第30話 今北の方の罠

今北の方とその乳母子の民部少輔夫妻が対面したその夜、内裏近くに目立たないようにしつらえた車が停まりました。中から女が出てきて、対の御方の局へと忍んで行きました。

「大変なことになりました。山里の尼君さまの病状が悪化し、胸をおさえてたいそうお苦しみでございます。容態はいっこうに良くならず、もはやこれまでと見受けられます。『最期にひと目我が孫の姫に』とうわ言のように。

お車の用意ができております、一刻も早く戻られませ」

対の御方はあまりの突然の出来事に声も出ません。

慣れぬ後宮暮らしと山里恋しさにすっかり参っていたところへ、悪夢のような尼君危篤の知らせ。対の御方に否やはあるはずもなく、『尼君にひと目だけでも』の一心で、小侍従と右近をお供に泣きながら車に乗ったのです。

道中も一行は『早く早く』と気が気ではありません。ところが、こんなに気が急いているのに、車はなぜかまったく違った方向を目指しているようです。窓の外の見慣れぬ風景に、

「一体どうしたことでしょう。どこへ向かっているのかしら」

と右近の君が不安そうにつぶやきます。

まもなく車は知らない屋敷の門の前で停まりました。屋敷の中から若い女が出てきます。右近は車の中から女に向かって、

「これは一体どういうことですか。ここはどこなのですか。目的地は山里の家のはず。こんな見知らぬ場所に御方さまをお降ろしすることはできません。寄り道などせず、早く尼君さまのもとへ御方さまをお連れするのです」

と言い放つと、屋敷から出てきた若い女は、

「私も詳しい事情は知りません。お供の人々が『この屋敷に降ろすよう命ぜられました』と言うばかりで。とにかくお降りになってください。さあさあ早く」

と追い立てるように言います。牛車を寄越した女を問い詰めても、

「さあ、何がどうなっているやら。とにかく仰るとおり、ここで降りて下さい」

とあやふやな返事。

「おかしなこと。車で迎えに来た者も屋敷から出迎えた者も、理由がわからないのに『とにかく降りろ』だなんて」

「しかし、いつまでもここに乗ったままでは…やっかいなことに巻き込まれないよう、言われたとおりにしましょうか」

いかにも怪しい予感はしましたが、御方と右近、それに小侍従の三人は車から降り、若い女の先導のもと、屋敷の中に入りました。

女は屋敷のずうっと奥の方まで進み、やがてわずかに灯りのともった薄暗い部屋に三人を案内しました。部屋の中は、几帳が置いてある程度。最低限の調度類しかありません。殺風景な部屋に、一同「これは一体どういうことなの」と、あっけにとられてしまいました。事態と理由がまるでわかりません。きつねにつままれたようです。三人は途方にくれ、ただ泣くばかりなのでした。

この三人の中でも右近の君は一番しっかり者でしたので、ひとしきり泣いた後、

「泣きながら少し考えたのですが、こんなことになってしまった理由がなんとなくわかりました」

と言い出しました。

「いつぞや、今上さまが姫さまの局へお見舞いに来られた際、女御さまの乳母子の小弁の君と鉢合わせしたことがありましたでしょう?ほら、小弁の君が御方さまのお見舞いに来たときのことですよ。ふらりと局へお立ち寄りになられた今上さまと鉢合わせしてしまって、とても気まずい雰囲気に。小弁の君は『お邪魔だったかしらね』なんてつぶやいて出て行ってしまって。それ以降ですわ。なんだか梅壺全体の空気が姫さまに対して険悪になったように感じたのは。最近特に監視されているような。それも、姫様が今上さまとご一緒の時、いちだんと他人のめくばせを感じますの。

ひょっとすると、今北の方さまに誰かが吹聴したのではないでしょうか。もっともらしく、今上さまとこちらの姫さまの、ありもしないことのあれやこれやを。これは私の推測ですが、梅壺側の女房からの報告に激昂した今北の方が、姫さまを内裏から連れ出して…でなければこんなおかしな寄り道なぞどうしてしましょうか」

これを聞いた対の御方と小侍従は、たしかに思い当たるフシがあるとうなずき合いました。

「今日は内裏を出よう、明日こそは内裏を退出しようと思い続けていたのに、愚かにも決心がつかなかった報いね。あの今上さまのご様子を、梅壺の女房たちが気づかぬはずないのに。とうに知られていたのね。こんな誰も知らない屋敷に閉じ込められてしまって、なんて情けない我が宿世なのでしょう」

と言ったきり、対の御方は衣を引き被って死んだように呆然としてしまいました。右近の君と小侍従の君は慰めようもなく、対の御方の御髪を膝に乗せて、いつまでも泣き続けるのでした。



恐怖の一夜が明け、あたりは明るくなりましたが、開けられる戸口は一つもありません。

「やはり思ったとおりだわ」

一行は、軟禁されてしまった事実に絶望するのでした。

しばらくすると、昨夜この部屋に案内した若い女が現れました。

「ここはどこなのですか。尼君の病状はどうなっているのです」

と右近は女を問い詰めますが、

「私は何の事情も聞かされていません。ただ、『この屋敷に身柄を預かってもらいたい』との按察使大納言さまのことづけだけは、昨夜の車のお供の方々から伺っております。それでこの部屋に案内した次第でございます」

とそっけない返事です。

まさか、どうして父君がこんなことを…一行はますますわけがわからず、途方に暮れてただただ泣くだけなのでした。

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