をあげる。
ルイスは冷ややかな視線を向けつつまたかぶりをふった。
「だから、知らないってばぁっ!」
(分かってるのメル)
「だってルイスもみんなが話しているとき聞いてたじゃないのよ!」
「しつこいわね、メルっ!知らないったら知らないわよっ!」
口喧嘩のなかでルイスの言葉が怒気を
更に別のものも
(だから、このカドを曲がったら・・・)
「うっ!」
ルイスの嫌な予感は的中した。
踏み出したままの右足が硬直したまま動かない。
「どうしたのっ?」
ちょこちょこと追いついてきたメルがカドを曲がったところでぴたりと足を止める。
「え゛え゛っ!」
悲鳴ではなかった。
いや、悲鳴は出なかった。
二人の視線の先にある図書室の窓に明かりが
ほとんど真っ暗な闇の中で、そこだけがほんのり照らし出されている。
「あわわわわわわ、るいすぅ」
「めめめめめめめるぅ」
よりによってというか、やっぱりというか・・・なぜこうもタイミングよくというか。
なんにせよ二人の目の前にはウワサに聞いていたのと
「ゆゆゆゆゆゆうれいかなぁぁ」
「ししししししらなぃ」
歯の根をガチガチとさせた二人は明かりの
「かぇるぅ」
「にににげよぉ」
二人が
「わっ」
聞き慣れない何者かの声とそれぞれの肩に置かれた大きな手に二人は青ざめた顔で同時に振り返った。
「やっ、こんばんは、お嬢さんたち」
「へっ?」
「なに?」
その青年は闇の中でランプをかざした。
ぼんやりとしたランプの明かりにお馴染みの
細身でしなやかな体格に、とても
イケメンの色男といって差し支えない。
大都会とはいえ、なかなかこうした美青年には
背丈こそルイスとそう変わらないが、陽気そうな明るい笑顔に
「あっ、あんたスレイ?スレイ・シェリフィスね」
「えっ?」
「どもっ、こんばんはお嬢さんがた。ご機嫌はいかがかなぁ?」
スレイは
「どうしたのさ?そんなに驚いた?」
抱き合うように座り込んだ二人に、スレイは
少なくとも彼は幽霊でもなんでもない。
エルシニエ大学の誇る美形の秀才と言えば彼を指す。
男女を問わず学生たちの憧れと
ディベートの天才で教授たちさえ言い負かすほどの知性と頭脳、広範に到る教養を持ち、政治学の専攻だが、他の学科目でもトップクラスの成績を誇る。
だからこそ注がれるジェラシー。
浮いた噂はないため、女子たちは
「なっ、なんであんたこんな時間に?」
ルイスはバツが悪そうにスレイの顔を見上げてきっと
「いや、それはむしろこっちが聞きたいって」スレイは抱え起こそうと手を差し伸べつつ苦笑した。「まさか今頃になって幽霊話の真相を確かめに来たのかなぁって思ったね」
「・・・あたしが忘れ物をしたんです」
暗闇でもそれと分かるほどに真っ赤な顔でうつむいたメルは右手でルイスのコートの端をぎゅっと
「あっ、やっぱりあのレポートね。それなりによく書けてたよ。ただねぇ」
少しばかり気の毒そうな顔をしてスレイは続けた。
「何カ所か意味の解釈が間違っていて、あれだとウチの師匠は間違いなく再提出にする可能性が高いけどね」
「読んだんだレポート?」
ルイスは呆気にとられた顔でスレイを見た。
「うん、ちょっと
スレイは
「それじゃもしかして図書室の幽霊って・・・」
「あっ、いけねぇ。アイツ待たせてたんだわ」
スレイは我に返った様子で図書室の方角に視線を走らせた。
「良かったらおいでよ。図書室の幽霊の正体を教えてあげる」
メルとルイスは
スレイは慣れた様子で図書室棟の正面玄関には向かわずに反対方向に向かい歩き出した。
そのまま図書室脇の路地を抜けると、その先には裏階段があった。
二階へと通じる裏階段の影にドアがある。
音もなく開いたドアを抜けて館内に入り、真っ暗な廊下をしばし歩くと少しだけ向こう側が明るくなる。
「お待たせぇ」
「いつまで待たせるんだ。おそいぞ、スレイっ!」
書庫のドアを開けるなりなんでもない会話が飛び交う。
スレイの後ろをおそるおそるついてきたメルとルイスは心持ち緊張しながらドアをくぐる。
四方を囲むようなランプの明かりに照らし出された書庫はどこか幻想的でさえあった。
ほの暗い明かりに書棚や机の
モノトーンの世界の中で、その黒縁眼鏡の青年はうずたかく積まれた本を前に腕組みをしていた。
なにも知らずに見たら幽霊だと大騒ぎしそうなところだが、脳天気なほど明るいスレイが側にいるせいか二人とも恐怖は感じなかった。
勿論、幽霊なんてどこにもいない。
「はらへったぁ、めしぃ」
