第二章 裏世界への門出 ①
目を覚ます。
ここは、どこだ……?
おれは、なにをしていた?
今までのは……全部、夢?
――頭を振って、覚醒を促す。
意識がはっきりとしてきた。それとともに残酷な記憶が蘇ってくる。
フラッシュバックするように脳内では血だらけで横たわっている母親の夕陽の姿が浮かんできた。
魁斗は、がばっと勢いよく上体を起こす。
――吐きそう。
口を押さえ、しばらく吐き気と動悸、加えて重苦しい気持ちに
息をするのも辛い。
周りを見渡すと自宅のベッドではないことに気づき、
「ホテル……そうか……おれ、寝てたのか……」
ぽつりと呟き、目元を手で覆った。
夢、じゃない……夢だったら、どんなに……。
唇を噛みしめ、夢であってほしかったとすがりたい気持ちをどうにか押し殺して、現実を思い出していく。
昨日はたしかあの後、累に眠るように促された。
飲み物を渡されて、それを飲み干した。そうしたら、だんだん眠くなってきて。それで……。
魁斗は自嘲的な笑みを浮かべる。
「あんなことがあったのに、いつのまにか寝てたのか……」
自然と深いため息が漏れた。意識をはっきりとさせるために立ち上がり、魁斗は洗面台の前へ足を運ぶ。水道の蛇口を捻り、両手で水をすくい、じゃぶじゃぶと顔を洗った。流した涙の残りも一緒にのみこんで排水口へと流れていく。
鏡を見ながら、累とホテルで会話した記憶を呼び起こす。
『――この世界には裏側がある。あんたはおそらく裏世界の生まれ。おばさんの殺され方が普通のものではなかった。切傷だったけど、切り口が異常に鋭かった。そこらへんで売っているナイフや包丁のような代物ではない』
そして、
『――魁斗の身にも、おそらく危険が迫ってる……』
ということを累は言っていた。
あいつはいったい……。
記憶を呼び起こしたが、どうにも理解ができずにいる。
話された内容が曖昧過ぎるし、これまで過ごしていた日々とあまりにもかけ離れすぎていて一致しない。しかも累がやたらと詳しそうなことに、さらに困惑。今まで、一緒に過ごしてきた累の姿からは想像もつかないような言葉が口から飛び出したのだ。
ダメだ。訳がわからない。
頭の中は混乱の渦。
訳がわからないまま時間だけが流れていく。
スマホの着信音が鳴る。電話に出ると相手は警察官だった。
話された内容は『自宅の捜査が終わった』ということ。
そして、『汚れた床や壁は取り替えてあります』とのことだった。
魁斗は疑問に思い「もう終わりなんですか?」と尋ねるも、
「はい。終わりです。残念ながら犯人の身元が判明するものは出てきませんでした。引き続き捜査いたしますので、何かわかったらご連絡ください」
冷淡な声でそれだけ言い残し、警察官は電話を切った。
呆然と立ち尽くす。
これで終わり? 犯人の残した痕跡も足取りも何も見つからないまま……?
再び累の言葉を思い出す。
『――おばさんが殺されたのは正常な世界の人間じゃない……』
※※※
自宅の捜査が終わり、家に帰ることができるようになったが、足はなかなか自宅の方向へは進まない。今、帰れば母さんが死んだ現実が怒涛のように自分に降り注ぎ、重く圧し掛かかってくる。絶対に心が耐えられないと思ったからだ。頭も体も足取りも全てが重く、途方にくれていた時に累から一通のメールが入る。確認すると『家で落ち合おう』と文字が羅列してある。
「はぁっ……」
大きくため息をついた。恐怖も不安はあるが、自分の頭の中で引っかかっている謎を解き明かすため、家路につく。
自宅玄関の前で立ち止まる。
なかなか前には進めない。昨日までとは違う。
昨日までは、いつもの日常だった。この玄関の中には、おれと母さん、そして累との幸せな時間が詰まっていた。それは、これからもずっと変わらず続くものだと思っていた。なのに……。
一度、目を閉じた。
閉じた瞳の奥に映るのは、いつもの日常だった。
朝、母さんがおれを起こすために階段下から呼んでくれて。しばらくすると、累が玄関チャイムを鳴らしてやってくる。おれはそれでようやく目を覚ます。階段を降りると、累と母さんが挨拶をしてくれて、おれはそれに眠たそうに返す。朝食が用意されていて、朝は三人で談笑しながら朝食を食べる。食べ終わったら累に急かされ、急いで支度をして玄関を飛び出す。後ろからは必ず『いってらっしゃ~い』と明るい声が聞こえてたんだ。振り返って手を振ると、母さんは優しい笑顔を向けてくれる。学校が終わって、家の玄関を開けると毎回キッチンの方から『おかえり~』と声が聞こえて。リビングに入ると、母さんは嬉しそうな表情で迎えてくれる。累と三人、食卓を囲んでいろんな話をして、笑い合いながら御飯を食べて。おれたちが時々喧嘩をしても、母さんはそのやり取りを見て、いつもニコニコと笑っていた。
