其の玖
三日目になった。
ありがてえことにその日は
ところがさ、
「おおいお侍よ。まだ土下座してんのかい」
「精がでるねえ。座ってるだけで女が飯を運んでくれるなんて、俺っちみたいな
「全くいい身分だことだぜ」
似たようなからかいをかけやがるが、今度はあすこの辻から呼びかけるようなやり方さ。
お鈴ちゃんにふられたのはくやしいが竜之介は怖い。
で、遠くから唾を吐きかけようってえ寸法さ。
いやはや、駄目な野郎はどこに出しても駄目なんだねえ。
そのうち、またあのおよねがやってきた。
例の物乞い女さ。
段々やり方も意地汚くなって、竜之介が何も言わないうちにかっぱらって行っちまうようになった。
それでも嫌な顔一つしねえのは、仏さまの
だが、辻のほうに消えようとしたおよねの行く手を、馬太郎がふさぎやがるのさ。
「おい乞食、その握り飯をよこしな」
およねはしばらく呆気にとられていたが、握り飯を懐にさしいれると、走って逃げようとした。
だが老いた女の足で、大男から逃げられるはずもねえ。
たちまちとっつかまって、地べたに転がされちまった。
「やい乞食。おめえみたいなのがいると、このお江戸がうす汚れちまわあ」
「さっさと死んだほうが、世のため人のためさ」
「いっそ俺たちが仏さまの所に送ってやろうか、今みたいに生きてるよりも、よほど幸せだろうぜ」
口々に言うと、男たちはおよねを蹴っとばしはじめた。
許せねえや、この手の輩ってのは。重ねて言うが、おいらがもしその場にいりゃあ、こんな
ただちょっと女房の奴によう、本当だぜ。
「おい、女が乱暴されてるんだぜ。助けないのか。そりゃあそうだろうなあ、
好き放題されて、およねは泣いて逃げまどう。
馬太郎とふとどき者どもは、高笑いしながら女を蹴とばす。
どんな野次にも眉一つ動かさなかった竜之介の顔に、初めて苦しそうな色が出た。
よおく見りゃ握りしめたこぶしは力あこめすぎて、ぶるぶるふるえてるじゃねえか。
竜之介は、それでも我慢してこらえてた。
ここを踏んばらなけりゃあ、お鈴ちゃんと一緒にはなれねえ。
だがよ、もとは一本気な男だ、堪忍袋の緒は、今にもはち切れそうだった。
しかしそうなっちまったら、お鈴ちゃんとの赤い糸も切れちまう。
耐えても地獄、立っても地獄よ。
お鈴ちゃんも、必死にこらえてた。
人情に厚いところは親分譲りよ。
だが自分が飛び出せば、竜之介も火中に飛び込まなきゃならなくなる。
そうなったら、ここまで頑張った竜之介の苦労を、自分が水の泡にしちまうことになる。
だから、涙ためてじっと、じいっとこらえてた。
だがよ、一番飛び出して行きたかったのは、誰より辰政親分にちがいねえ。
前にも言ったが、長屋の造りなんてこれこのとおり薄っぺら、表の声なんて丸聞こえよ。
あの下品な
元来曲がったことが毛虫や
意地張ってるまっ最中じゃなきゃあ、一も二もなく飛び出して、極道者どもをぶちのめしただろうに。
「おいおいこの女小便をもらしやがったぜ。くせえくせえああくせえ」
「なに、いまさら小便ごときがくさいものかよ。見ろよこのきたねえ尻、どこで用を足してるかわかりゃあしねえ」
親分の
足元蹴たてて扉をたおさんばかりの勢いで表に飛びだした。
だけどその親分を先回りして、いいやこの長屋のだれよりも先に立ちあがった野郎がいた。
「その人を放せ、下郎共」
そう、竜之介よ。
男たちの前に立ちはだかり、ひくうい声で言いはなちやがった。
「ふん。やっとやる気になりやがったか」
「さあ来い、
男たちが竜之介を取りかこむ。
いっせいにやっぱを抜く。
それからせえので飛びかかる。
「こいつ、すばしっこいぞ」
「なに、一度に飛びかかればどうと言うことはねえ」
ごろつきと言ってもしじゅうケンカに明けくれてるわけでも、まいんち道場で鍛えあげてるわけでもねえ。
あっちでこんがらがったりこっちでもつれ合ったりで、なかなか竜之介を仕留められねえ。
が、竜之介のほうもいまひとつ調子がよろしくねえ。
なんせこの寒空を二晩も飲まず食わずの座りっぱなしで過ごした後だってんで、腹から力が出ねえし足腰も
「どうしたどうした。そろそろ逃げ道もなくなるぜ」
じわりじわりと追いつめられてゆく竜之介を、馬太郎が舌なめずりしながら刃先でいたぶる。
着流しが
「さあそろそろいいだろう。一思いにやってやる。俺を莫迦にしたツケを、たっぷりと支払わせてやるぜ」
ついに壁際に追いこまれたそのときだ、
「お前さん」
お鈴ちゃんが竜之介に、つっかえ棒を投げわたす。
そいつを宙ではっしと掴み、目にまっ直ぐ構え、竜之介がぱっと動いた。
「あ」
「畜生」
「いてえ」
その動きがすごかった。
一息で三人の腕を砕いちまった。
男たちは得物を取り落とし、今度は手前が地面に転がってひいひい泣き出した。
のこるは馬太郎ただ一人。
手のやっぱをすてて、腰の長いのをぬきやがる。
「おい、刺すぜ、俺は本当に刺すぜ」
剣先までぶるぶるふるえあがって、まだ強がりを言いやがる。
竜之介はつっかえ棒をぴたりと相手の目につけ、
「下郎。二度とこの町に来られぬようにしてくれる」
言うが早いか、得物を一気に振りおろす。
棒先が小手をたたき帯と
「ひええ」
腰のぬけた馬太郎が尻餅をつく。
拍子に股の間でちぢこまった逸物が顔をだした。
笑ったね。
なにが馬太郎だ。
あんなの指太郎、いやいや小指の先太郎でもお釣りがくるってんだ。
大方ちいせえ自前の逸物がずうっと気に食わなかったんだろう、嘘でも人前では天下一ってえ顔をしたかったってわけさ。
「参る」
ひええ、馬太郎がもう一つ悲鳴をあげた。
つっかえ棒の中ほどで額をぽかんと打たれ、道の真ん中に大の字でのびちまった。
「いよ。
声があがると拍手が出るのさ。
こちとら江戸っ子でえってなもんよ。
そんくれえ鮮やかな手並みだった。
俺も若い時分にゃ道場なんぞにも通ったが、あんな見事な剣、いや棒さばきは、ついぞ見たことなかったね。
歌舞伎や芝居でも、ああはゆくまいぜ。
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