「わかった。わかったって、ディーン」
言いながらスレイは慣れた手つきで4人がけのテーブルに荷物を広げ始める。
レタスと卵のサンドイッチに大きなハムの塊。
そして、まだ湯気をたてているコーンと
美味しそうな香りが
だが、ディーンとスレイはもう
「あのぉ、なにそれ?」
「なにそれって、メシだよメシ。晩飯」
スレイはなんでもない様子で二人分の皿を並べ始める。
そして盛り付けし始めた。
「誰なのよこの人?」
「誰って?史学部生だろうにホントに知らないの?」
「うん」
二人の女子はほぼ同時に
「ふぅん、僕のことは知ってたのに、コイツを知らないとは・・・」
「別にいいけどね。それよりメシだ、メシっ」
黒縁の眼鏡をかけ、むっくりと厚着した青年が奥の机からテーブル目指してのっそりと近づく。
スレイは
「じゃ、ボクから紹介しておくよ。こいつが図書室の幽霊ことディーン・エクセイル。勿論、ウチの学生」
「よろしく」とルイス。
「どうもっ」とディーン。
ぶっきらぼうに挨拶すると呆然と見守る女の子二人を尻目に遠慮なくサンドイッチにその手を伸ばす。
ディーンにとって目下の関心事は見知らぬ女の子たちよりも温かい食事にあった。
「ん、まってよエクセイルって・・・どっかで聞いたことが?」
「君ら史学専攻の学生さんたちならエクセイルの名前は知っている筈でしょ?知らないわけがないんだよ」
「あぅあぅ」と自分のレポートを手に取った察しの良いメルは思わず声をあげた。「これよ、これこれ」
メルの提出レポートにはギルバート・エクセイルの名前があった。
それもその筈、メルたちに課されたレポートの課題は彼の著書に書かれた学説の裏付け論証にあったからだ。
「そう、こいつのオヤジはトワント・エクセイル。ウチの看板教授だけど今は自宅にて病気療養中」
「あっ、そういえばトワント・エクセイル教授の講義って秋からずっと休講になってたっけか」
エルシニエ大学はエウロペアの慣習上、9月から新年度になり進級進学の季節は9月だ。
「あたし一度も会ったことないよー、今は代理の先生だよね」
実はそうではないのだが、この時点でのメルは本当にトワント・エクセイル教授を知らない。
その実、メル・リーナを政経学部経営学科ではなく史学部史学科に進学させるきっかけとなった人物だ。
「まあ、おかげさまで親父はすっかり元気だけどね。いまんところはだけど」
ディーンはサンドイッチを
「でもって、その課題になっている本を書いたギルバート・エクセイル3世が君たちのレポート課題の著者でコイツの祖父。もう他界されているけれどね」
「6年前に死んじまったけどね、ガキんちょだったボクに色々教えてくれたよ。あー、ちなみに初代ギルバート・エクセイルがこの大学の創始者だよ。おおよそ200年ぐらい前の人さ。ボクには
ディーンは僅かに眉を寄せて苦い顔をした。
(見事なほどの名前負けでしょ)
なにか余程の事情があるらしいとメルだけは察した。
一方のルイスはようやくにして事態を飲み込んだ。
「へぇ、それじゃ、とんでもなく偉い学者さんたちの家系なんだ?」
「そういうこと」
ディーンはそこで話を打ち切ろうとした。
それ以上あれこれ詳しく話しだすと、こんな夜更けの図書室で食事中にいきなり本格的な講義を始めなければならなくなるからだ。
「でも、授業で見掛けたことないけれど?」とメル。
「そうだね、コイツ授業には一切出てないから」
スレイのこともなげな一言にメルとルイスは面食らった。
「えっ!」
「というか、授業なんか出る必要ないでしょ。史学科の教授連中はみんなこいつのオヤジさんや爺さんたちの弟子みたいなもんだし、筋金入りの
「げっ!」
「おまけにヘタにこいつにしゃべらせようものなら講義は乗っ取られるわ、解釈の食い違いを指摘されるわ、
スレイは立て板に水という調子でおおまかに説明する。
「なるほどぉ」
メルは簡単に信じたようだが、ルイスはなおも
「それにしてもいったいどういうことなの?授業にも出ない人がこんな夜中に図書室を自由に使うなんて。授業がないなら昼間自由に使えばいいじゃないの」
ルイスの鋭い指摘にスレイとディーンは顔を見合わせた。
「まっ色々と事情があってね、こいつは昼間は自由になれないんだ」とスレイ。
「これでも忙しい身なんだよ。なにかとね」とディーン。
「で、その忙しい人とやらが食事もロクに
「それは・・・だね・・・」
口ごもるディーンを制してスレイは落ち着き払って説明する。
