第五章 クリスマス前 ⑥
累のアパートに向かう途中、スーパーに寄ってクリスマス用の鶏肉を購入。他にもビーフシチューでも作ろうと思い、一通り具材を買い揃えた。食材を見て回っている時に累の顔が綻んでいくのを見てしまって、胸の奥の方が激しく疼く。しだいに痛みへと変わった。最大まで胸を痛ませつつ、会計を済ませてスーパーをあとにした。
そして、現在。
累の自宅アパートに到着。食材をキッチンに置いたところで、背後に立っている累が訝しげに口を開く。
「やっぱり、様子が変な気がする……」
鋭い観察力だ。しかし、魁斗は振り返らない。
累の目蓋が半分閉じられ、こちらをじーっと見てくる。
「そ、そう? べつにいつも通りだけど……」
反射的に体はビクついてしまったが、動揺を表には出さず、苦笑いを浮かべながら答えた。
「んん……?」
目を細めて首を傾げ、腕組みしながら、納得のいってない顔を累が浮かべる。
魁斗は気を紛らわすように累に言った。
「あったかいお茶飲む? おれ淹れるよ」
「うーん……」
返事なのか、悩んでいて漏れた声なのか、判別がつかなかったが魁斗は返事と捉え、電気ケトルに水を注いでいく。キッチン棚からお茶の葉を用意し、累の方に振り返ってみると、いまだに腕組みをしながら、「うーん……」と唸っている。
「座ってていいから、ね」
こたつを指差すと、唸りながらだが指示通りに累がこたつに入って行く。
よし、いい子だ。とりあえず自分も落ち着かないと……。
バレないように、そっと息をつき、少しだけ落ち着きを取り戻すが、いまだにクリスマス・イブのことを切り出すことができない。
お茶を飲んでからにしよう……。
決心がつかず、ひとまず先送りにした。
「はい、お茶」
「うん……ありがと」
累にお茶を手渡す。じーっとこちらを観察するみたいに見ていたが、素直に受け取ってくれる。魁斗もこたつに腰を下ろすと、ズズッとお茶を一口含む。
えらく、苦い……。
いつも通りにお茶を淹れたはずなのに物凄く苦く感じる。累の方を見てみると、そんな素振りは一切見せず、普通に飲んでいた。
……今の、おれの精神状態のせいだろうか。
はぁ、と自然とため息が漏れ出す。湯呑の中の茶柱を探してみた。
全然、たってないな……茶柱。
「ねぇ、魁斗」
「はいっ!」
声をかけられ、ほとんど反射的に返事。目線を上げると向かい側に座っている累が迷ったみたいに瞳を揺らしている。そして、きゅっと顔を真剣にさせると、なぜか天板に手をついて身を乗り出してくる。
「ちょっと歯を見せて?」
「歯? ……え、なんで?」
「いいから口を開けなさい。はい、あーん」
「あーん……」
言われるがまま、とりあえず口を大きく開く。累が両目をすがめて、なぜか歯を覗き込む。
「
魁斗の問いかけには無視。それか意味が通らなかったのだろう。累は体をもとの位置に戻すと、
「虫歯も無くて、健康的な歯ね」
問いかけには答えてくれなかったが、自分の歯の感想を述べてくれた。
「そうだろ? 自慢の歯だ」
キラーン、と魁斗は白い歯を強調するように累に見せびらかす。
「……そうね」
累はその一言だけ言うと黙り込んだ。いまだに歯を見せるように口を『いー』の形にしているが無視される。顎に手を添えると、累が目を伏せ、なにかを考えている。一向に自分の歯に視線を向けてくれない。空気にさらされた歯が渇く。
魁斗は広げていた口を閉じた。
――んで、今のなに?
