〈深き者共〉競艇 その二

 一九二〇年四月 帝都 地下競艇会場





 競技水面では、〈深き者共ディープワンズ〉が競技艇を引っ張り第一旋回目印ターンマークを旋回する所だ。

 勝負の大部分はこの場面で決まる。

 これは、通常の競艇に限らず〈深き者共ディープワンズ競艇ボートレースでも同様らしい。


深き者共ディープワンズ〉が第一旋回目印ターンマークを過ぎて直線に入る最中、戸根川が競技レース中の注意事項に言及する。


「各自に配布した競技規則にも記してあるが、読み書きの出来ない者もいるだろうから改めて私が違反行為を説明する。

 細かい事だが、転覆など事故を起こした競技艇の周囲では追い抜き禁止。

 もしやった場合は警告となる。

 開始枠争いの際に大きく舳先へさきを振る事も警告だ。

 角度は操艇そうてい練習の時に詳しい説明があるから憶えておけ。

 そして各種警告は全ての日程で累積し、二回警告を受けた時点でその競技は失格。

 着外扱いとなるから注意しろ。

 次は失格事例を述べる。

 もし競技中に競技艇が転覆、及び沈没した場合は失格。

 お前達自身が落水しても失格だ。

 逆走、右回りも失格。

 自身の競技艇を他の競技艇に強くぶつける事や、進路妨害も失格。

 他の競技者や〈深き者共〉に対しての暴力行為、ないし他の競技艇を故意に転覆させるなどの妨害行為を働いた場合も失格となる。

 自身で手を下さなくとも、雇った〈深き者共〉にやらせる事も失格だ。

 そしてこれらの規則は、競技開始からではなく係留所を離れた時点から適用されるので注意しろ。

 因みに、何らかの違反行為が認められた場合は競技をやり直す事も有り得るからな」


 戸根川の規則説明が終わる頃には三週目に入り、若本が感想を漏らす。


「何だい。

 他のふねを妨害するなだの攻撃するなだの、ずいぶんとお行儀がいいじゃないか。

 これのどこが命懸けなんだい?」


「それは後で判る……」


 戸根川が不敵な笑みを浮かべると、〈深き者共ディープワンズ〉が続々と終着線ゴールラインを越えた。


 続けて二組目が係留所ピットから離れると、戸根川が再び規則説明に入る。


「先ほど説明した違反行為だが、お前達にとっての大事を説明しよう。

 各種警告に罰金は無いが、失格には罰金を科す。

 今から述べるのでしっかり頭に叩き込んでおけ。

 先ず、自らの落ち度で落水、転覆、沈没した場合や不正出発、出遅れ、他者の競技艇及び〈深き者共〉への進路妨害は五百円(現在の貨幣価値で約二百万円)の罰金。

 但し、他の競技者やそれが雇った〈深き者共〉によって落水、転覆、沈没させられたなどの場合は罰金なし。

 他の競技者とそれが雇った〈深き者共〉への暴力行為は千円(現在の貨幣価値で約四百万円)の罰金だ」


 納得が行かないのか、戸根川に若本が噛み付く。


「要は不正や不手際を起こさなきゃいいだけだろ。

 そのままチンタラ走って予選を終えりゃあ、晴れて自由の身って訳だ。

 命懸けとは程遠いねえ!」


「ふふ、そうは問屋がおろさんのだよ。

 まだお前達に説明していなかったが、競技で四着以下になった場合も罰金を科す」


 戸根川の一言で、債務者全員がザワついた。


 そして、この絡繰からくりにいち早く気付いた伊藤が恐る恐る問う。


「まさか、昨日言ってた入札準備金が尽きた奴から……処刑すんじゃねえだろうな?」


「流石は伊藤、カネ勘定の速さと臆病さは人一倍だな。

 お前の言う通り、入札準備金と獲得賞金を合わせた残高が底を突いた者から、問答無用で処刑される。

 だがそれだけではないぞ。

 獲得賞金額が準決勝進出者に近い者を除き、予選敗退者も処刑となる」


 ――ざわざわ……。


 予選敗退で死。

 戸根川のこの言葉に、債務者達は暫し沈黙するしかなかった。


 たとえ着順が低かろうとも入札準備金を低く抑え、失格さえしなければ死ぬ事は無い、と思っている者達が多数だったからである。


 余りに冷酷で残忍な仕組みに吐き捨てた伊藤。


「どんな手を使ってでも俺達を苦しませたいって訳か。

 あんたやあの観覧席に座る連中を思うと反吐へどが出るぜ!」


「勝手にほざいていろ、この負け犬めが!