「ディーンは半年くらい前から病気のオヤジさんの代理で学術論文を書いてるんだよ。口述筆記で書き留めたメモをもとにして論文の書き起こし作業にあたっている。
それだけでも十分過ぎるほどエクセイル家の事情は複雑だったが真相は更に複雑だ。
スレイさえ今説明した事情以上の事実は知らないのだが、何故そうなったかについて聞いたら
「嘘っ?それじゃ実際にはほとんど・・・」
察しの悪いルイスでも事情を聞いておおよそは理解した。
スレイは更に
「そうさ、一応はオヤジさんと共同著名ってことになっているけれど、中身はコイツ一人で書いたようなものなわけさ。いま21歳のコイツは卒業まで一年半あるわけだけれど、コイツときたら修士どころか博士の卒業資格さえも満たしてしまったわけだ。事情と実情を知っている教授会の連中は内々でコイツの授業を免除して、助教授以上にしか与えない書庫の鍵まで預けたのさ」
メルは目をパチクリさせた。
「それはスゴイよ・・・っていうより、そんな事が許されるんだ?」
スレイはニヤニヤしながら先を続けた。
「なにしろ教授会はコイツのファンばっか。どうせゆくゆくはここの助教授になるんだしと考えている人たちが多いし、博士課程の単位認定は父親であるトワント教授がするものだと。そのせいで、厳しい上にヘソ曲がりな君たちの先生であるロモンド教授なんか、わざと意地悪しているぐらいです」
ディーンは
「ベックスのじじいはボクの天敵です。あの人は自分が見込んだ可愛い学生たちにほど、底意地の悪い真似をする。スレイだってその被害者だものな。他学部学生なのに遠慮も手加減もない。とっくに愛弟子だと認定されているからです。ボクの場合はライバルだと思われている」
スレイは苦笑し、メルとルイスはロモンド教授をじじい呼ばわりし、ライバル視されていると言い切るディーンに
そして、その実は相当親しい様子だ。
「でさ、コイツは春の初め頃から深夜の図書室にヌシみたいに住み着いてたわけだ。ところが事情を知らない学生の一人がたまたまここで
「あっ!」と叫んでメルとルイスは顔を見合わせた。
それだったかとなる女の子二人にスレイは苦笑した。
「なんにも知らないで逃げ出した僕は翌日になってあちこちで聞いて回ったりしたんだけど、教授会からシッカリ口止めされている守衛や事務局は知らぬ存ぜぬの一点張り。あんまり僕が騒いだせいで学生たちの間で幽霊騒ぎとしてウワサが広まっちゃったのさ」
「うわぁ」とメル。
「それで、ロモンド教授に呼び出されてこっぴどくしかられた。その上できっちり事情を説明された挙げ句に火消しの共犯者としてコイツの助手兼雑用係に任命されたってわけだ。まあ今は大学側から臨時採用アルバイトとして結構な報酬を
スレイはやれやれだよなといった調子で話を
「そういう事情だったんだ」
幽霊の正体見たり枯れ
スレイは知人の誰かさん譲りのボヤキ節を続ける。
「夏頃はひどいもんで、ほとんど毎晩、多い日で5組くらい押しかけてたんだけど、僕が裏で色々と手を回したり、ウワサに尾ひれをつけたり、脅かして追っ払ったりしたもんで
「あっちゃあぁ!」とルイスは額に手をやった。
「まあ、今晩もし取りにこなかったとしても明日の早朝に修正済みのレポートを師匠の机の上に放り出しておくところだったんだけどね。幸いにしてその手間も
スレイがなにを言いたいか一瞬わからなくなったルイスとメルはレポートに目をやったが、どこも直されている様子はない。
「手間は
不可解だというメルにスレイはトドメをさした。
「当たり前でしょメル・リーナさん。これから君が自分自身の手で直すんだから、じゃないと勉強にならないし」
「えー、ひどい」
むくれるメルにスレイは人の悪い笑みを浮かべる。
そして長身の女子学生に向き直った。
「えーと、そちらのお嬢さんは?」
「あっ、メルと同じ史学科の学生でルイス・ラファールです」
名前を耳にした途端、ディーンの体がピクリと反応した。
表情こそ変えなかったが、僅かな反応を見せる。
「君のも見せてね。一緒に書いていたのならたぶん同じ間違いをしてる筈だから再提出確定だし」
「うっ・・・あい、お願いします」とルイスは情けない声をあげる。
「あっ、この事は絶対に他言無用ってことで
「アタシよ」とルイスが手を挙げる。
「じゃ、ルイスさんはひとっ走りして、自分の家とメルさんのところにお互いの家に泊まるからって連絡を入れてね。そのとき毛布を二枚忘れずに用意してくるといいよ」
自宅に連絡しておけというのはよく分かるが毛布が2枚?
