第五章 金毛九尾 ④
地面を蹴飛ばし、突貫。重力無視の大加速。
その絶大な運動エネルギーを腕力に乗せて、まとめて打撃に変換する。
累の右拳が彩女の顔面を打ち抜いた。大気を震わす轟音がしばらく経ってから鳴り始める。
彩女の体が弾け飛び、とんでもない速度で地面を転がり、派手にバウンドした末に大木へ激突。あまりの衝撃に吐血を漏らしながら、うつ伏せ気味にうずくまる。
流れる静寂。
数秒ほど経ってから、ようやく彩女が反応。指を動かし、足を動かし、顔を上げた。頭を二回左右に振るも、すぐには起きれない。起き上がれない。
なにが……なにが起きた?
彩女は視線を前に向ける。
今の事態を起こした、その相手をたしかに視界に捉えていたはずだった……。
だが、一瞬で奴は消えた。
まるで光よりも速い粒子となるように、
気づいたときには、体にかつてない災厄が襲い掛かっていた。
幻術……いや、妖術の類か……?
思った瞬間、顎に衝撃。
顎が割れ、その凄まじい衝撃は留まることを知らず、脳天まで突き抜ける。頭蓋骨が派手に軋み、そのまま後ろの大木へ後頭部を打ちつける。意識が途切れなかったのは、なにかの偶然だ。
「――あがっ……」
開いた口から漏れるのは微かな苦鳴。それに血と唾液、そして砕けた前歯が飛んでいく。
なんだ……いったいなにが起きている?
ビリビリと身体が痺れ、意識が途切れそうになる。目蓋が閉じそうになるが、首を片手で握りしめられ、無理やり顔を上げさせられる。
そこには、化け狐に変貌した――
そして、理解した。
いや、ちがう……幻術でも妖術でもない。
こいつはただ、動いているだけだ。
それは、たぶん身軽どころの話ではない。重力の方式なんて完全無視の動き。そして、閃光どころの速さではないと。
「どお? 話す気になった……?」
その風貌が、温度を無くしたその瞳が、妖しく吊り上がったその唇が、とてつもなく恐ろしくて、忍びながらに恐怖を――感じてしまった。
※※※
妙な気分だった。
自分が自分ではないような感覚。
このまま本当に、この狐に身体を明け渡して、人に化けて悪いことをしてもいいような気さえもしてくる。
――人の命を奪っていく。
最悪で、残酷で、信じられない人が多い。
この人間の世界を終わらせてもいいかな、と思ってしまう。
だが、そんなことはしない。わたしは目的が達成できれば、それでいい。
それに……そんなことを絶対に許してはくれない人物をわたしは知っている。
その人物は、わたしにとってなによりも大切なものだ。
意識を戻す。
彩女の首根っこを掴んだ手に力を込めてぐっと握りしめる。
小さな首が強制的に
「ねぇ、話す気になったって、聞いてるの……」
問いかけ、その答えを待つが、彩女は首を絞められ、呼吸をすることに背一杯の様子だった。はぁ、はぁ、と苦しげに呼吸する音だけが漏れて聞こえてくる。
少し、締めていた首を緩ませる。
彩女は気道が開いて、必死に酸素を求めて呼吸する。そして、
「……話すわけ、ないだろ……」
「……ああ、そう……」
再び、首を強く握りしめようと指に力を込めていく。
だが、彩女は口の中に仕込んでいたもう一つの毒針を放った。狙ったのは累の目だ。
しかし、それをなんなく躱す。
「そうなんども当たりはしないわよ……」
口を開く累に彩女はその一瞬の隙をついて、手甲の中から閃光弾を放った。
注意を向けていなかったために、まともに光を見てしまい、ぐっと強く目蓋を閉じる。凄まじい音で聴覚も、また一時的に働かなくなった。
累は握っていた手を離すと瞬間的に後方へ移動。
一瞬にして、彩女と距離を取る。
「同じような、手を……」
ようやく目を開け、周囲を見渡す。
彩女は逃げてはいなかった。
倒れていた大木のすぐ近く、そこに立ち、片手に小太刀を構え、片手は鉤爪にして構えている。ただ小太刀には、ぐるぐると札のようなモノが巻かれていた。
「祓ってやる……」
彩女が呟き、握る柄に力を込めた。
累は逃げなかった彩女を見ると、唇を妖しく歪ませ、数メートルを一気に瞬間移動。
彩女は目で追えてはいない。
すでに懐にもぐりこまれてはいるものの、ひと足遅れながら彩女が反応し、小太刀を振るった。
だけど、あまりにも遅い。
累は相手に背を向けるようにしてくるりと体を捻ると、そのまま膝を抱えるように力を溜めてから蹴りを放つ。腹部にきまり、衝撃で彩女の体は再び、大木に激突する。反動で戻ってきたところを、もう一度、回転しながら回し蹴り。大木にそのまま突き刺すように彩女の体が叩きつけられた。
二度の衝撃で彩女は口から吐血。そのまま、だらんと両手が下りて、体の力が抜けていく。累は踏んでいる足でぎしぎしと大木へその体を押しつけながら、
「ねぇ、話す気になった?」
問いかける。
こんな事態になりながらも、彩女は懸命に口角を笑みの形へと変えた。
「死んでも教えないと……言っただろ?」
言われた瞬間、血が頭に逆流するように昇ってくる。
彩女の体を地面のように見たてて、何度も、何度も踏みつける。
そして、最後に思い切り踏みつけながら後方に跳んだ。その衝撃により、彩女はまた吐血。体が前に倒れ、地面に膝と片腕をつく。
