〈深き者共〉競艇 その六

 一九二〇年四月 帝都 地下競艇会場





 予選三日目



 今日は海側からの風が強い。

 第一旋回目印ターンマークまでは追い風となる。


 三組から競技レース開始。

 吹越には余程の才が有るのか、曲芸アクロバット走法に終始して初の一着。

 観覧席スタンドでは相変わらずの人気だ。


 二戦目は伊藤の属する四組。

 昨日ひとり処刑されたので、五枠での競技レースとなる。


 昨日は外尾の負傷のため着外だった伊藤。

 自身の過失ではないので罰金こそ科せられなかったものの、入札金不足が祟り新しい〈深き者共ディープワンズ〉の雇用は見送る破目になった。

 従って、曳行〈深き者共ディープワンズ〉は三好を起用するしかない。


 その代わりと云っては何だが、艇枠入札では賞金を殆ど使い一枠を確保する。

 他の参加者も昨日で入札準備金を大きく減らしていた為、四着以下の罰金を警戒して守りに入ったのだろう。


 入札金をほぼ使い果たしもう後が無い伊藤は、四着以下で処刑が確定する。

 自らの死が間近に迫る中、彼は係留所ピットを離れた。


 伊藤は開始スタート枠争いも冷静にくぐり抜け、一枠を守り切っての開始スタート

 今日は海からの強い風が吹いており、各艇は調子のいい開始スタートを切った。


 伊藤はこれからの戦況を予測する。


⦅三好の能力は、出足が☆☆星二つに行き足が☆☆星二つ

 伸び足が星一つで回り足が☆☆☆星三つ

 伸び足が悪いので外からは無理だな。

 勝つ可能性があるとすれば、内に入って逃げ切るしかない。

 一枠は取れたが、残念ながら行き足が平均より下だ。

 ちょっとでも油断すればあっという間に抜かれちまうだろう。

 けど、この強風を利用すればあの作戦が使える。

 失敗したらどのみち死ぬんだ。

 やれるだけやってやるぜ!⦆


 三好は加速性能が悪く、後続の艇に次々と抜かれて行く。

 しかし、最も重要な一周目第一旋回目印ターンマーク事故アクシデントが起こった。

 追い風を受け先頭トップで外側を回っていた五号艇が、旋回ターンし損ねて転覆したのである。

 これを受け、他の艇はかなりの減速を強いられた。


 だが、全く減速せず第一旋回目印ターンマークを回る艇が一つ。

 伊藤の駆る一号艇だ。


 一号艇斜め後方を走っていた宮森は、伊藤 達の企みに気付く。


⦅曳行していた〈深き者共〉が居ない……。

 まさか艇と繋いでいるつなが切れたのか?