「わかったわ・・・けど、なによ毛布2枚って?」
スレイは懐中時計を取り出して時刻を確認する。
「今晩、ほぼ徹夜だから。早くても3時間、遅くて4時間半ってとこかな?」
ルイスは思わず「うげっ」と口走った。
「うわぁ、わかった。わかりましたってば・・・」
「それで、メルさんは後で僕とコイツの分のお茶を
お茶というのは勿論、紅茶だ。
ただし、真の世界とは違いアフリカやインドといった産地から運ばれてくるのでなく、エウロペアにも茶畑がある自前だ。
「いいよっ、得意なんだから」とメルはにこやかに腕をみせる。
「ありがと、道具の場所はあとで教えるから。さってっと、ディーンもそれでいいよね?」
ディーンも懐中時計を取り出した。
薄暗くてよく見えないのが幸いだったが、鑑定眼の
いわゆる女皇陛下から
「ああ、今日の分の予定はほとんど終わってるから、もう一頑張りしたらボクは寝るよ。明日は朝から
食事を終え、机に戻ったディーンは早くも本と原稿用紙を広げている。
「そっか、じゃ早めに休まないとな。なるべくこっちは静かにするから」
スレイの目配せにディーンは微笑んだ。
「うん、お嬢さん方は任せたよ、相棒」
スレイはあとはなにかあったっけと少しだけ考える。
「ほーいっと、あっそうだった二人ともついて来てね」
「なに?」とメルとルイスは口にした。
「一応は
「あっ、助かります」
ルイスは素直に感謝した。
裏門まで歩くのは遠回りだったし、道が暗いので一人歩きはかなり勇気がいるからだ。
「まあ、こんな機会は滅多にないだろうけど、一応ね」とスレイ。
「もう二度とごめんだわ」とルイス。
「確かに」と皮肉っぽく笑んだスレイは席を立った。
「そうだね、じゃいこか」
「はーい」とメルがすっかり明るい調子で後に続いた。
どやどやと賑やかに去ってゆく3人を見送ってから、ディーンは一人ふぅと息を吐いた。
「やべぇ、危うく口をすべらせるところだった。バレたかなぁ」といつものクセで頭を
「なんだか波乱の予感がするなぁ。それにマサカとは思うけど、偶然の事故を装ったこの件にラシール家が
ディーンの予想どおり、この夜の出会いが4人の運命を劇的に変えることになる。
そして案の定仕組まれていた。
そもそもメルは大事なレポートを何処かに置き忘れるようなドジっ子ではなかった。
普段はそうとみられるよう装っているだけだ。
そして、ラシール家の誰かが関与していたのも事実だ。
まだアエリアからパルムに戻っていない若いナダルではなく、聖域の意味を骨身に思い知る調査室長のグエンでもない。
ディーンは単に知らないだけだがデュイエもこの晩は別命にて行動中だった。
残る可能性はたった二人しかおらず、問題は誰の密命で食事とおしゃべりに夢中なメルとルイスの
この物語が進み、後になればなるほどそんな真似自体がとんでもなく難しいオーダーなのだとわかる。
黒幕たる真犯人の名は既に出ている。
その人物ならば状況のすべてをお
あとは実行役の女皇家隠密機動部隊たるラシール家の誰かにこっそりやらせるだけ。
状況証拠だけで推理するのは難しいと判断してディーンはあっさり考えるのをやめた。
この引き際の良さと、考えても無駄だと判断したときに脳内で保留にするだけで、更になにか新しい事実を
警備室で守衛に面通しをして校門でルイスと別れたメルとスレイは図書室に戻った。
途中、寄り道がてらに深夜でも使える施設やら道具の使い方を説明する。
湯を
遅い夕食を
メルはスレイが読み捨てた今朝の新聞を面白そうに読みつつ、なにやら落書きしていた。
「はー、しんどかったぁ」とルイス。
「お疲れ様ぁ」とメル。
「ちゃんと連絡してきたわよ。ついでに着替えももってきた」とルイス。
案外素直なルイスにスレイは笑みを浮かべる。
「ん?かなり体格が違うみたいだけどルイスさんので合うの?」とディーン。
身長180cm弱のルイスに対して、メルは身長140cm台だった。
「ほえっ、あたしのお泊まり用だよ」
メルはなんでそんな事を聞くのだろうと小首をかしげる。
「そうそう」とルイスは事もなげに応じる。
「そんなのわざわざ用意してるんだ?」とディーン。
「うん、メルの自宅は遠いからね。よくウチに泊まりにくるんだよ」とルイス。
スレイは一連の話をなんとなしに聞いていて、「えっ」と驚愕する。
「メルさんちって遠いんだ?リーナって・・・もしかしてお父さんはパトリック・リーナ?」
スレイはメル本人についてよりもその父親のことはよく知っていた。
むしろ知らなかったならスレイなど
「そうだよ、よく知ってるね。お父さんはベルシティ銀行の頭取だよ」