※※※
いまだに明日のことを切り出すことができなかった。
魁斗はお茶を飲み干すと、逃げるようにキッチンに立った。
今日買った食材をレジ袋から取り出して、フライパンと鍋を用意。
「照り焼きでいいか?」
こたつに座っている累に問う。すると、累が不思議そうな顔で疑問を口にする。
「いいけど……なんでもう鶏肉焼くの?」
「あっ……」
体を固まらせる。
脳内では、しまったと思った。
自分はただのアホだ。
累の疑問は当然のことで、今日は十二月二十三日。クリスマス・イブは明日で、クリスマスでもなんでもない日にどうして鶏肉を焼こうとしているのだろう、と思ったにちがいない。
さすがに今の自分の言動は違和感を覚えられてもしょうがなかった。
いつ切り出そうか迷っていたが、累の問いかけをきっかけに明日について話すことをようやく決心。固まっていた唇をようようと動かしていく。
「あのさ……おれ、明日のイブ……その、予定が入ったから、たぶんここには来ないと思う」
言った瞬間だった。
「――え?」
累が目蓋を大きく広げ、固まる。
そのまま数秒、瞬きもしていなかった。
一度ゴクリと喉を鳴らして、魁斗は気まずげに視線を彷徨わせながら続けた。
「いや、だから……明日来ることがちょっと無理だから、代わりと言ったらなんだけど……今日、チキンとビーフシチューを作って一緒に食べようかと……」
精一杯の埋め合わせをしようと思ったのだ。それは、自分の罪悪感を薄めるためでもあると思う。
だけど、なにもしないよりは……。
彷徨わせていた視線を累に向けた。
累は戸惑いと、他にもよくわからない何かが表情に浮かんでいる。
「あ、嫌ならさ……作り置きしとくから明日食べな……」
言うと、キンキンに尖ったつららみたいな視線が返ってくる。その視線に耐えきれず、また眼球を彷徨せる。だが、とりあえず言うべきことは言った。
全てを言い終え、しばらく黙って目を泳がせる。
「「……」」
外でもないのに、凍りつくような冷たい風が室内に吹き荒れているようだった。
それから数秒間、極寒のひと時を体験。
気まずい。過去最大だ。最大級に気まずい……。
魁斗は泳がせていた眼球を戻し、ようやく累を視界に入れた。視界に映った累は驚きのあまり声を失っているようだった。目を丸くして体を硬直させている。しかし、小刻みに体が震えており、そのまま爆発しそうにも見えた。視線が合ったことで累が声を出していく。
「……ちょ、ちょっと……待ってよ」
混乱しているのか、まつ毛を震わせながら瞬きを繰り返し、呻くみたいにもう一度同じ言葉を繰り返す。累がこたつから立ち上がろうと片膝をつく。が、座布団が滑ってバランスを崩し、すっころげた。ドタン、と勢いよくこたつの天板に額を打ちつける。
うげっ、痛そう……。
見事なこけっぷりだった。
「お、おい……累? 大丈夫か……?」
累が顔を上げると打ちつけた額が赤くなっていた。ほとんど涙目になって額を懸命に手でこする。
「えっ……でも、だって約束……約束した……」
弱々しく声を上げ、魁斗を静かに見つめ返す。累は、さっきの転倒もあって、表情が呆然としている。
「明日、ほんとに来れないの……?」
確認するように尋ねてくると、寂しげに瞳を揺らしながら見上げてくる。
胸が張り裂けそうだった。
この目を見る気がしていた。
見るのが嫌だった。
だから、伝えるのが嫌だったんだ。
――だったらなんで?
