第5話 兵部卿宮、ついに山里の姫に会う
さて、宰相の君の首尾が気になる兵部卿宮は、自分もお見舞いに出向こうと、そぼ降る雨の中、嵯峨野へと出かけました。山里の家、すなわち雲林院の場所は今度はすぐに判ります。
見覚えのある垣根には卯の花がまだ咲き残っていて、牛車を垣根のそばに停めると、ふいにほととぎすのさえずりが聞こえてきました。そのまま聞き流すのも惜しいので、宮は御文に、
『過ぎやらで やすらひ暮らす ほととぎす 我が忍び音を ねにたてよとや
(まるで私の忍び泣きを声に出せ、と促すかのようなほととぎすの美しい鳴き声ですね)
立ち寄るのも失礼かと存じまして、お手紙だけでも』
と書いて、看病している宰相の君のもとへ届けさせました。
美しい御文を受け取った宰相の君は、
「ほんの一言でけっこうですから、どうぞお返事を」
と姫君に促すのですが、姫は「とんでもないこと」と怯えて、筆を取ろうともしません。仕方がないので宰相の君は、
『こととはで 過ぎにけるかな ほととぎす 卯の花咲ける 宿の垣根を
(卯の花の咲く宿なのにほととぎすが立ち寄ってくれないとは)
お立ち寄り下さらないのですか』
と代返の手紙を使者に渡しました。
日暮れと共に五月雨の雨脚(あまあし)は強くなり、このままでは帰るのも難儀しそうです。
「雨が小降りになるまで供の者たちを軒下で休ませていただきたい」
と宰相の君に申し出て、兵部卿宮は先日案内された部屋で、宰相の君と対面しました。
「立ち寄って声を聞かせてくれと請われたから、こうしてやってきたよ。誘われたからには今晩の宿は貸して貰えるのかな?おあつらえむきに、おっと失礼、あいにくの夕闇なうえにこの雨脚。これでは帰り道もよくわからなくなったよ。私の心模様もこの空の景色と同じなんだ。
どうか今夜はこちらで旅の宿を、と許してくださったと判断していいんだね?」
「ここは洛外ですし、この雨では帰り道が危のうございます。ただ今お休みいただく部屋をご用意しておりますので、中にお入り下さい」
兵部卿宮の問いかけにはっきりとは返事せず、宰相の君は端近から室内へと宮を案内しました。二人はしばらくのあいだ、尼君の病状などを話していましたが、敷物などの準備ができましたので宰相の君は部屋を下がりました。
初夏の宵も次第に更けてゆきます。夜の雨雲は動きも乱れがちで、宮の気持をそのまま表したかのように、空を低く渡ってゆきます。枕もとから鳴いているかのような、ほととぎすのよく響く声を聞いていると、ああ、ここは本当に都から離れている山里なんだなあ、と宮は感慨深く思うのでした。もの寂しい場所柄なかなか寝付けず、夜更けのほととぎすの声をまどろみながら聞いていると、襖(ふすま)の向こうに人の居る気配がします。兵部卿宮は起き上がり耳をすますと、どうやら若い女房たちが数人世間話をしているようです。少しすき間がありましたのでそこから覗きますと、折りたたまれた屏風が見え、部屋の奥がほんのりとした明かりに照らされています。
女房たちのひそひそ話が聞こえます。
「気後れしそうなほどご立派なお客様ですわね。すぐそばでお休みなんですから、おしゃべり声はなるべく抑えなさいよ」
「ご気分はいかがですか」
「あら、用事が」
など、ささやき声に混じって人の出入りがそれなりににぎやかです。奥の方に几帳が見えますが、そこに山里の姫君は居るのでしょうか。女房たちが控えている几帳の向こうに誰かが居る気配がしますが、調度類の陰になってよく見えません。女の童たちが、
「今夜は尼上さまのおそばには上がられないのですか?」
「お姫さま、いつものように尼上さまの所に行きましょうよ」
と几帳の向こうにいる人に問い掛けています。
やはり几帳の陰には姫君が…と確信した兵部卿宮は、折りたたまれた屏風のそばから部屋の暗がりを伝って、そうっと几帳の中に体を滑り込ませました。