(いやいや違うって、お嬢さん。総帥。筆頭株主かつ経営最高責任者だよ)
ベルシティ銀行はゼダでは民間最大の銀行であり、ゼダの都市という都市に支店を持つ。
なにしろ4人ともおのおの自分の口座を持っているほどだ。
20代後半のパトリック・フェルベールがリーナ家に入り
財界は
いくら本店営業部のやり手でエ大卒だとはいえ、当時はまだ本店営業部の係長だった。
それには筆頭株主たるリーナ家では女当主に
なにしろセシリアの父ヨハンが心臓発作で
先代もとうに病死している。
どうも男子早世の家系らしい。
実際問題として、株主総会を取り仕切っていたヨハン・リーナ筆頭理事の
そんな中、有力株主たるベルゴール侯爵家当主が入局間もないパトリックに白羽の矢を立てた。
当時のパトリックに才能以外にあったのは、先々代で
そして、摂政皇女アラウネの後ろ盾と周囲に英才たちが居たことだ。
同窓生たちが各界でエリートコースを歩んでいる。
パトリックはベルゴール侯爵のセッティングでセシリアと対面後、入り婿を了承する。
そして、本当に大丈夫なのかと不安げな上司達を尻目に、何食わぬ顔で
それから瞬く間に出世して30代後半で頭取かつ筆頭株主。
その手腕ときたら「鉄の
顔色一つ変えずに小国なら一国分の年間収支を動かす。
やはりただ者ではなかったというのが現在の共通認識であり、妻セシリアの
生きながら立志伝の人物となったパトリックをスレイは
「うへっ、メルさまは筋金入りのお嬢様ですか。すると山の手屋敷にお住まい?」
スレイは軽口と共に脳内の情報を吹き消しておどける。
このメル嬢を射止めればパトリックの後継者となり、スレイの父親も一人息子に無理に政界進出をゴリ押ししないだろうという打算まで働かせるが、
メルはそれがどうしたのと言わんばかりだ。
「南区に別宅があってそっちがほとんどだよぉ、お父さんも忙しいからお屋敷にはほとんど戻れないから」
スレイは情けない顔をする。
「ううっ、パルム市内に何軒も屋敷があるなんてお金持ちの会話だよなぁ、ディーン」
ディーンもメルのセレブぶりには露骨に顔をしかめる。
「うちもお屋敷なんて言われてるけれど、古いし汚いしネズミが出るもんなぁ。別宅別荘なんてどこにもないし、使用人は今やエッダさん夫婦だけだし・・・」
そのエッダ夫婦というのが只者ではないのだが・・・。
「へぇ、あたしは親戚の持ち家に下宿してる。アンドリオン子爵って知らない?」
そのなにげない一言にディーンは紅茶を吹き出してむせ込んだ。
「うっ、こっちは貴族かよ」とスレイ。
「はいはい、そうでしたか」と居住まいを正したディーンはなぜか呆れ顔をしている。
「子爵の所持している物件のアパルトメントを借りてそこに一人暮らし。その方が気楽だし、女友達がよく遊びにくるから」
ディーンは“それがどういうことだか分かってるのかよ”と顔をしかめる。
「あー、便利そうだねぇ」と遠い目をするスレイ。
「あれっ、そういう二人はどうなの?」とルイス。
「ああ、コイツもボクも実家。エクセイルのお屋敷は南区北端でわりあいと近いよ。ボクの家は東区だからちょっと遠いよ。だけど、ほとんど帰ってない」
「それってもしかして?」とルイス。
「うん、寝泊まりはここが基本で、飲みに行ったときやなんかはそのまま友達の家に転がり込む」
半分は本当で半分は嘘だ。
実際問題としてスレイはスレイで忙しい身であり、ディーンの作業をサポートしつつも、自分は自分で仕事をこなしている。
「なんか私たちには想像しにくいねぇ」とメル。
「まあ、大学に近い女の
スレイの軽口にルイスは
「そんなわけあるかっ!だいたい男が出入りする場所にメルみたいなお嬢様を泊められるわけないでしょっ!」
「あっ、やっぱりね」とディーンとスレイは顔を見合わせて
「なんか、すっごく失礼ねっ!そういうスレイくんこそ彼女の家から来たりとか」
「残念ながらご期待には
「おいっ!それはひどいぞっ」
ディーンの抗議の声などお構いなしにスレイはぼやき節を並べる。
「いやほんと
「なんか仲の良い夫婦みたいだねぇ」とメル。
「断じて違うっ!」と男二人は声を揃える。
「それにそんなに上等なもんじゃないし、ときどき切なくなる」とスレイは
「これっぽっちも潤いのない青春だよ。作業が押してくるとクサイ服着て風呂にもロクに入れないから」とディーンは頭を
「ううっ、ちょっとだけ理解してしまった」とルイス。「あたしらもよく考えたら似たようなもんだ。メルの面倒をみるようになってからは、いよいよ男友達と縁がなくなった」
「えー、なんでぇ!?」とメルが抗議の声を上げる。
