第四章 隠里と亜里 ⑧
あの日から、月に手を伸ばしていたつもりだった。
憧れて、欲しいのに、それはほんとに遠いの。
届くわけないのにね。
身も心も穢れているのに。
だから怯えて、自分のまわりを固い壁で取り囲んだ。
自分はそこから身動きも取れずに、
遠くで輝く月をただ羨ましそうに憧れて、眺めているだけだった。
近くにいるつもりになっていただけだったんだ。
明るくて、無邪気で、柔らかくて、温かくて、真っすぐで、優しい……
そんな主人公みたいな、あんたの隣にわたしはいるべきではない。
――だから、わたしは……
一度、天を仰ぐように曇った空を見上げる。
そんな魁斗が大切だと思う。
憧れの時が過ぎて、長く一緒に時を過ごした今でも、強くそう思う。
空っぽになってしまったこの手を掴んでくれた人だ。
怯えて震えて眠れない、そんな長い夜の日に、そっと抱きしめてくれた人だ。
モノクロだったわたしの世界を、また色鮮やかな世界に染めてくれた人だ。
笑顔を、表情を取り戻させてくれた人だ。
心に沁みるように優しく名前を呼んでくれて、ずっと一緒にいたいと思った人だ。
なんて優しい人なんだろう。何度ありがとうを繰り返しても尽きることはない。
目をゆっくりと、開いていく。
魁斗は、もうわたしが守らなくても生きていける。あの人が……
だから、わたしは過去に振り返る。闇の記憶の中に、もう一度目を向ける。
間違えていることはわかってる。だけど、込み上げる怒りが、もう抑えきれない。
脳裏には両親の姿や声が蘇った。
幼いながらも記憶はある。共に過ごし、愛情を注いでくれた思い出がある。
そして、一緒に里から逃げた、あの日の出来事が酷いほどに鮮明に頭の中で繰り返される。
彼の気持ちは十分わかった。
こんな気持ちだったのだろう……。
隠里は、わたしの家族を殺した。
そして、魁斗やおばさんの、わたしの生活を守ってはくれなかった。
全身の毛が逆立つような怒りが、腹の底から噴き出すような怒りが、今も、この瞬間にすくすくと育っていく。
低く呻き、割れそうになる頭を抱える。
虚ろな眼球が宙を惑わせる。噛みしめた頬の内側が鉄の味を滲ませても、荒くなった呼吸が異常に強まっても、痛むほどに眉根を寄せても、もう止められない。
目が眩むほどの純粋な怒りはもう自分ではどうしようもできない。
許せないやつに叩きつけるまで打ち消すことができない。
膨張する怒りに己が全部食い散らかされてしまいそうだ。
わたしの中でなにかが叫んでいる。
この身に宿す化け物がわたしを吞み込んでいってしまう……。
その前に早く見つけ出して、決着をつける。
大地を割らすような勢いで力いっぱいに地面を蹴り飛ばす。
行く手に迷いはなかった。
閃光のような速さで、道を己の足で駆けていく。
わかっている。
これはイケないことだ……。
※※※
累は林の中を駆け抜けながら、いまだ頭の中は思考で渦巻いていた。
ひとり、居場所はわかっている。
――
あの日……皆継家で対面した日に尾行してそいつの居場所だけは特定できた。
奴は、じきに里長になる娘だ。色々と情報を持っていることだろう。
走り抜けながらも累は瞳を閉じて、頭に思い浮かべる。
魁斗の家を出ていった日は、震えるほど寂しかったな……。
だけど、それはもっと酷いものになった。
おばさんが死んだのだ。
わたしの心の半分を満たしてくれていた人が。
わたしのことを伝えた時に涙を流して、お母さんみたいに抱きしめてくれた人が。
その大切な人が、死んだ。
死んだのだ。
わたしは契約した。
三人の生活を守るために隠里と。
暗殺を含めて、様々な依頼をこなせば見守ると。
……わかってる。ただ見守るだけだ。
守るとは制約していない。
だけど、隠里はまぎれもない、わたしの家族を奪った張本人だ。
これは、八つ当たりではない。
正当な交戦だ。
望むなら、お望み通り災厄を起こしてやる。
そして、滅びるなら、滅んでしまえ。
※※※
着いたのは山林の中にひとつ、ぽつんと建っている掘っ立て小屋だった。
こんな山林の中で、こんな粗末な家に人など住んでいないと傍から見れば思うだろうが、中にはある人物がひとり、確実に居ることを知っていた。
累はその掘っ立て小屋の入り口に立ち、大きく息を吸うと声を上げる。
「出てこいっ!