 この催しはな伊藤、雲上人うんじょうびとの方々に御見せする見世物なのだよ。

 雲上人の方々は、お前達が必死で走るのをそれはそれは楽しみにしておられる。

 カネも掛けていらっしゃるから当然だ。

 であるから、お前達にのんべんだらりと走って貰っても困る。

 種々の罰金刑を科すのも、尻に火の点いた状態で競技に臨んで貰う為だ」


「じゃあ戸根川さん、四着以下の罰金を教えてくれ」


「ああ。

 四着は百円(現在の貨幣価値で約四十万円)、五着は二百円(現在の貨幣価値で約八十万円)、六着は三百円(現在の貨幣価値で約百二十万円)となる。

 罰金の額は予選、準決勝、決勝で変わらない。

 憶えておけ」


 この見世物ショーの全貌が姿を現した事で、伊藤の心情は焦りを越え恐怖へと移行した。


⦅艇枠と化けもんの入札に加え、四着以下の罰金も考慮しなきゃいけねえとはな。

 しかも、予選敗退はおろか残額が尽きた時点で処刑だと?

 九頭竜会の奴ら、完全に狂ってやがるぜ……⦆


 債務者達が自身を待ち受ける運命におののく中、二組目が開始スタートした。

 最初の組より多少は速いがどの個体も泳ぎが得意ではないようで、競技水面の一番内側インに陣取った競技艇が一着となる。


 ここで体格のいい男性債務者、梶原が噛み付く。


「何でえ、一番内側に入ったもん勝ちじゃねえか。

 それなら、内側に入りやすい一枠と二枠の独壇場。

 六艇で競走する意味あんのか?」


「流石に気付くか。

 確かに競艇は一枠が絶対有利。

 五枠、六枠が三着以内に入る事は先ず無い。

 更に、開始して直ぐの第一旋回目印を旋回する時点でほぼ勝負が決まってしまう。

 先頭の艇が水面を走る際に出るなみで、後続の〈深き者共〉の遊泳速度が減速させられてしまうからだ。

 だが、次の組からはそうも行かなくなる。

 腐らず観ていろ……」


[註*なみ=ここでは、船が勢い良く走った後に残る波の事]


 三組目が係留所ピットを離れた。

 係留所ピットを離れてから開始スタートする迄を待機行動と呼び、これには開始枠コース争いも含まれる。


 今回はその開始枠コース争いで動きが有った。

 一号艇が第二旋回目印ターンマークを回り切る前に、四号艇が急加速して最も内側インに入ったのである。


 競艇は横並びで発進しなければならない規則ルールだ。

 すると、一号艇は横にずれて二枠へと収まる。


 ここで解説を入れる戸根川。


「このように、第二旋回目印を回るまで開始枠は固定されていない。

 規則を守った上では、四号、五号、六号艇が一枠に入る事も出来るのだ」


 三組目が開始スタートし、一枠を勝ち取った四号艇がそのまま一着。

 とどの詰まり、競艇は内側経路インコース争いが非常に重要なのだ。


 全ての〈深き者共ディープワンズ〉が遊泳練習を終えると昼休憩に入り、その後は債務者達が実際に競技艇へと乗り込んでの練習となる。


 競技艇には輪状把手ハンドル槓桿レバーが備わっていて、それら装置は曳行〈深き者共ディープワンズ〉に結ばれているケーブル装具ハーネスに直結しており、転舵てんだと減速の意図が曳行〈深き者共ディープワンズ〉に伝わるよう設計されていた。


 慣れない操艇で落水、転覆、沈没する者も相次いだが、競走向きではない〈深き者共ディープワンズ〉が選手を救助する。

 そのような事もあり、選手は沈溺ちんできを気にせず操艇練習に集中できた。


 午後いっぱい操艇練習が繰り返され、夕食後は各入札に入る。





〈深き者共〉競艇 その二 了

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