「わかった、もう皆まで言わなくていい」とスレイ。
「不憫な・・・」とディーン。
「えー、なんでー」とメルは納得しなかった。
さすがの男二人も夫婦どころか母親がわりだとは気の毒すぎて決して言えなかった。
それからきっちり3時間半で課題レポートの修正作業は終わった。
スレイの解説は適切で分かり易く、基本はしっかり出来ているメルやルイスには十分理解することができた。
一人で黙々と作業をすすめ、一段落ついたディーンは片付けを始めている。
時計は午前2時をまわろうとしていた。
「あー、疲れた」
「やっとおわったよぉ」
「はいはい、二人ともお疲れ様でした。それでディーンはどう?」
「こっちも終わった。これならたっぷり4時間は寝られそうだ」
たっぷり4時間というのにメルとルイスは絶句する。
毎日そんなハードな生活をしているのですかと。
「そいつはなによりだね」とスレイはニッコリ微笑む。
「じゃ、あたしたちもそろそろ」とルイス。
「うん、お着替えお着替え」とメル。
「えっ、着替えて寝るんだ?」と男性陣。
「えっ、着替えないで寝るの?」と女性陣。
「だってねぇ」と言ってスレイとディーンは顔を見合わせる。「カビ臭い毛布で寝るからニオイつくし、朝起きてから着替える。その方がなにかと手間が
「うわぁ、男の子って汚いなぁ」と言ってルイスとメルは顔を見合わせた。
「ちゃんと
スレイは基本的にズボラだというより、自宅の屋敷だと使用人たちがみーんなやってくれるので、雑事をいっさい考える必要がなかったのだ。
単にそこが居心地悪くてロクに帰っていないだけだ。
「ディーンはみたまんまね」とルイスに言われ、ディーンは眉を引きつらせている。
いっそこの場で昼間の姿を見せてやりたくなる。
「それはいいけど、お前ら着替え
「
「・・・・・・」
言葉を失ったスレイとディーンは顔を見合わせ、がっくりとうなだれた。
「それと寝てるとこに悪さしたら、明日アサイチでロモンド教授にチクる」とルイス。
「そーそー」とメル。
「そこまでするかっ!」とスレイ。
「
「まあ、さすがに二人ともそんな度胸はなさそうだ」
「そりゃあねぇ・・・」とスレイ。
「色々と後が怖いし、ドコで何言われて、誰の耳に入るかわかんないもの」とはディーン。
「なんかいちいち引っかかる奴らだ」
ルイスが
ディーンとスレイは二人揃って苦笑した。
「ところでどこで寝るの?」とスレイは確認した。
「司書室のソファー使おう。あそこならゆったり寝られそうだし、中から鍵がかかるから、ケダモノどもが変な気起こしても大丈夫みたいだし」とルイス。
「うん、そうしよー」とメル。
「それじゃ、二人ともおやすみ」とルイス。
「おやすみなさーいっ」とこれから寝るとは思えないほど元気なメル。
荷物を手に書庫を出る女の子二人を見送ってから、残された野郎二人は大きなため息をついた。
なんだかどっと疲れた。
スレイが片付けをしていて先程メルが遊んでいた新聞を目にしてギョッとなる。
既に日付が変わったので古新聞だ。
ライゼル伯のコメントのついた手合い結果の記事が出ているのはいつものことだったが、フィンツ・スタームの顔写真に黒縁眼鏡がラクガキされており、「だぁれ?」と
ルイスはニブいようだがメルは油断ならない。
「なんかいろいろとバレてるぞ、ディーン」
スレイの放った古新聞を確認したディーンはこめかみに手をやった。
「しかも
11月5日朝6時半。
意外にも一番早く目を覚ましたのはディーンだった。
並べた椅子の上に毛布にくるまり
肌を刺す冷たい空気に軽く身震いしながら書庫を出て、司書室を
「おっ、起きたのか?」
「このまま着替えてすぐに出ないと
スレイには明日の朝刊の見出しが想像出来てしまう。
『
元老院議会の昼休憩で抜け出してきたライゼル伯も見物していそうだし、スレイ自身時間の都合がつけば見物に行きたいところだ。
それに対フェリオ戦に北部方面軍最精鋭部隊の《黒騎士隊》が本格投入されるという意味だ。
《黒騎士隊》の主力機たるファング・ダーインら真戦兵再調整と隊員たちの骨休め休暇が終わり、国家騎士団は本腰を入れ、本格的にウェルリ攻略にかかるのだろう。
そして、国騎上層部はウワサの剣聖メディーナ・ハイラルに虎の子のアリオン・フェレメイフ大尉をぶつけるつもりらしい。
それでも派手に負けるようならフィンツまで引っ張り出されかねない。
「フェレメイフ大尉にタイアロット・アルビオレ攻略のヒントぐらい教えてやったら?そうそう、あの娘たちには適当に説明しておくよ」
