第七章 綺麗な月とともに ③


 教室に着くと自分たちに気がついたクラスメイトの好が近寄ってくる。


「おはよう、魁斗くん! おはよっ、累ちゃん!」


 好らしい、いつもの明るい挨拶。


「おはよう、このちゃん」


 魁斗は微笑みながら好に挨拶を返す。


「……おは、よ」


 その隣で照れながら小さな声をぽつり。たどたどしく、ぎこちない、だけど少し温かみを含めたような挨拶を累が返した。


 教室内にいたクラスメイトたちが一斉に目をまん丸くさせた。かくゆう自分も隣で驚きのあまり、目の玉がこぼれ落ちそうなほどに見開いてしまっている。


 クラスメイトたちの頭の中はきっとこうだ。



「「「「「挨拶したっ!?」」」」」



 好は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに顔を綻ばせると心の底から嬉しそうに、


「おはようっ、累ちゃん!」

 

 もう一度挨拶をする。


「お、おはよぅ……」


 恥ずかしがりながら累はそれに答えた。

 女子ーズの二人がそれを見て満面の笑みを浮かべて近づいてくる。


「はよ~、るーいちゃ~ん」


 女子ーズの片割れ河野がギャルピースしながら挨拶する。


「お、おっ、はよ~」


 おずおずといった感じだが、累は真似たような口調で挨拶を返す。だが、さすがにギャルピースはしていなかった。


「おはよぉ、累ちゃん!」


 女子ーズの片割れ山際が元気よく挨拶する。


「お、おはぼぉっ……」


 四回目にして挨拶を噛んだ。下を向き顔が赤くなりながら、累の呼吸が浅くなる。なんとか立て直そうとしている様子。深く息を吸い、ゆっくりと吐いている。


 ……がんばれ。


 つい応援してしまった。


「お、おはよぉ……」 


 目線こそ合わせなかったが、今度こそ累はきちんと挨拶を言えていた。


 おおーっと周りが騒ぎ出す。そして、見ていたクラスメイト達がなぜか目をキラつかせながら、次々と累に近づいてきて口々に挨拶を始める。まるで、客寄せパンダの状態だった。


 しかし、累は誰ひとり蔑ろにはせず、ひとりひとりの挨拶に対し、きちんと挨拶をキャッチしてから投げ返している。


 優弥もそれに乗っかって挨拶をしに来ていたのだが、優弥だけはなぜか無視されていた。おそらく挨拶の声が累に届いていない。周りの人にも気づかれていない様子だ。もみくちゃにされながら、人垣から勢いよくはじき出されていた。

 

 それでも累は、他の人にはきちんと挨拶を返していた。

 

 な、なんなんだ……この現象は……?


 呆気に取られて、魁斗は取り残されたように教室のドア付近で、ただその光景を眺める。


 ひとしきり集まってきたみんなとの挨拶を終えると、累は席に着こうとはせずに教室内をきょろきょろと見渡す。そして、魁斗の前の席に勝手に座っている、その人物のもとへと歩み寄っていった。


 えっ……どこ行くんだ? 


 いまだに教室の入り口で立ちすくんでいる魁斗はほったらかされ、累の背中が遠ざかっていく。


 累がその席の近くまで歩み寄ると、一度ゴクリと喉を鳴らして、意を決したように口を開いた。


「あ、あの……おはよう、友作くん……」


 魁斗の席の前に座っていたのはクラスメイトの南原友作だった。


 累が、自分から挨拶に行った……。


 と、魁斗はいまだ驚愕のあまり教室の入り口で突っ立ったまま。二人のやり取りを遠くから眺める。


 友作は挨拶をしてきたその人物に驚きの目を向けていたが、すぐに笑顔を浮かべると、


「おはよう、累ちゃん」


 挨拶を返す。


 累は自分の制服スカートの裾をぎゅっと握りしめると、息を詰めながらも顔をしっかりと友作の方へ向けて言った。


「あのっ……! この前は酷いこと言って……ごめんなさい」


 累はその言葉を伝えて、頭を下げた。


 それに驚いたのか、友作は目を大きく見開くと、手と首を横にブンブンと大げさに振って、言葉を返す。


「いやいやいや、いいよ! 累ちゃん、謝らないで! ほら、顔上げてっ! あれは、おれがいけなかったんだ! ずかずかと、その……累ちゃんに、勝手に土足で入りこもうとして……おれが悪い! だから、ほんとに……こっちこそっ、ごめん!」


 友作も、がばっと勢いよく頭を下げた。


 遠くで見ていた魁斗は詳細までは聞き取れず、ただぼーっとそんな二人のやり取りを眺めていた。


 とにかく二人が頭を下げて、謝り合っているのがわかる。

 おそらくは累が友作に言った酷い言葉を謝ったのだろう。


 累がゆっくり顔を上げる。


「許して、くれる……?」


 もじもじと上目がちに潤んだ瞳を向けて友作に言う。

 友作は顔が真っ赤になって、


「も、もちろん!」


 大きな声で答えた。


 安心したのか、累は目を細めながら微笑みを浮かべて、


「ありがとう」


 言うと、友作の顔がカチンッと固まってしまった。



 