 いや違う。

 まさか艇底に⁈⦆


 伊藤はこの強風の中、あろう事か艇の上で立ち上がった。

 そして、身体を限界まで艇の左側に傾けて旋回ターンしたのである。


 風が吹きすさび揺れも激しい筈の水面で、なぜ伊藤は転覆せずに旋回ターンを完遂できたのか。

 その答えは三好に有る。


 三好は葦登よしのぼり型の〈深き者共ディープワンズ〉だ。

 葦登よしのぼり最大の特徴と云えば、吸盤状に発達した胸鰭。

 この胸鰭の機能で、葦登は川底の石や護岸に貼り付く事が出来る。


 そして三好は旋回ターンに入る直前、艇の真下に胸鰭で貼り付いたのだ。


 今競技レースのようにケーブルで引っ張る形の曳行だと、水上の艇はどうしても風の影響を強く受けてしまう。

 しかし艇底ふなぞこに貼り付き艇の重心を落とせば、風に煽られても最大速での旋回ターンが可能。


 確かに三好の身体が水中で逆さになると云う不利点デメリットも有る。

 しかし艇には転舵ハンドルが、三好にはそれを伝える装具ハーネスが装着されている為に進行方向を気にする必要は無い。


 伊藤は颯爽さっそうと身をひるがえし艇に着座。

 直線に入った所で、自身の作戦を心中で思い返す。


⦅三組の吹越って野郎、軽業師みてえに艇の上でおどけてやがった。

 それでこの方法を思い付いたぜ。

 三好の御蔭で艇の安定感は抜群。

 しかも海からの強い追い風で、速度を上げ過ぎた奴から回り切れずブッ飛んで行く。

 我ながら上手い作戦だぜ!⦆


 伊藤の使ったこの旋回術は、後の競艇で〖モンキーターン〗と呼ばれる事となる。


 伊藤は旋回目印ターンマークを回る度にモンキーターンを駆使し、他の艇との差を広げて行った。

 焦った他の艇は速度を上げるも、結局旋回ターンし損ねて転覆する。

 結果、転覆しなかったのは伊藤を含め三艇。


 前代未聞の方法で一着を勝ち取った伊藤に、観覧席スタンドからも喝采かっさいが贈られた。

 宮森は堅実な操艇で二着。


 伊藤が破格の活躍ファインプレーを決めた所で、予選三日目は三戦目へと移った。


 三戦目は一組。


 梶原は昨日の入札で真梶木まかじき型〈深き者共ディープワンズ〉を雇用し起用する。

 恐らくは芭蕉梶木型〈深き者共ディープワンズ〉を休ませる為だろう。


 反面艇枠には全く頓着が無いようで、最も外側の五枠から開始スタート

 そして大健闘のすえ二着。


 一着は昨日と同じく玉島。

 彼女は昨日の入札会で又もや魳鰆型〈深き者共ディープワンズ〉を雇い入れる。


 そう、雇い入れた三体全てが同種族なのだ。

 彼女は今日も新しい個体で競技レースに参加した事から、保有〈深き者共ディープワンズ〉に充分な休息を与える為だと推測できる。


 四戦目は二組。

 注目株の若本は勝俣の〖まくし〗に遭い二着。


 捲り差しとは、一周目第一旋回目印ターンマークで幾つかの艇を捲り、なおかつ先行の艇を差してその後も抜かれずに勝つ決まり手の事。

 高度な操艇技術と大胆な判断力が必要とされるこの決まり手は、勝俣の確かな実力を物語っている。


 ここでも転覆による失格があり、その後処刑と相成った。


 これで三日目は終了。

 明日の予選最終日を迎える。





 予選四日目



 予選最終日の今日も海風が強い。

 競技レースは伊藤の属する四組から行なわれる。


 伊藤が艇枠入札に使った額は百円(現在の貨幣価値で約四十万円)と云う少額だったが、殆どの債務者が金欠にあえいでいた為に三枠を勝ち取る事が出来た。

 昨日の走法を使えば、一着も充分に射程圏内である。


 そして競技開始レーススタート

 伊藤は得意のモンキーターンを駆使して順調に順位を上げた。

 ニ周目には先頭トップに立ちそのまま終着ゴールまで行けると思った矢先……


「おい三好、左に傾き過ぎだぞ!

 右に戻さねえと転……」


 三周目第二旋回目印ターンマークでまさかの転覆。

 敢え無く失格となった。


 失格を取られた伊藤は五百円(現在の貨幣価値で約二百万円)の罰金を科され、残金百円(現在の貨幣価値で約四十万円)に落ち込む。


 まさに風前のともしびとなってしまった伊藤を余所に宮森が二着。

 準決勝行きが決定した。


 続けて一組による第二競技レースが始まる。


 結果は梶原が一着。

 玉島が二着だった。


 玉島は艇枠入札で一枠を取得し、予選初日に使った個体を再び起用する。


 疲労の無い曳行〈深き者共ディープワンズ〉で内側インを攻めたにも拘らず二着に落ち着いたのは、この強風に理由が有った。

 玉島は体重が軽く艇が流されてしまっていたが、体重の重い梶原は強風をものともせずに突き進めたからである。


 梶原は特に外側経路アウトコースを好み、実際結果を出していた。

 このように外側経路アウトコースからの捲りを得意とする選手を、競艇では〖アウト〗と呼ぶ。


 続けて二組による第三戦。


 風を的確に読む事が出来る上に一枠を取った勝俣だが、若本が自身の艇を曳行する飛魚型〈深き者共ディープワンズ〉の力を存分に発揮した事で二着に落ち込む。


 若本は追い風の際に飛魚型〈深き者共ディープワンズ〉を飛行させ、艇の舳先へさきを持ち上げた格好で旋回ターンしたのだった。

 この方法は水の抵抗を極限まで減衰させる事が出来、尚且なおかつ他の艇が出す引き波を越えての旋回ターンが叶う。

 そして、先頭を走っていた勝俣を三周目で華麗に抜き去った。


 若本が行なったこの旋回法は、後の競艇では〖ウィリーターン〗と呼ばれる。

 どうやら若本には、競艇選手として天賦てんぷの才が備わっているようだ。


 予選最終競技レースは三組。


 ここでは吹越が本領を発揮する。

 吹越は艇枠に恵まれず五枠からの開始スタートだったが、完璧な操艇を見せ捲りで勝利した。


 勝因の一つは、今回吹越の艇を曳行した大西洋伊勢鯉たいせいよういせごい(アトランティックターポン)型〈深き者共ディープワンズ〉だろう。

 体格が良く潮流をものともしない特性と、高い遊泳速度を併せ持っているからである。


[註*大西洋伊勢鯉アトランティックターポン=カライワシ目イセゴイ科に属する魚で古代魚の一種。

 シルバーキングの愛称でも知られ、スポーツフィッシングの対象魚として人気がある。

 体長二五〇センチメートル、体重一六一キログラムの個体が確認されているが、体重二〇〇キログラム越えの超巨大個体の噂も]


 これにて予選が終了。

 各組の有力選手は順当に準決勝へと進んだ。


 伊藤の獲得賞金総額は二千四百円(現在の貨幣価値で約九百六十万円)で無事準決勝行きが決定したものの、罅割ひびわれた友情の亀裂は広がるばかりであった――。





〈深き者共〉競艇 その六 了

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