タイアロット・アルビオレの攻略ヒントと聞いてディーンは上目で少しだけ考えた後にかぶりを振った。
アリオンは可愛い弟分だが、そればっかりは出来ない。
なにしろ建造にあたってはリンツ工房ともども大変な思いをさせられた労作なのだ。
「それはちとイヤだ。それと説明は任せた。今夜はふくしれー主催の送別会だろうし、戻るのは午後9時くらいになるかな?」
《騎士喰らい》などと陰口されていてもフィンツはゼダの騎士達皆から好かれている。
誰にも手を抜かない、花を持たせないが常だが、人的交流にも
それに
「でもさー、ディーン」とスレイ。
「ん?」とディーンは視線をやる。
「ちょっといいよな、こういうのってフツーの青春みたいでさ」
実のところスレイもディーンも普通の青春とはまったく無縁だった。
スレイにせよ、ディーンにせよ青春の日々というには
「へへっ、まぁね。少し楽しかった。普通の学生たちはまいんちこんなかなとちょっと思ったよ。
スレイはベッドがわりにしていた椅子に座り直し、改めて親友をみた。
シャツの下からはがっしりと
そして、スレイよりも二回りは太い二の腕。
普段はもっさりとした服に隠れているがディーンは意外なほど
当然だ。
「ほんとさー、お前には頭がさがるよ」
「べつにぃ、ボクはやりたいことをしたいようにしているだけでーすっ」
白いシャツのボタンを留め直しながら、ディーンは気のない返事をする。
「それが周囲の期待通りに・・・いや、あるいは期待以上にやってのけられる男を僕は他に知らないな」
スレイは昨晩読みかけにしていた本を手にする。
表紙には「用兵における人間心理学とその応用」という文字が読み取れる。
「なあ、スレイ?」
「ん?」
「完全にバレるのはいつだと思う?」
スレイは一瞬だけキョトンとした後に腹を抱えて笑い転げた。
「賭けるか?なら僕は来年の6月くらいかなぁ」
ディーンはさすがに良い読みをしていると思った。
「ボクはメルには年内には、お前の裏稼業以外なんぞ全部バレると思う。ルイスにはこちらから何か言わない限り永久にバレない」
スレイは「たはは」と苦笑した。
「僕等が何者であれ、なんかあの二人なら快く受け入れてくれそうな気がする」
スレイの指摘にディーンはルイスを脳裏に浮かべていた。
「確かにそうかも知れないな」
アイツだってきっとわかっている。
ルイスだって6年前のエドナ杯のことは鮮明に覚えているはずなのだ。
スレイはおどけた様子で続けた。
「でも、今はやめとこうぜ。ただでさえ秘密を打ち明けたばっかりだし」
ディーンは考え込んでいた。
メルの推察が正しいと証明するのはいつの機会になるのか。
「そうだな、お前でも完全に受け入れるのに時間かかったもんな」
ディーンはディーンせんせのトレードマークとも言える黒縁眼鏡を外す。
そこには先程までとはまったく印象の異なる一人の青年騎士がいた。
「いい
スレイは厚手のコートをディーンに手渡した。
「ああ、本当にいい
受け取った女皇正騎士フィンツ・スターム少佐相当官は防弾仕様のコートを羽織り、早朝のパルムを
女皇歴1187年11月5日、エウロペア大陸の運命を
彼らを襲う激しい嵐はもう間もなく現実のものになろうとしていた。
統一暦1512年7月17日 午後9時
「それで?」
すっかり日の暮れたケヴィンの教授室にポツンと
それもその
サマーバカンスとアルバイトで学生たちは別の意味で忙しい。
「キミの言う真実の物語とやらはなぜそんな学生たちの深夜の集いに始まるのかね?」
ケヴィン教授は尚も
「いや、ボクも《タッスル事件》あたりから始めたかったのですけど、エリザベートのワガママでして」
デリバリーで取り寄せた海鮮料理を口に運びつつ、ケヴィン教授はビールを口にする。
「ワガママゆーなっ!段取りよ段取り」とほろ酔いのエリザベートが抗議する。
「やれやれなんですが、まぁここも大事な始まりでして」と、これもカニの爪を手に説明しかけたティルトを、
(なんだすっかり尻に
ティルト青年の口ぶりとエリザベートの様子から二人の関係がかなり親密なものであることをこうしたことにはニブい教授も薄々感じている。
だが、関係を認めるかどうかは別問題だった。
彼の中でその問題はとっくに保留扱いとなっている。
「問題は時間ではないわ、場所と人物よ」と言ってティルトがまとめた論文のその部分を
「うん、これは昔の学生名簿の写しだな」
大学図書館に保存されている大昔の学生名簿。
そこには・・・。
「メル・リーナ、そしてルイス・ラファールかね」
老眼鏡を片手に教授は二人の名前を確認した。
「確かに二人の女学生がそこに存在したことは事実のようだね」とケヴィン。