怒りをあらわに声を荒くして、中にいるであろう、その人物。その名前を呼ぶ。
ゆっくりと、軋んだような音を鳴らしながら扉が開かれる。小さいその女は冷たく鋭い視線をこちらに向け、眉をひそめる。
つり目で、見るからに気の強そうな顔立ちだ。いや、気が強いという表現では正しくない。やはり人を見る目に温度がない。その目は、ただ敵かどうかを判断するのみ。そして、その女は囁いた。
「驚いた……気配など微塵も感じなかったぞ……。さすがは、お前も忍びのはしくれといったところだな……」
言われ、累は間髪入れずに言葉を返す。
「そんなのどうだっていい」
累もその冷たく鋭い目線に睨みをきかせて返す。そして、怒りで狂いそうな心をなんとか抑えつけて、言葉を継いでいく。
「わたしは契約した。そのために自分の手だって汚した。どうして守ってくれなかった……?」
殺気を裏にひそめ問う。
彩女はそれを聞いて、一瞬だけ瞳を大きく開いた後、ニヤッと笑った。
「いきなりだな。なんだ……そのことか」
彩女はふっと笑い、吐き捨てるように言う。
「そして、お前はなにを寝言を言っている? わたしたちはちゃんと契約を果たしている。手出しはしないと。ただ見守ると。お前の言っていることが見当違いだ」
呆れたような顔で吐き捨てられた。
返ってくる答えはわかっていた。わかっていたけど、食い下がれない。
「なら……せめて、危険が迫ってると……異変が起きているとわかったのなら、わたしに……」
ぎりっと強く歯噛みする。
隠里がなにかを掴んでいたのかは知らない。このことだけは、ただの八つ当たりなのかもしれない。だけど、もうぶつけないと内から沸き上がる怒りの感情がおさまらない。
そんな累の姿を見て、なおも彩女はふっと笑った。
「とんだ八つ当たりだな。それはお前の怠慢だろうに。お前の第二の家族を守れなかったのは」
うるさい――うるさい――うるさい――うるさい――うるさい――うるさい。
頭に血が昇る。
眉間に皺が寄り、ぐっと歯を噛みしめる。
彩女は笑うように唇を歪ませながら、言葉を継いでいく。
「それに……皆継に忠誠も誓ってないお前になにを伝えることがある? たとえなにかを知っていたとしても、お前に伝えることはひとつもない」
言葉を聞いて、累は目に悔しさと悲しい影がよぎる。手が震えてくる。
「左喩様が、なぜお前を飼っているのか……あの人の考えていることはわからないな……」
彩女はため息をつきながら首を横に振り、独り言のように呟いた後、再び、累に言葉を投げる。
「お前なら我々がなにを優先するかはわかるだろう。……ふん、それでも、お前は好待遇だ。そうだろ? 里を抜けた分際のくせに」
言葉を聞き、震えている拳を強く握りしめる。身体が一瞬凍りつくように固まると、震える唇で累は言う。
「誰のせいだと思ってる……」
泣きそうになりながらも、強く恨みを込めた瞳で相手を見据えた。
だが、その問いに彩女は、ハッと笑い捨てるように言葉を述べた。
「誰のせい? そんなの決まってるだろう……?」
――お前が呪われてるからだ、亜里。
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