其の漆

 竜之介は毎日顔をだした。

 お武家特有の、あのしゃきしゃきした歩き方でな。

 礼儀正しく、背筋のびしっと伸びた若い衆だ、見ていて清々すがすがしかったね。

 なにせ最初は面白半分だった長屋の連中が、段々本気でお鈴ちゃんとの仲を応援しだした。

 好きにならずには居られないようないい奴だったのよ、この竜之介も。

 娘も数えで十六って事はそろそろ輿入こしいれしなきゃって年ごろだ。

 その上つれてきた相手は申し分ないときてる。

 一方だ、参っちまったのは辰政親分の方よ。

 あいかわらずの鬼瓦おにがわらみてえな面あこしらえてるが、声や仕草がどうにも険しくなりきれてねえ。

 毎日竜之介の顔見るうちに親分も段々ほだされちまって、嫁にくれてやってもいいかってえ気になっていたんじゃねえか、なんてみんなささやきあったさ。

 だがよ、一度つっぱねた手前、やっぱり気がわったじゃすまねえのが江戸っ子の石頭。

 こう、うまいこと手のひらを返す言い訳が見つからないのさ。

 だから親分、相手をためした。

「武士をやめるやめるって言いながらお前さん、一向にやめる気配がねえじゃねえか。そんなもんでどうやって俺の大事な娘をやれるっていうんだ」

「わかりました」

 言われたが早いか立ちあがり、竜之介は風のように家を飛びだした。

 しばらくたって戻った竜之介、見れば重ったるい袴姿があらたまって、軽やかな着流しに変わっちまってるじゃねえか。

「お前さん、腰の大小をどうなされた」

 入り口でむかえた親分も、この早技にはさすがに呆れた様子で聞いた。

「お家に返上いたしました。これこの通り、勘当して頂き、晴れて町人と相成りまして御座います」

 こうと決めたらまあ早いこと、一刻と半分もしねえうちに、本当にお武家でなくなっちまいやがった。

 坂東の苗字を捨て、ただの竜之介になったのさ。

「あらためてお願いいたします」

 戸口の前に両膝を着き、深々と頭を下げた。

「お鈴さんを、私にください」

「おとっつぁん」

 お鈴ちゃんは胸一杯って顔だ。

 だが親分、ここでもうひとつ石頭を上乗せしちまった。

「そんなカタっ苦しい町人がいてたまるかい」

 うしろ手に戸をぴしゃりと閉め、

「そこで三日三晩そうしてるがいい。言うとおりにできりゃあ娘でもなんでもくれてやらあ」

 そう言いのこした。

 三日三晩。

 冗談じゃねえやな。

 そうだろう、暦の上じゃまだ長月だってのに、残暑なんて欠片ほども残ってやしねえ、霜月か師走かって寒風がぴいぴい吹いてやがる。そんな中に、三日と三晩だって。

 どんな頑丈な野郎でも、この寒さに当てられればたちまち凍っちまわあ。

 考えただけでも、おう胴ぶるいしやがる。

 大体よお、腰の大小はお家に返せても、冷えると催すあちらの大小はどうすればいいってんだか。

 はばかりながら、かの家康様だって三方ヶ原の合戦であちらを我慢できずに、なんてこぼれ話もあるじゃあねえか。

 土台人間は三日間も座っていられるようにはできてねえのよ。

 だが、竜之介はそんな風には一切思わなかった。

 どんな血をひいてどんな育てられ方をしたらあんなにまっすぐな男ができあがるのか、正座したっきり、そこにじっと固まっちまいやがった。

 肌に食いつくような寒さの中、着流し一丁でだぜ。

 風ばっかりじゃねえ、地べたっからも冷えは津々としみてくる、日が落ちりゃあ肌をあたためてくれてたお天道さんは雪玉みてえなお月さんと入れ替わりやがる。

 朝方がまたきついやな。

 布団の中に篭りこもりっきりになっても、洟が氷柱になりそうなぐれえ体の芯まで冷えこみやがる。

 だが、竜之介は文句なんざこれっぱかしも口にしなかった。

 ただじっとそこで、座りつづけやがった。

 お鈴ちゃんが差し出す食い物も半纏もはねつけて、そのまんまの姿勢で身じろぎ一つしやしねえ。

 長屋の連中も見かねて、

「他になにかやり方を探したほうがいい」

 だの、

「辰さんも引っこみがつかなくなってるだけさ」

 だの、いろいろ説いて節介を焼いちゃあみたんだが、肝心の竜之介が寸ともゆずらねえで、

「ありがとうございます」

 ただそう言って笑うばかりだった。

 一方、無理難題を吹っかけちまった辰政親分も、座敷の奥にどっかりと座ったまま動かなくなった。

 どうやら表の竜之介と我慢くらべをする腹づもりらしい、こちらも飯はくわねえ便所にもいかねえってんで、畳に根っこが生えたみたいになっちまった。

 参ったのはお鈴ちゃんさ。

 頑固親父といい人にはさまれて、日に日にやつれてきやがる。

 せめて一口だけでもと、握り飯と漬物と汁椀一つ、二人の膝元に置いてみせるが、どちらも目もくれやしねえ。

 挙句お人よしの竜之介にいたっては、物欲しそうに見つめる乞食に

「どうぞもらってやってください」

 その食い物をやっちまうしまつ。

 お手上げさ。

 もうどうにもなりゃあしねえ。

 おいらたちにできることってったら、時間が寸時でも早くすぎるのを願うだけ。

 一日二日と、歯の根もあわねえような寒い日がつづいた。

 朝、お天道さんがご尊顔そんがんを見せる。

 白い息を吐きながら、お鈴ちゃんが飯を炊く。

 そいつを握りかためて、汁椀をふたあつ用意して、表と中の頑固者に、一つずつ出してやる。

 昼にも同じように、握り飯と椀物を用意してやる。

 もちろん二人とも手をつけねえ、かわやにもたたねえ。

 夜にもまた、おんなじことをお鈴ちゃんはする。

 食欲はねえようだったが、自分だけはしっかりと食い物を腹におさめてた。

「どっちかが倒れたら、今度はあたしが気ばらないといけないんだからね」

 それからぷんぷんして、

「男って生き物は、本当に莫迦なんだから」

 なんて怒ってた。

 てえした肝っ玉だ。

 将来立派な御内儀ごないぎさんになると思ったね。

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