第五章 クリスマス前 ③


 カチャカチャとナイフとフォークで食べ進め、エッグベネディクトを完食する。魁斗にとっては多少、少なめではあったがお腹はまずまず満たされる。それ以上に胸が満たされまくっていた。風花と会話が弾んだのだ。とは言っても内容はお互いのクラスのことだったり、少し前に行った修学旅行の思い出など、当たり障りのないものではあるが。


 話し途中に突然、風花がなにかに気づいたように大きな瞳を開き、魁斗の顔をじーっと眺めてくる。


「えっ、なに? ……どうしたの? 風花ちゃん」


 突然見つめられ、戸惑う。風花はなにを思ったのか席を立ち、魁斗の座っているソファー、つまりは隣に腰掛けた。


「え、え、ええっ!?」


 唐突に隣に来た風花に目を向け、あわあわと戸惑い続ける。そんな自分を見ながら、風花がなぜかいたずらっぽく微笑んで、顔を近づけてきた。


 えっ、なに? キスするの? 学校の話をしているこの流れで!? キス? いや、そんなバカな……。


 風花がさらに顔と体を近づけてくる。


 ま、まって!


 魁斗はとっさに身を後ろに引こうとして足で床を押すが、焦りと掃除が行き届いている床のせいでツルッと滑った。さらに、身を引こうにも後ろは背もたれ、身を引けるはずもなく魁斗の体は定位置のまま。横に体を逃がせば良いのだが、そんなことも思いつかない。そうしている間に風花がどんどん距離を詰め、片手をソファーについて身を乗り出してくる。いよいよ風花の顔が目前にまで迫ってくる。


 うわっ、ヤ、ヤバいっ……!


 ぐっと食いしばるように目を閉じた。

 次の瞬間に、唇になにかが触れた。

 だけど、それは想像していた感触とは違っていた。


 なんか、カサカサ……してる?


 目を開けると、テーブルペーパーで風花が魁斗の唇を拭いていた。


「あ、あれ?」


 思わず間抜けな声が漏れる。風花を見ると、いたずらな笑みをそのままに、テーブルペーパーで拭いた部分を見せてくる。一部が黄色く染まっていた。


「ついてたよ。黄身か、オランデーソース」


「あ、あぁ……」


 胸を撫でおろす。


「ありがとう……」


 そして、お礼を言った。

 しかし、風花のいたずらな笑みは続いたままだった。


「なにか、されると思ったの?」


 口の端が上がっていく。


「ちがっ……! ちがいます」


「敬語になってるけど?」


「いじめないでください!」


「いじめてないんだけどなぁ……でも……」


 風花が口許を耳の傍まで近づけてくる。そっと吐息をかけるように囁いた。


「魁斗くん、かわいい……」


 今度はゾクゾクとすると毛穴がぶわっと開き、ビギャーン! と、脳天に稲妻が落ちた。





 ※※※





「……」


 風花が隣に座ったまま元の席に戻らない。

 風花の肩と己の肩が触れ合っている。


 いい匂いがする……。


 気分が高揚。

 累や左喩とはまた違う香り。男が虜になりそうな濃厚で甘く優雅な……それでいてムンムンと色気を感じてしまう、そんな危険な香りだ。


 フローラル? おそらく薔薇の香り……いずれにしても……危険ワンダフルだ。


 思い浮かべる言葉の意味と読みが乖離はくりする。自分の理性がおかしくなりかけている。随分と前から脳が溶けたような感覚でいた。


「――魁斗くん」


「はぃ」


 ぽやぽやしている意識の最中、名前を呼ばれるも蚊みたいな声で返事をしてしまう。意識を風花の方に振り向けると、


「手が、また荒れてるね」


 上気したような顔。そして、いつのまにか手を持たれていた。


「つけてあげるね。ハンドクリーム」


 そう言うと、ポーチからハンドクリームを取り出す。くるくる、きゅぽん、と蓋が外され、風花は自分の手にクリームを塗りたくっていく。


 これって、もしかして……。


 風花はクリームを塗りたくった手を魁斗の手に絡ませていく。


「ぅぐっ……」


 歯を食いしばり必死に堪えようとしたが、思わず声が漏れた。互いの指が絡まり、薔薇の危険な香りがさらに濃度を増す。強く鼻孔を刺激する。長い指が器用に動かされ、ぬちゃぬちゃと淫靡いんびに塗りたくられていく。


 ぅぁ、ああ……。



 ――脳が溶けていく



 ダメだ……頭が、これ以上は、ぱっぱらぱーになる。


「風花ちゃん!」


 思った瞬間、魁斗は物凄い勢いで立ち上がり、塗りたくられていた手を挙上。元気よく万歳、もしくはお手上げみたいなポーズをとる。


 風花は唐突に離れていった魁斗の手を見上げると、瞬きをぱちぱちと速めた。


「あの……恥ずかしいので、もう、こういうのは……大丈夫」


 どうにか伝える。これ以上やられると本当に理性が飛びそうだった。自分はアホなまでに思春期な男子のようだ。


 一瞬、間が生まれる。


 やがて、風花が唇を引き結び、瞳を悲しげに落としていく。


「ごめんね……。わたし、人との距離がわりかし近い方だから……。魁斗くんが、嫌なの……気づけなくて」


「あ、やっ……! 嫌ではないんだよ、全然!」


「でも……」


 風花は瞳を揺らしながら指を差す。


「お手上げのポーズしてる」


「……」


 どうやら、この両手を上げている姿勢が、お手上げのポーズと捉えられたらしい。


「これは、風花ちゃんの……身を守るためのポーズだよ」


 相手が聞けば意味わからない言い訳を素直に伝えた。

 聞いて風花が首を傾げる。


「あたし……?」


 わかっていない様子で自分の顔を指差している。


「そう。それ以上は聞かないように……」


「……あ、はーい」


 納得したのか、それとも理由がわかったのか、妖しげに唇を緩ませて風花が手を上げる。

 とりあえず落ち着こうと着席。大きく深呼吸。

 ハンドクリームを塗られた手のひらが無性に熱い。自分の手からチューベローズの甘くて艶やかな香りが漂ってくる。思わずうっとりしかけていると、


「ふぎぃっ」


 風花が鼻をむぎゅっと摘まんできた。鼻の穴が閉じられる。


「ふぁ、ふぁに!?」


 鼻声で叫ぶように尋ねる。


「べつにぃ~、けっこう鼻梁が高いんだなって思って」


 なんだその理由!?


 摘まれていた指が離れる。ダイレクトに鼻の穴にチューベローズの匂いが侵入してきて、ついには失神しかけた。

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