第26話
外に出ると、雨は止んでいた。
こやけちゃんはあたしの手を強く掴んで引っ張っている。どうしてこんなに強く握るのかしら。離れちゃいけないってこともあるんだろうけど……あたしは考える。
子供が手を繋ぎたがる時は、自己肯定を求めている、信頼がある。だったかしら。虐待児は手を繋ごうと手を出すだけで身構えるから、こやけちゃんの行動は、あたしを信頼しているからなの? そうだとしたら、あたしは喜べば良いのかしら。それともやっぱり逃げないようにしているとか?
「菜季さんは、弐色さんの家が離れていることが不思議ではないのですか?」
ぽつり、こやけちゃんは呟くようにそう言った。
地図を見ても弐色さんの家だけ離れていることは誰が見てもわかる。まるで隔離されたように、森の中にぽつんと大きな和風家屋がある。一人で暮らすには、広すぎるくらいだ。
「どうしてなの?」
「菜季さんが先程聞きたかった事の答えでございます。厄災の巫女は
「あの、あたし、そういうのよくわからないの」
「嗚呼。そうでございましたね。菜季さんは胸にばかり栄養が行って頭が回らないのでした!」
「その言い方は止めて欲しいわ」
「善処します。鬼門とは、鬼が出入りする場所なのです。ここで言う鬼とは、角の生えた奴のことばかりをさしません。人間の心にも鬼は巣食っているので、誰でも鬼と成ります。それはさておき、弐色さんは鬼門にいることで、鬼を使役することもできますし、鬼の餌として里の者達を護ることもしています」
「え、えーっと?」
「厄災の巫女は、来たる日に、その身を贄――人柱にして、鬼を
こやけちゃんは唇を尖らせた。機嫌を損ねちゃったかしら。だって本当に何が何だかわからないんだもの。理解が追いつかないのよ。本当に。
引き摺られるようにされたまま、あたし達は森の中を歩く。今は、長い気分みたい。
迷ってないわよね? あたしは不安になってきた。でも、こやけちゃんは何も言わないから、きっと、道はあってるんだと思う。
日は完全に落ちて、すっかり暗くなってしまった。水の流れる音が聞こえる。川の近くにまで来たんだわ。目の前に緑色や黄色の光が飛んでいた。
「人魂!」
「蛍なのですよ。夕焼けの里の水質はとっても良いので、いっぱい住んでいるのです」
こやけちゃんは光を捕まえて、あたしに見せてくれた。
黒い虫のお尻が光っている。本当に蛍だったわ。すごく幻想的。綺麗な景色が見られるから、ここにいると本当に心が安らいでいく。
「菜季さん。蛍の光に誘われても、川に入ってはいけないのですよ」
「どうして?」
「たまには私も主人の真似をして言ってみましょうか。知りたい?」
「知りたいわ。教えて」
「真似したところで、菜季さんは普通に知りたがるので面白みがありませんね。そこは『知りたくない』と答えてから『知りたい』と言って欲しいのです。でも、素直なのは良いことなのです。教えてあげるのです。蛍の幼虫は肉食なのです」
こやけちゃんは草むらでネズミを捕まえて、川に投げ入れた。
ザザザ……という異様な音と共に、ネズミのキィッという断末魔があがって、しばらくしたら、骨が浮かんでいた。
頭がガンガン痛む。いったい何が起きたの?
「ここの幼虫は見ての通り、とても獰猛で貪欲なのです。すぐに食べてしまうのです。人間の大人なんて、簡単に食われてしまいます。ここにいる蛍達は、里に迷い込んで川に落ちた人間を食べて増えているので、どうやら去年もなかなか落ちたようでございます。あはあは」
こやけちゃんは楽しそうに笑った。
そしてまたネズミを捕まえて川に放り込んでいた。ネズミの断末魔があがる。
ザワザワ、水面が揺れる。水飛沫があがる。それはよく見ると赤かった。赤い飛沫があがり、ぷかぁっと白い骨が浮かんでくる。その白い骨にすら虫が乗っていた。肉の一片さえ残さないように齧りついているようだった。
あたしは急に怖くなった。背中を気味の悪い汗が流れ落ちていく。
じっとり濡れて張りついた服が気持ち悪い。とても暑いのに、私の周りだけ冷気が溜まっているかのように寒い。
こやけちゃんは再びあたしの手を握る。あったかい手。あたしの不安を吸い取るように優しいぬくもり。
「菜季さんは何も心配しなくて良いのです。貴女は私の
こやけちゃんは、胸を張りながら言う。あたしは頷きながら手を握り返した。
川を渡って、道を歩く。こやけちゃんは上機嫌のようで何か口ずさんでいる。
「おぬれちきえざん、いんおこさひうめななかるさや、いのこかひがるさや」
楽しそうだけど、いったい何を歌ってるのかしら?