驚いたのは姫君です。狼狽のあまり声も出ません。姫君の異変に最初に気がついたのは、そばに居た女の童でした。部屋から飛び出し、大急ぎで尼君の御前に知らせに行きました。
床についている尼君のそばでは、宰相の君と、山里の姫君の乳姉妹の小侍従が看病にあたっていました。女の童は、まず姫の乳姉妹の小侍従に事の次第を知らせましたが、それを聞いた宰相の君もどれほど驚いたことでしょう。なぜご執心の姫君の居場所がわかったのか、あせりながら部屋に駆けつけると、兵部卿宮が几帳の中で、しれっとした顔で姫君のそばに座っています。
「まあどうしましょう、とんでもないことになってしまったわ。先ほどまで尼上さまに、『いつまでもこのままですと、兵部卿宮さまがあらぬふるまいを姫さまになさるかも知れません。それは姫さまにとって大変不名誉な事になりますまいか。ですから、そうなる前に』と説得していたのに。わたしが姫さまの寝所に宮さまを手引きしたと思われてしまう」
とあわてふためく宰相の君。一緒に駆けつけた姫君の乳母は乳母で、
「看病疲れでやつれきっている姫さまなのに、あんなご立派な容貌の御方がご覧になられて…きっとガッカリなさるに違いない」
と困りきっています。
初めて逢った山里の姫君はただただ可憐で、夜のほの明かりの中、それはもう抱きしめたいような愛しさを感じる兵部卿宮です。触れる髪の豊かな感触が、まだ見ぬ恋だった昨日までとは違う生々しさを伝えます。
心のどこかで、「逢えば意外に拍子抜けするような人となりかも」と思っていましたが、見知らぬ殿方の突然の出現にひたすらおびえている姿が例えようもなく清純で可愛らしく、宮がいくらなだめても言葉を尽くしても、目の前の姫君はこのまま震えながら夜の空気に溶けて消えてしまいそうです。
そんな姫君の雰囲気さえも兵部卿宮にとっては煽情的で、今にも理性の堰(せき)が崩れそうでしたが、残念なことにもうすぐ夜明け。いつまでもこうしていることは出来ません。
我ながら思いもよらなかったふるまいをしてしまい、宰相の君は内心恨んでいるだろうな…そう思うと、宮は尼君にも宰相の君にも退出の挨拶が言いづらく、変わらぬ気持だけを姫君に繰り返し繰り返し誓って、ひっそりと夜明けのまだ暗いうちに山里の家を出ました。
嵯峨野からの帰り道、兵部卿宮の頭の中といえば先ほどまで抱き寄せていた山里の姫君のことばかり。
(五月雨にうつむいた真っ赤な撫子が、雨上がりの夕映えにきらきら輝いているようなみずみずしい姫君の姿…ああ、もっともっと見ていたかったな。今宵一夜逢えないだけでも苦しい、けれど嵯峨野までの道のりを考えると、思うように通えるのだろうか。満足に通えないとなったら、打ち解けてくれるまでには時間がかかるだろうなあ…)
ときめいたりくよくよしたり。切なさと気苦労から、宮は屋敷に戻るまでの間じゅう、ため息をつきっぱなしなのでした。
屋敷に戻るとすぐに硯を用意させ、夜が明けきらないうちに急いで手紙を贈りました。
『ほととぎす 語らうほども なきものを うたて明けぬる 東雲の空
(ほととぎすはまだ十分語り尽くしていないのに、無情にも東雲の空を見るとは) 』
さっそくの手紙に、待っていた山里の人々は安心しました。
「こうなってしまったからには、どうかご自身でお筆をお取りなさいませ」
と皆で言い含めても、姫君は夜具を引っ被ったまま起き上がろうともせず、何を言っても聞いてくれそうにありません。
仕方がないので今回も宰相の君が代筆で、
『いろいろ説得しましたが、相当まいっておられるようです。
こうなった以上、今後の宮さまのお気持ちが心配でございます。こまかな打ち合わせは、お目にかかりました上で相談したいと存じます』
と返事をよこしてきました。
山里の姫君の心の扉は開くのでしょうか。
これより、この兵部卿宮を、『東雲(しののめ)の宮』とお呼びします。
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