「ところがよ、この二人が大学を卒業したという記録は残っていないのよ」
エリザベートの指摘にもケヴィンの反応は薄かった。
「ほぉ、ただ革命期の混乱で単に中途退学したのではないかね?」
物語の舞台は《6月革命》が起きる5年前にあたる。
「いいえ、二人が中途退学したという記録もありません」
ワインに心持ち顔を上気させたエリザベートは別の
「なぜなら、中途退学者名簿には彼女たちの名前が残っていません」とエリザベートが言えば、ティルトはすかさず後を続けた。
「というより、この4人は半年後に『休学届』を出したっきり大学に復学することはなかった筈なのです。おそらく中途退学ではないのは学籍の自然消滅です」
最早、尊敬する教授の前だということさえ忘れ、ゼミの学生よろしくビールを片手にしたティルトが
「
「大ありよ父さん、だって4人のうちの一人が誰だかもう話したでしょ」
エリザベートの指摘に「あっ」と教授は気付いた様子だった。
「そうか、そのうちの一人がディーン・エクセイル。彼はその後、助教授として・・・」
そうなのだ。
6月革命後にエルシニエ大学助教授(准教授でなく助教授)のディーン・エクセイルは「シャナム王回顧録」の口述筆記役として革命期に起きた出来事すべてを記す側となり、エルシニエ大学の助教授から教授、そして学長と肩書きを変えることになるのだった。
「そうよ、問題はその点よ」
やや酔いの回ったエリザベートは
「これは辞令集の写し。ここにはディーン・エクセイルが6月革命の後に復学していきなり学生の身分から助教授に出世している。大学院への進学もしていません」
エリザベートの主張に「確かに」とケヴィン教授はその指摘を認めた。
「しかし、彼は既に博士課程の卒業資格さえも満たしていたと話の中にはあったようだが?」
「ニブいわね父さん」とエリザベートは別の箇所を指摘した。「では、彼の助手を務めたのは一体誰だったかしら?」
「そんなのは自伝にも記されているし、史学生で知らん者などおらんだろう。彼の著書の冒頭には必ず『我が最大のパートナーにして共同研究者たる妻に
「それが誰なのかってことよ。だからロマンティックな出会いだってさっきから言ってるじゃないの」
エリザベートはニヤニヤと笑みを浮かべて一人で
ディーン・エクセイルの伴侶は誰なのか3人とも知っていた。
ケヴィンはおおよその答えは理解した上で聞く。
「つまりお前は、この二人の史学生女子のどちらかが彼のパートナーだったと言いたいわけなのか?」
「その通りよっ」
エリザベートは満足げに微笑んだ。
「そして、ティルトはその相手についての証拠もちゃんと用意している」
「はい、それどころか彼らに関してはもっと驚くべき秘密が・・・」と言いかけたティルトの口許をエリザベートが
なんとも大胆にその唇でだった。
しばし沈黙が流れた。
糸を引くような長いキスのあと、エリザベートはティルトの口元を指でつついた。
「ティルト、あなたの一番いけないところはせっかちな所よ」
「おい、リザ。場所柄をわきまえてくれよ。こんなとこ誰かに見られたらマズいだろ」
おそらくこの地上で一番マズい相手の目の前だった。
ところがケヴィン教授はなにかの思索に
二人の濃密なキスも見ていない。
「シェリフィス、シェリフィス・・・なにかで目にした名前だった筈だ。6月革命の前後でこの人物が関わるなにか重大な事件が・・・」
父親が別の関心事に頭を悩ませている間に、エリザベートは勝手に続きをリクエストしていた。
「その話はまたの機会にー。それよりアタシは舞踏会の話を所望いたしまーすっ」
「アレかー。キミはホント華やかな話が好きだよね」
ティルトが呆れた様子でいるのをケヴィン教授は意外な面持ちで
「それにしても、どうしてまたこんなことを丹念に調べる気になったかが私には理解できん」
「アンナ夫人の指摘だったのです」とティルトが言う。
「アンナ夫人?アンナマリーのことか?」
ケヴィンは
「彼女が大学500年史の編集作業で目にした一枚の写真が彼女の疑問の大元になりました。そこにはその後の歴史を左右した4人が
「ただ、なんだい」
もはや人ではなく猫かなにかに姿を変えた愛娘がティルトの意外に逞しい腕と
「彼らの一人が『正史』として語り伝えた内容とは完全に食い違い、大きく矛盾しているのです」
ティルトはそう断言してビールを
「それこそが、なによりも最大の謎で、その後彼らが辿ったとされる運命そのものとも
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