自分に問うと、すかさず村雨風花の顔が思い浮ぶ。
「その……約束したから……」
「わたしとも約束したっ!」
累が食い気味に声を上げる。
「や、約束はしてないだろ……お互いに空いてたらの話だった」
「……」
累は目を見開いたまま、口をパクパクとさせる。その言葉が本当であるために、なにも言い返せないようだ。いまだ痛む額を覆って、何度か大きく息をして、でも言葉が発せられない。すると、淡い色の瞳を吊り上げ、睨みつけてくる。苛立ちや悲しみを嚙み殺すように、薄く唇を噛みしめる。
「……誰」
「は?」
「だから誘われたんでしょ!? クリスマス・イブにっ! 誰っ!?」
「いや、なんで!? べつに言う必要はないだろ?」
魁斗は口をつぐむ。
言ったらダメな気がした。
累の目が鋭くなる。
それでも黙る。黙秘権を行使するように両手で口許を覆った。
その行動で、ますます累の
累が転倒することなく畳からすくっと立ち上がった。
大股で一歩。
魁斗の傍まで近寄り、肘辺りの服の袖を強く引っ張る。
「いったい、誰よ……?」
「おまっ、しつこいぞ! なんで言う必要が……」
「気になるのっ!」
「なんでだよっ!」
「知らないわよっ!」
「こっちが聞いてるんだけどっ!?」
「このバカッ! 薄らとんかちのおたんこなす! あんぽんたん! おたんちん!」
「今どき、珍しい罵声の言い方だなっ!」
酷く激昂したように累が魁斗の腕を引っ張り、ぶん回す。
物凄く痛い。腕が引きちぎれそうだ。
魁斗は力づくで累の手を振り切ると逃亡を図る。
「この……待ちなさい!」
逃亡を許さない累が追跡してくる。
二人して六畳一間をぐるぐると駆け回る。だが、さすがに狭い室内。すぐに距離を詰められた。顔をひどく紅潮させた半べその累が腕を振り回し、頭や肩や背中などにビシバシとヒット。累の繰り出すやけっぱちな攻撃が痛い。
コノヤロウ……。
イラつき、こちらも負けるかと意地になった。
累の攻撃をいなすと、おでこに腕を伸ばしてバチコン! とデコピンを食らわせる。累はまさかの反撃に撃って出られるとは思っておらず、まともに額にヒット。累が驚いた表情で動きを止めた。ただ静かに黙って、しばらくこちらを見つめて瞬きを速める。
デコピンをした後に、気がついた。
あ、やべ……さっき盛大に転んでおでこをぶつけてたんだった。
気づいた直後、累が痛そうにおでこを押さえて「うぅ……」と唸り声を上げる。ついには目から涙を流し始め、くしゃっと口が歪んでいく。
泣かせてしまった……。
途端に込み上げる罪悪感。
固まる魁斗に累が再び反撃に出る。
「あ、あんたなんか……あんたなんか、あんた、なんか――!」
怒涛の連打を顔や体に存分に浴びながら、
「もう知らない!」
最後の一撃は鋭い蹴り。しかも、部位がヤバかった。累が放った蹴りが魁斗の股間に深々と食い込む。
「ほぐぅぅううううっ!」
あまりの衝撃に叫びながら、膝をつく。完全にノックアウト。戦意を喪失。股間を押さえ、床に伏せそうになる。どうにか倒れないように保とうとするが、腰砕けになった体には力が入らない。累は、そんな弱ってしまった魁斗を気遣う様子は一切なく、
「この童貞! 出てけ!」
ドン、ドン、と張り手を食らわす。そのまま魁斗は、よろめきながら玄関の方へと追いやられ、
「性欲まみれのバカイト! 使い物にならないわよ、そんなの!」
ついには玄関を越えて扉の向こう側へと押し出された。靴をビュンビュン外に投げ捨てられ、バタン! と勢いよく扉が閉められる。
そうして、ようやく冷たいコンクリートの上で女性では決して理解し得ない局部の激痛に悶えながら体をうずくまらせた。歯を食いしばって顔を上げる。閉じられた冷たい扉を眺めて、思う。
な、なんて
局部の痛みも然る事ながら、胸の痛みも、まだ消えてはいない。唇を深く噛みしめた。
扉を閉めるときの顔が鮮明に焼き付いた。
今にも決壊しそうな、表情。
くそっ……最悪だ、傷つけた。馬鹿かおれは……
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