契約三昧 後半 その六

 一九一九年七月 帝居地下 神殿区画





 水中に放られた単結晶金剛石剣ダイヤモンドソードは、気狐が意識を失った事で剣周囲を覆っていた障壁バリアが解除されてしまう。

 剣自体も崩壊したが、それ迄に蓄えていた熱は健在。

 周囲の水が一瞬で蒸発し、剣の柄である三鈷杵を水蒸気の膜が覆った。


 その様子を観た蝉丸は、一瞬で恐慌状態におちいる。


⦅まずい!

 このままでは……⦆


 高温に熱された金属などが水中に落ちると、その周囲に水蒸気の薄膜が形成される。

 この薄膜は暫く安定しているが、何らかの原因により不安定化してしまうと、衝撃波と共に破壊されるのだ。

 これを界面接触型水蒸気爆発と云う。


 気狐が蔵主を殺せなかった時点で脱出不可能と悟った蝉丸は、自爆まで秒読みに入った三鈷杵を眺め自問した。


⦅このままでは爆発に飲み込まれる……。

 でも、それで良かったのかも知れない。

 僕や橋姫の正体が瑠璃家宮 一派に知れれば、必ず利用されるだろうから。

 死体が残らないに越した事はない。

 爆発の余波で水中に居る蔵主 達だけでもたおせるといいんだけど……。

 ちょっと無理だね⦆


 抗いようのない死を自覚した蝉丸は、残り少ない人生を友人達と過ごそうと思ったのだろう。

 意識を失っていた橋姫と気狐を救助した。

 ついでに、斬り飛ばされた気狐の右手も取り寄せる。


 蝉丸は今まで落としていたまぶたを上げ、三鈷杵を包む水蒸気の薄膜が揺れるのを観た。


⦅久しぶりに観た光景がこれか……。

 あ~あ、締まらないな~。

 やっと父親に復讐できそうだと思ってたんだけど。

 ま、いいや。

 気狐と橋姫も一緒だし、さびしくはない……⦆


 薄膜が更に揺らめくのを網膜に焼き付けた後、蝉丸は安らかに瞑目めいもくした。


 …………。


 爆発の代わりに蝉丸の聴覚野を揺らしたのは、聴き馴染みのあるがらの悪い声。


『利敵行為発覚により、宮森 遼一の触覚を剥奪!』


 不可思議な水流を感知した蝉丸が再び開眼した時、目前の三鈷杵は跡形もなく消えていた。

 そして、自分達を安らぎから引き摺り出した元凶からの伝言が届く。


『爆発寸前だった三鈷杵はこちらで処理したよ。

 次元牢内に転送したから安心してくれ。

 視覚を剥奪されている身分で言うのもなんだが、姿を見せて欲しい』


 蝉丸は観念し、橋姫と気狐を抱え水面へと浮上した。


 やや離れた水面には、手負いの蔵主と〈ダゴン益男〉。

 蔵主は瞬断殺で両手足を失うも、気狐の手元がぶれた為に瞬殺は免れている。

 彼は気が触れたかのように頭を振り乱し、折角豊かさを取り戻した毛髪をまた疎らにしていた。


 上空では〈異魚〉が優雅に泳ぎ回り、多野 教授と〈ハイドラ頼子〉は瑠璃家宮 像下部で停止飛行ホバリングしている。

 多野は気狐に突かれた頸筋を抑え、歯ぎしりして蝉丸をにらみ付けていた。


 更に上空には比星 親子の姿が在り、澄のそばにはあの風呂敷包みも……。


 万事休すとはまさにこの事だが、不可解な事に瑠璃家宮 陣営は蝉丸 達に手出ししない。

 その代わりの積もりか、怨嗟えんさと不満の眼差まなざしをたっぷり注いでいた。


 このままでは結局正体を知られてしまうと焦慮しょうりょした蝉丸に、思念で語り掛ける今日一郎。


『蝉丸と云ったね。

 君と交渉したい』


 蝉丸は要請の意図が判らず、恐る恐る返答した。


『どう云う意味ですか?