累はゆらりと立って彩女を見る。
いつまで、その調子でいられるのかしら……。
目を細めた。
彩女が顔を上げた瞬間。累はうしろにいた。
「左腕もらうね」
そのまま彩女の腕を取ると、左腕の骨を折った。
「……ぐっ」
彩女は苦痛に顔を歪ませるも、落ちていた小太刀を右手で拾い、横薙ぎに払う。しかし、累は消えるように彩女の目の前に立っていた。
「……これほどまでに……脅威、か……」
彩女の口から漏れると同時に累が動く。
見えない速度で移動する。
彩女の目には、もはや消えていく砂の粒子のようにしか見えていなかった。
苦し紛れに小太刀を払うも、
「遅いよ」
累は折った左腕に目掛けて、手刀で水平に薙ぐ。それが、彩女の左腕に直撃。
ミシミシミシッ、とすでに折れていた骨が砕けて軋む音が鳴る。
「ぐぁああああああああああああああああああああああああああああっ!」
激痛に彩女が叫んだ。
「うるさいなぁ……」
対して累は冷静に呟く。しかし、その目は狂気に満ちていた。眉間に青筋をたてながら、荒ぶった犬歯を剥き出しにして、痛がる彩女の姿を眺める。
「ぎゃあぎゃあ言えるんだったら、とっととしゃべってよっ!」
なんとも気分が悪い。
累が苛立ちをぶつけるように声を上げる。
言葉を聞き、彩女の顔は苦痛の表情を浮かべたままだったが、意地のように口角をわずかに上げていく。
「しゃべるわけ……ないだろう……」
そう言ってニヤリと笑ってみせた。
なんという強硬な意思だ。もはや、この女すら狂気じみている。
これが、忍びか……。
「……そう、じゃあ」
累はもう一度、彩女の背後を取る。そして、
「反対も」
ボキ、ボキ、ボキッ。と音が鳴る。
「……ぐぅっ……!」
両膝をついたまま、歯を食いしばり、腕の痛みに耐えてみせる。今度は悲鳴を上げなかった。
「どうしたの? 痛みで口がきけなくなった? 今なら、両腕で済むけど……」
――ねぇ、話す気になった?
繰り返しその言葉を続けるように言って、累の妖しい眼光が彩女の目を見る。
彩女も畏怖を込めて目を見返してくる。そして、食いしばっている口を開く。
「化け狐」
「……その口、もう聞けないようにしてあげよっか」
限界だった。
累は彩女の首を掴み、馬乗りになる。
ぐっと手に力を込める。
そんな行動の中で妙に落ち着いている自分の意識があった。
小さな首……こんな首、すぐに折れてしまいそう。
人を殺すのって簡単……。
そして、脳裏にはある男の子の顔が浮かんでくる。
でも……魁斗には絶対できないんだろうな。
自分の心の温度をさらに下げていき、力を込めていく。
彩女の目がわたしを見る。
その目からなんとなく伝わってくる。
彩女は、はじめて恐怖をその目に宿していた。
死ぬことは怖くない。使命ならば、命令ならば、いくらでもこの命を投げ出せるし、自ら命を絶つことだってできる。だが、今のこの状況はなんだ。わたしはただ災厄に呑まれて死にゆくだけ。里を逃げ出した裏切り者の手によって殺されるだけ。責務も誇りもあったものではない。こんなの――。
伝わってきてしまった。
彩女の目から涙がこぼれ落ちる。
そして、累は締めていた手の力が抜けていく。
なに、それ……。
その涙すらも、怒りを覚える。
だが、自分の手は弱々しく震えていた。
そして、気づいた。
たくさんの命令で、たくさんの人の命を奪ってきた、この手。
でも、今、目の前にある、この殺しは、自分の意思だ。
――今度こそ、戻れなくなる。
頭によぎり恐怖を感じた。
なにを思っている……今さら、遅いというのに……。
わたしの手は汚れている。わたしはすでに穢れている。だから、もう何人殺そうと関係ない。わたしは地獄に落ちるだろう。わたしは幸せに生きてはいけない。わたしは幸せにはなれない。もう美しいものに触れてはいけない、近づいてはいけない。
不意に、また脳裏には月明かりに照らされた男の子の姿が浮かんだ。
しかし、それを断ち切るように声を荒げる。
「なんでよ……! 散々、命令して人を殺させといて、いざ自分が殺されそうになると泣くのっ!? あんたはっ!」
彩女は言葉を返さず、黙って累の目を見据える。
「……そんなの……許されないでしょ……?」
累の瞳からも一筋の涙が流れ落ちていった。
再び、両手に力を込める。
彩女はまともに呼吸ができなくなり、じたばたと脚を動かす。しかし、首を押し付けられていて、体を引きはがすことはできなかった。
「……はぁ………はぁ…………はぁ……」
累はじたばたと動く彩女を眺めながら自然と息が上がってくる。
彩女は恐怖を瞳に映している。
その瞳に映る自分を見て、確信した。
ああ、そうか――
わたしは、ほんとのほんとうに災厄な存在だったんだ――
そんなふうに思ったとき、
背後から――現れた。
「――やめろっ! 累ぃぃぃ!!!!」
聞き覚えのある声が耳の中に沁みるように入ってくる。
そして、がさごそと草木を掻き分けるようにしながら、息を切らした魁斗が脚をもつれさせ、こちらに向かって歩いてきた。
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