第六章 生きてさえいてくれれば ③
魁斗は足を大きく踏み出す。
「――遅い」
と、金色に染まった髪を風に躍らせ、累は冷たく
驚異の速度で空を飛ぶように軽々と自分の体を宙に舞わせている。
【血死眼】を発動した魁斗でも、その速度には追い付けない。
手を伸ばしても、その体には触れられない。
空間を支配しているかのように累が四方八方に舞う。何度も攻撃を受けているが、今の状態だと堪えられないことはない。
その動きにはさすがについてはいけないが……
――おれの眼には見えてるぞ。
累の動きは、はっきりと瞳の中に映っている。
魁斗は眼を動かし、体を振り返させると、握った拳を突き出していく。
超突進で迫っていた累は、ブレーキが間に合わず、それは避けられない。累が目蓋をぎゅっと瞑ったのがわかった。
「……」
だが、拳は当たらなかった。
累の鼻先。その一センチ前で止めたからだ。
そろりと累が目蓋を開く。
互いの視線が組み交わされる。
「……おれは、お前を殴るために来てないから……」
聞いて累の眉間に皺が寄る。
「甘い! 甘過ぎよっ、魁斗! そんなんじゃ、いつか自分が死ぬわよっ!」
強い言葉で非難される。
「それでも、お前のことは殴らないっ!」
「バカじゃないのっ!?」
「うるさい! 知ってるわ、ボケッ! でも、お前が言うな…」
話している最中にも関わらず、累がかまわず殴りつけてきた。
顔が強制的に横を向く。
素早く前に引き戻すも、もう目の前に累の姿はなかった。
くっそ! あのバカ、どこ行きやがったっ!?
魁斗は視線を左右に走らせる。だが、姿はどこにも見当たらない。
突然、頭のてっぺんに衝撃が走った。
強制的に顔が地面を向く。
でも、倒れない。脚を一歩前に踏み出して堪える。
上か。くそ、痛ぇ、あいつ絶対、踵落とししやがった。これ以上、バカになったらどうすんだ……。
しかし、攻撃は止まらない。上からも下からも右からも左からも、重たい攻撃が怒涛のように体にぶつかってくる。だが、崩れ落ちないように両脚で踏ん張って、拳を握りしめる。
目の前に見えている累に向けて、口角を上げてみせた。
累の顔が苦痛に歪む。
その身体に触れようと手を伸ばす。だが、累に避けられカウンター気味に、思いっきり顔面を殴りつけられる。激痛が走ったが倒れない。
しかし、ついにはコマのようにビュンビュンと回った累の体から鋭い蹴りが放たれる。回転力を伴う激しい衝撃が側頭部を突き抜けるように貫通。
一瞬、意識を失った。地面に倒れる。
累の呼吸は荒くなり、やっと倒れた魁斗を見つめて、体を振り返らせる。
一歩前に足を進ませた。
だが――
累の背後では、紅い眼を宿した男が再び立ち上がる。
鋭い眼光を伴って、どこから流れているのかもわからない顔の血を手の甲で拭って。
累が、バッと振り返り、ぎりっと歯を噛みしめた後に叫んだ。
「もういいでしょっ! 立たないでよ!」
「いや、だ……」
呼吸が荒い、体が重い、力の限界が近い。
自分は弱い。
「なんで、そこまですんのよ……」
声も出すのもきつい。
だけど、魁斗は思いっきり息を吸った。その息を腹へ溜め込むと、気合を入れる。
そして、
「お前が居なきゃ、おれは生きていけないからだ!!!!」
言い放った。
体中の酸素が一気に放出され、酸欠のような状態になり力が抜けそうになる。
体がふらつき、累が今どんな表情を浮かべているのかさえわからない。
視界が揺らぐ。思わず目蓋が閉じそうになる。
「な、な、な、な、な、なに言ってんのっ!?」
耳に届いた声が少しどもっている。
動揺してるな……。
魁斗は、ほんの少しだけ、口の端を上げて笑ってしまった。
「ふ、ふざけないで! もう、黙って!!!!」
地面を蹴る音がする。とどめを刺しにきたみたいだ。
魁斗は息を吸うと、顔を上げ、目を見開く。
負けられない――
魁斗の心臓にさらなるガソリンがぶち込まれる。
絶対に、絶対に、絶対に負けられない。負けられないんだ、今回ばかりは。お前に。
迫る累の瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れていた。
そんな累の顔を見て、痛む心臓が大きく跳ねる。
自分の目は全部、見落としていた。
累は、たぶん、ずっと……ずっと泣いていた。
なにひとつ自分は見ていなかった。
こいつから目を逸らしていたんだ、おれは。
畜生なのはお前じゃない、おれだ。