こやけちゃんが楽しそうだから、もう、それでいいのかも。楽しそうにしてるもの。きっと良い事だわ。
屋敷に帰ると、景壱がキッチンにいた。また何か作ってるみたい。
「ご主人様! ただいまです!」
「おかえり。菜季もおかえり」
「ただいま」
「今日の夕飯は何ですか?」
「ペペロンチーノ。……ああ、心配は不要。人間の肉は不使用やから」
景壱はフライパンでパスタを炒めていた。わざわざ人間の肉は不使用って言われるのもなんだか嫌だわ。
そういえば、弐色さんは言ってたわね。景壱なら教えてくれるって。
「ねえ、景壱。タケちゃんは何処にいるか知ってる?」
「ああ……知ってる。でも、先に夕飯にしよう。こやけが待ってる」
「お腹空いたのです! 腹が減っては戦もできないのでございますよ!」
「そ、そうね。ごめんなさい」
「これ持ってってあげて」
景壱から山盛りのペペロンチーノを受け取って、あたしはこやけちゃんの前に置く。
こやけちゃんは「頂きます!」と元気良く言うと、すぐさまがっついていた。相変わらずの食べっぷり。まるで飢えた獣のようね。景壱はあたしの前にこやけちゃんよりもだいぶ少ない量を置いて、自分の前には更に少量の皿を置いた。この分配で良いのかしら。景壱だって男なんだから、もっと食べると思うんだけど、自分で盛り付けてきたんだからあの量が良いのよね。
左頬のガーゼの下が気になるけど、夕飯を終わらせてからじゃないときっと答えてくれない。
食後、皿を洗って一息つく。景壱がハーブティーをいれてくれた。とても良い香りがする。毎回ブレンドを変えてるみたい。
「で、さっきの『タケちゃんは何処にいるか知ってる?』って話の続きをしよう」
「タケちゃんが何処にいるか教えて欲しいの。まさか、食べてないわよね?」
あたしは先に最悪の結末を尋ねる。
景壱は首を横に振った。これはどっちの意味なのかしら。食べてないってこと? 食べたってこと?
「知らない」
「でも、さっき、『知ってる』と言ったわよね?」
「俺は、知らないということを知ってる」
「ご主人様でも知らないことはあるのですよ」
こやけちゃんはポテチをムシャムシャ食べながら会話に混ざる。まだ食べるのね。ポテチだってわかってるのに、なんだか恐ろしいものを食べているみたい。
「川原にいないなら、もうここにはいない」
「景壱は川の監視をしてないの?」
「もうあそこを見るのは飽きた。なんにも面白みが無い。こやけに恐怖して石を積み続ける子供を見るのは愉快やけどな。何にも抵抗できずに無様で、滑稽で、愛おしい」
景壱はククッと喉の奥で笑う。背中を悪寒が滑り落ちた。また頭が痛くなってくる。頭がガンガンする。考えちゃいけないんだわ、考えちゃ駄目。
「人間は考える
「は、はい?」
「ご主人様はたまに難しい事を言うのです。私にもわからないので、こちらに助けを求めないで欲しいです」
あたしはこやけちゃんに解説してもらおうと思ったけど、こやけちゃんは首を横に振りながら答えた。
とりあえず、考えることを止めたらいけないってことよね? でも、考えたら頭が痛くなるのよ。
どうすれば良いのよもう! ああ、頭がガンガン痛む。
「何か他に知りたいことある?」
「そうね。……ここにいる人達は、死んでいるの? ここはどういう所なの?」
この質問をしたのは、多分、三回目。こやけちゃんも弐色さんも答えは同じだった。
それなら、景壱の答えも同じになるわよね?
「逆に聞くけど、あなたは死んでるん?」
「あたしは生きてるわ」
「本当に?」
「え?」
「あなたは、あなた自身が生きているという証拠を提示できる?」
「そんなこと……」
「証拠を提示できないなら、あなたは死んでいるということになる」
「あたしは生きてるわよ!」
「じゃあ、仮に、あなたが生きているとして、あなたから俺はどう見える? 俺は生きている? それとも、既に死んでいる? さあ、どっち?」
「どう見えるって言われても……」
「そのまま感じた事を答えてくれたら良い。さあ、どっち? 答えて」
そのまま答えろと言われても、どう答えたら良いのよ。景壱は、生きてるのよね? その生きてるという決定的な証拠を提示すれば良いってことよね。見てわかるものなの?
こやけちゃんを見ると、グリーンティーを冷蔵庫から出していた。あたし達の話は聞いてないみたい。
自分で考えなきゃ。考えることをやめちゃいけない。……もしかして。
「景壱は、生きてるわ」
「どうしてそう思う?」
「だって、景壱は考えてるもの。色々考えて口に出してるんでしょ? それなら、生きてるわ。思考してるんだもの」
景壱は気怠そうにしていた姿勢を正して、あたしの目をジッと見た。
透明度の高い碧い瞳に星がまたたく。海に反射した光のようにキラキラ輝いて見える。
「ククッ、あっはっはっはっはっ。そうやね。そう。正解。それが答え。俺は生きている。そして、あなたも生きている。代価は今の答えで頂いた。教えてあげる。ここが、どういう所なのか。こやけ、お風呂わいてるから入っといで」
「わかりました」
景壱はひとしきり笑うと、こやけちゃんにお風呂に入るように促した。こやけちゃんはグリーンティーを飲み干すと、出て行った。
「さて、菜季はこっちに来て」
「え、ええ」
あたしは景壱の後をついてリビングを出た。
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