 僕らは闘いに敗れたのです。

 もう死ぬしかない僕と交渉など……』


 蝉丸はとうに諦めの境地に達していたが、今日一郎はそれをくつがえす言葉を吐く。


『瑠璃家宮とは話を付けたからね。

 僕と契約すれば君達は死なないさ。

 では条件を言おう。

 僕が君達を外法衆本部まで安全に転移させる。

 その間、瑠璃家宮 陣営は一切手出ししないから安心してくれていい。

 その見返りとして、僕、母さん、宮森 遼一の剥奪された五感を全て返却してくれ。

 君のお仲間はまだ死んでいない。

 悪い取引ではないと思うけど?』


 蝉丸はエンマダイオウを出現させその答となした。


 フィヨフィヨと上空の今日一郎へ近付いたエンマダイオウは、覇気の無い口調で手続きに入る。


『はぁ~、やっとまともな契約にありつけた感じするわ~。

 あぁ、ボンは触覚剥奪されとるんで手足動かせへんか。

 しゃあない。

 思念で必要事項を記入してくれ』


 念動術サイコキネシスで万年筆を動かし記入して行く今日一郎。


 今回は双務そうむ契約だ。

 蝉丸の方にも義務が発生する為、彼も記入する。


 内容は以下の通り。


■〖大昇八年七月◯日

 比星 今日一郎は、蝉丸、気狐、橋姫を、安全に外法衆本部まで移送する事を約束します〗


■〖大昇八年七月◯日

 外法衆正隊員 蝉丸は、比星 今日一郎が前述の行動を取った場合、既に剥奪した、比星 今日一郎、比星 澄、宮森 遼一の五感を全て返還する事を約束します〗


 必要事項の記入が終わり、蝉丸は拇印を押捺した。


 その意匠デザインは擬人化した昆虫……その名の通り蝉と云ったモノで、まこと奇々怪々ききかいかいである。


 エンマダイオウは今日一郎からも拇印を貰うべく、折り返し彼の許へ向かった。

 エンマダイオウは身体を動かせない今日一郎の手を取り、朱肉に彼の右親指を押し付ける。


 拇印を押したエンマダイオウは、その意匠デザインを見て眼鏡を外した。

 帳面には、前回とは違う意匠デザインの霊紋が押捺されている。


 左半分は前回と同じ虹色の球体と触脚だが、右半分は頭部のふやけた人面。

 無理にたとえるなら、蛙の如き顔である。


 眼をすがめて今日一郎に呟くエンマダイオウ。


『……ふむ。

 ボン、そう云う事やったんか。

 かまへんかまへん。

 契約には支障ない』


 エンマダイオウは納税印紙を取り出し帳面に貼り付け、そのページだけを破り取った。


『よっしゃ、契約は成立したで。

 後は履行だけやな。

 ほなボン、頼むわ』


 約定やくじょうが交わされ、〈ハイドラ頼子〉に思念を送る今日一郎。


『権田 頼子、母さんを頼む……』


 念動術サイコキネシスで母と彼女が大事にしている風呂敷包みを〈ハイドラ頼子〉へ送り届けると、今日一郎の身体が水面近くまで下降した。

 蝉丸のそばまで来ると上方に次元孔ポータルを展開し、彼に語り掛ける今日一郎。


『これより転移を行なう。

 意識を失っているふたり……。

 気狐と橋姫だったか。

 ふたりが目を覚まして暴れないよう気を付けてくれ。

 その所為で君達の肉体が分断されても、僕の所為じゃないよ』


『……解っています』


 今日一郎が念動術サイコキネシスで蝉丸 達を浮上させ、今日一郎を先頭に次元孔ポータルへと入った。

 エンマダイオウもフィヨフィヨと滑り込もうとしたが、今日一郎が急停止してしまい面食らう。


『何や?

 何でそこで止まるんか?』


 今日一郎が現在の状態を答える。


『次元孔を発生させている電磁波が急に不安定になった。

 理由は解らない。

 多分、その気狐が入った時におかしくなったんだ。

 彼は今の所気絶しているようだが……。

 蝉丸、君は何か知らないのかい?』


 それについては蝉丸も覚えが無いらしく、疑問符を浮かべるばかりだ。


 今日一郎はこの異変について一考する。


⦅こんな事は初めてだ……。

 気狐が次元孔に入った途端、原因は解らないが電磁波が乱れた。

 まるで、何かに怯えているような振動……。

 その何かが彼に有るとでも?⦆


 今日一郎が今一度集中し次元孔ポータルを展開し直すと、今度は問題なく全員通過する。


 次元孔ポータルが閉じる寸前、エンマダイオウの愚痴ぐちが漏れた。


『ほんま、今日は厄日やでぇ……』





 契約三昧 後半 その六 了

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