 一通りのやり取りを終え、累は自分の席に戻っていった。

 魁斗もずっと教室の入り口で突っ立っていたことに気がついて、自分の席へと歩いていく。

 席に座り、前の席に座っていた友作に挨拶するも、こちらを見向きもせず、累の席の方をぼーっと眺めていた。


 累は席に座っても、挨拶をしに来てくれるクラスメイトたちに笑顔で挨拶を返していた。


「なぁ、魁斗……」


 固まっていた友作が挨拶も返さずに、いきなり声をかけてくる。


「累ちゃんてさ……可愛いよな……」


「はっ?」


 こっちは挨拶をしただけなのに、こいつは唐突になにを言い出すんだ。


 魁斗も友作が見ている同じ景色を見る。

 累は今も一生懸命に、たどたどしくも、頬を緩ませながら挨拶を返している。そして、どうにかこうにか会話も続けていた。


 累が、可愛い……。


 今、思えば自分だって、ずっとまともには累の姿を見ようとはしていなかった。

 一緒に住んでいた、過ごした時間は誰よりも共有してきたつもりだけど、今こうして、目の前で頑張っている累の姿を自分は知らない。いまだに累のことは知らないことばかりだ。だから、もっと知りたいと思う。それは、心の底から溢れてくる自分の心情だ。


 今、目の前にいる累はいくらか色が違って見える。

 色鮮やかに、輝いて見えるほどに美しく思う。


 吸い込まれ、自然と目が向いてしまう。


 累は可愛いさ。そんなの今さらだ。とっくの昔から知っている。

 だって家族だし……無理やりにだが、妹にしていたんだし……今だって妹だけど……。


 累が笑顔でクラスメイトと話している。

 胸がトクンと高鳴った。


 あいつの笑顔は……。


 そうやって、色々と考えていると、いつの間にか授業も終わっていて、一日があっという間に終わった。





 ※※※





 翌朝。


「おはよう」


 累の顔は、今日も上気しているように見え、ぽやーっとしている。


「……おはよう」


 挨拶が返ってくる。


「……」


 累は校舎に向かわなかった。


「……一緒に行くか?」


「うん」


 一緒に並んで教室まで足を運ぶ。





 




 教室に着いた途端だった。


「累ちゃん、おはよーっ」


 好が累に飛びつくように挨拶をしてきた。


「あ、魁斗くんもおはよ」


 ん、昨日となぜか、順番が逆になっているぞ?


「……おはよ」


 累が微笑みながら挨拶を返す。


 近くで見ていたクラスメイトたちがひそひそと「今日も挨拶したね……」となにやら囁き合いながら耳打ちを交わしている。


 累は少し照れているのか、耳まで真っ赤にして顔を伏せる。


 好はにっこりと満面の笑顔で、


「今日はいい天気だね」


 と、言葉を続ける。


「うん……いい天気」


 返事が返ってくるのが嬉しいのか、好は目を輝かせておしゃべりに入った。

 累もまんざらではなさそうに、ぎこちないけど優しい笑顔を浮かべながら会話を続ける。


 なんか、邪魔しちゃ悪いな……。


 魁斗はそっと自分の席の方まで歩いて行った。

 振り返ると、席に着いた累の机の周りには何人かの女生徒たちが集まり、女子トークを展開している。男子が入れる雰囲気ではなくなり、魁斗は遠く自分の席から、その光景を眺める。


 すごいな……挨拶を交わすことがこんなにも奇跡を生むのか……。人の心が通じ合うって、けっこう、シンプルなものなのかもな……。


 ひとり感心をしていると、いつもながら前の席に勝手に座っていた友作が魁斗の肩をトントンと叩く。


「なんかさ、やっぱり累ちゃんって変わったよなぁ? 見えない壁っつーか威圧感がまるで無くなった」


「……そうだなぁ」


 変わったことは喜ばしい、たいへん喜ばしいのだが……


「なにがあったんだろ?」


 友作が質問を続けてくる。


「さぁ……」


 引き続き、累を見る。

 

 ……なんだか、様子が変な気がする。


 やっぱり目がぽやぽやしている。頬を上気させ、なんだかのぼせているようにも見える。


 あいつ、大丈夫か……?


 そう思っていると一時間目の授業のチャイムが鳴った。

 友作が席に戻っていき、自分も机の上に教科書を並べる。

 一時間目は数学。計算は大の苦手だ。


 いつもの教室。だけど、少し変わった。

 窓から涼やかな風が教室内に吹いた。





 ※※※





 そして、午後。

 五時間目の現代社会の授業。

 黒板をチョークで鳴らす音が教室内に響く。

 昼食後の授業はどうにも眠くなる。

 魁斗はぼんやりと教室内を眺める。

 カッ、カッ、カッと、静かな教室で黒板とチョークがぶつかる音が小気味の良いリズムを刻み余計に眠気を誘ってくる。


 そして、



 ――どさっ



 なにかが倒れる音がした。


 魁斗は瞬間的にその音がなにかわかった。


「えっ……累ちゃん!?」


 後ろの席の女生徒が倒れた相手の名前を呼び立ち上がる。

 魁斗はがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。


 息を止めるようにして、自分の目を見開いた。


 

 

 ――倒れたのは、累だった。

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