どれもこれもが当たり前で。
だけど、これ以上はないってくらいの幸せが、この家の中には詰まっていた。
それが昨日突然、壊された。何者かの手によって。
震える手で玄関のドアを開ける。家の奥からはいつもの声は見当たらない。寂しい静寂だけが流れる。あまりに冷たく感じる我が家。
いつもなら、母さんが『おかえり』と言って迎えてくれるはずなのに……。
心臓が痛い。目の前が軋む。目蓋に涙が溜まってくる。
魁斗は左胸あたりを自分の手で掴んで必死に痛みに堪える。
歯を食いしばり、フラフラとおぼつかない足どりでリビングへ進んだ。ドアを開け、そして部屋の中に入った瞬間、記憶が怒涛のようにフラッシュバックして襲い掛かってくる。
目の前に横たわるのは母さんの遺体。
血みどろのフローリング。血のりがついた壁。荒れた惨状。
どれもこれもが心を蝕んでいった。
顔を覆い、膝から崩れ落ちる。
―――耐えられない。
「魁斗っ!」
累の声が後ろから部屋内に響く。
倒れそうになる自分を累が抱きとめて支えてくれた。しかし、目の前がぐらつき、平衡感覚が歪む。とてもじゃないが立っていられない。現在、自分がどこに立っていて、どこの空間に位置しているのかもわからなくなる。心臓も肺も狂ったように乱れ、呼吸するのが辛くなる。崩れそうになる体を引き戻そうと、累にしがみつくが、まともに手足も動かない。そんな中でも、あることを確認するために魁斗は口を開いた。
「累……母さんは、ほんとうに死んだのか……?」
消え入りそうになる魁斗の表情を見ながら、累は苦痛に表情を歪めた。そして小さな声で返す。
「……うん」
受け入れがたい現実が魁斗の中に流れ込む。力が抜け、全身がふらつく。
思い浮かぶのは、母さんの顔。
笑顔だったときの母さんの顔。
自分の頭を撫でてくれた母さんの手。
柔らかく温かい優しい声。
いつでも、どんな時でも、自分を愛してくれた母さんの。
幸せそうな母さんの……。
――最期に思い浮かんだのは母さんが横たわる姿だった。
次の瞬間、言葉にならない叫びが家中に響き渡った。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――」
喉が潰れそうだった。
「なんでっ! なんでだよ! 母さんは何か悪いことしたのか!?」
激情し、声が荒ぶる。
累は静かに首を振った。言葉を受け止めるように、目はしっかりと魁斗を見据える。
「累! お前はっ! お前は平気なのかよ! 母さんは…」
「――平気なわけないでしょ!!!!」
累は堪えながらも耐えきれず、目尻から涙が溢れて怒号をあげる。
その表情を見て、魁斗は叫ぶことを止めた。
しばらくして、冷静さが戻ってくる。
辛いのは、累も一緒だ……。
「ごめん」
魁斗は顔を伏せると、累に向けて小さく呟く。
「……うん」
累は悲しそうな表情で、再び泣きだしそうになるのを必死に堪えていた。
しばらく黙り込んで、正気を取り戻した後、抜けていた身体の力が戻り、なんとか自力で座れるくらいの平衡感覚が戻ってきた。支えてくれていた累の肩を叩くと、手を離してくれる。累と対面し、伏せていた顔を上げる。
「累、教えてくれ……。昨日のことは、どういうことなんだ?」
聞いた瞬間、累は目を大きく開き、瞳が揺れる。そのまま目線を床に落とす。黙り込んでしまい、なかなか口を開こうとしない。しばらく下を向いたまま、思案しているようだった。
沈黙。
返答がかえってこない。
痺れを効かして、魁斗は懇願する。
「累、頼む……教えてくれ。どうすれば、母さんを殺した犯人にたどりつく?」
累の両肩を掴む。累は驚きながら伏せていた目を上げ、魁斗を見つめる。
「それは……」
言葉が詰まる。
魁斗は目線を反らさずに累の瞳に訴える。
累の唇が微かに震えていた。
「犯人を知ってどうするの?」
身体が一度大きく震える。魁斗は間も入れずに答えた。
「母さんと……同じ目に合わせてやる」
魁斗の凄まじい怒りが眉のあたりを這う。怒りで気が狂いそうなのを必死で抑え込みながら、累の目を決して離さない。
累は憎悪に満ちた表情を浮かべる魁斗を見つめ、悲しそうに唇を噛みしめた。そして、あきらめたように肩を落とすと、小さく唇を開いた。
「おばさんは……裏世界の人間に殺された」
聞いて魁斗は目を見開くも、そのまま眉間に皺が寄る。
またしても、理解不能。
だが、続きを黙って聞こうと必死に出そうになる声を殺す。
「だから……」
累も決心したように目線を上げ、こちらに瞳を向ける。
「あんたがこっちに来れば、いずれたどりつく―――」
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