自分はなんというバカな男。なんというバカな家族。なんというバカな兄だ。累は傷ついていた。とっくに傷ついていた。きっと自分は勘づいていたし、知っていた。知っていたはずだ。でも、踏み込まなかった。この手を伸ばさなかった。
この手はなおも遠くお前には、届かない。
でも、ここで、手を伸ばさなかったら、本当におれは大馬鹿者になってしまう。
負けられないのだ、絶対に。
累はぐんぐんスピードを上げていく。
背後に迫ってきている。その微かな気配を感じた。
そして――
振り返って、手を伸ばす。その手が累の体の横を通過していくと、離れないように両手を腰まで回し、腕を重ねて全力でぐっと押さえ込んだ。
「――なっ!」
唐突に抱きしめられ、累が動揺したような声を漏らす。その後、必死に抵抗をする累の背中を、強く、強く引き寄せるように抱きしめる。
「離してっ……バカッ、このっ、離せぇっ!」
吠えて離れようとする体を必死に押さえ込む。
甲高い声で叫びながら、全力で振りほどこうと暴れるも、決して離さない。
「離してっ! 離してよ……お願いだから……」
苦しむみたいに身を捩じった。そのとき、血よりも濃い涙が魁斗の頬に触れた。
「わたしはあんたと一緒にいる資格なんてないっ! 殺されたっていいの……もう死んだってかまわないの……だから……」
自分の瞳の色が元に戻った。
力の限界だった。
身体が瞬間的に重たくなる。
それでも、ぎゅっと背中に回した手に力を込める。
寄せた互いの心臓が同じリズムで重なり合うように同調していく。
「資格なんていらないし、そんなの必要ねぇよ。それに言っただろ? おれが、お前が居ないと生きていけないって」
「……バカなの?」
「そうだよ……」
続けて、
「――そして、お前もバカだ……だから、お願い」
聞いて、累が顔を俯かせた。
震える拳を握り込むと何度も何度も魁斗の胸を叩いた。
重くて鈍い痛みが繰り返し胸に響く。
だが、それよりも。
小指越しに伝わる累の想いが、どうしようもなく痛かった。
魁斗は、ただ黙ってその痛みを受け入れた。
やがて、累は叩くのを止めると魁斗の胸に両手を押し当てて、倒れ込むみたいに全身を預けてきた。そして、ゆっくりと累の手が腰まで回る。しがみつくように力がこもるのがわかった。
「なんなのよ、もう、最悪……」
認めたくないみたいに累は首を横に振る。伝う涙は止まらない。
累の身体は怖いぐらいに細くて、赤ん坊みたいに熱かった。
左胸の痛みが止まらないように、顔をくしゃくしゃに歪めて、枯れた喉で泣き叫ぶ。
どうにもならない想いを叫んだ。
――苦しい、と。
家族が殺されて、おばさんが殺されて。
――許せない、と。
家族を殺した者が、守らなかったものが。
――殺したい、と。
奪っていったすべての人間を。
――生きるのがつらい、と。
守れなかった自分が嫌いだと、血で汚れている自分が大嫌いだと、大切なものが消えていくこの世界が憎いと、穢れている自分が許せないと。
――なぜわたしは生まれたんだ、と。
――生きている理由がわからない、と。
こんなにも累は苦しんでいた。なのに、どうしておれは今まで……。
胸が締め付けられ、魁斗は苦顔を浮かべる。
こんなふうになってようやく踏み込もうと思った。手を伸ばそうと思った。遅い、あまりに遅すぎる。
魁斗の目尻からも涙が溢れ出ていた。
もしかしたら累は、これから胸に大穴を開けたままで生きていかなければならないのかもしれない。自分は残酷なことをお願いしているのかもしれない。
だけど――
「ごめん、累。ごめんな、辛いだろ……ほんとに、ほんとに、ごめん……」
己の顔も涙でぐしゃぐしゃになっていく。
――だけど、累にだけは死んでほしくなかった。
両手に捕まえた累の方に頭を預け、何度もごめんを繰り返した。
このまま強く抱きしめていたら壊れてしまうんじゃないかと思う。
その手をわずかに緩めて、涙に濡れた顔のまま、累と顔を見合わせる。
累の目を、魁斗は必死に見つめた。
静かに、魁斗を見上げた累の両目が溢れるほどの光をたたえて揺れた。
その瞳に、悲しい色を浮かべながら、
魁斗の言葉に色んな感情が混ざりあった苦しそうな表情を浮かべる。
そして、のみ込むように。
顔をゆっくりと下に俯かせて、そっと瞳を閉じた。
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