水面に揺れる月の夜に
元葉秀貞
第1話
駅までの道に小さな川があり、片側には数十メートルの桜並木がある。
川は、随分前に氾濫対策として川岸はコンクリートに舗装されているので、桜並木と言っても、そんなに風情があるものではない。
それでも、桜が満開に咲くこの頃になると、晴美は思わず足を止めてしまう。
もうこんな季節になったんだ。
毎日、ルーティーンな仕事をしていると、あっという間に季節は変わっていく。特に三十路に近づいてからは、年だけが加速度的に過ぎていくようで焦りにも似た気持ちになる。
そう言えば、母が亡くなったのも桜の季節だった。
母はいわゆる良妻賢母のタイプで、いつも笑顔で掃除をしたりご飯の準備をしていた。晴美は母に褒められたくて率先してお手伝いをしたりしていた。どんどん母に似てくると言われる事は晴美にとって褒め言葉であり、とても嬉しかった。
そんな母が、晴美が中学二年生の時に病死した。
弟はその時まだ小学三年生で、本当に家の中の灯りが消えたように暗くなってしまったが、晴美が母の代わりに父親を支えて、弟を守らなければならないと決心をした。
その為、クラブ活動などはせず、学校が終わると買い物をし、晩御飯を作り、掃除や洗濯をして1日が終わるという日々を過ごしていった。
そんな生活は、晴美が短大を卒業して、今の会社に就職した後も続いた。
その為か、晴美は同級生よりも幾分大人びてしまい、友達と呼べる人も少なく、元来、内気な性格の為、異性と付き合うという事もほとんど無いまま来てしまった。
弟も無事就職して一人暮らしを始めたから、以前ほど家事に専念しなくても大丈夫になったものの、その時間をどのように使えば良いかわからなかった。
四月を過ぎて、晴美の部署にも新入社員が入ってきた。
金曜日の夜、早速新入社員歓迎会が開かれた。普段は飲みに出る事もない晴美も、忘年会や新年会など部署のメンバーの結束を深めるような行事には参加するようにしていた。
その日は、父親も夜遅くなると言っていたので、気がねなく遅くまで参加出来るのだったが、いつものように一次会のみの参加で皆んなと別れた。
このまま一人の家に帰るのも何となく引けて、賑やかな街をブラブラした。
洋服や靴などを見たものの、結局必要な衣類を買って家路に向かった。
駅から歩いていると、春真っ盛りだが、夜の風には冷気が混じり、アルコールで火照った顔には心地良かった。
いつもの川の橋の上に来て、ふっと立ち止まった。川は全く色を失った真っ黒な流れをつくり、その上に無数のさくらの花びらが流れていた。
重くゆっくりと流れる様は、まるで宇宙に浮かぶ無数の星のようで、さながら天の川のように見えた。
すると、黒い川の一点がきらきらと光り始めた。
晴美が空を見上げると、雲間から美しい月が姿を現した。
暗く墨汁を流したような空とは対照的に、白く真円の月は、まるで黒い空にあいた光のトンネルのようだ。
綺麗な月を見上げていると、急に胸の奥から孤独感が湧き出した。
母は今の晴美の年齢の時には晴美を産んでいた。
自分とて結婚しても、あるいは子どもを産んでいてもおかしくはない。
弟が家を出て、父親と二人の生活になったが、すれ違う事も多く、家族の絆も希薄になったように感じられた。
晴美も結婚願望はあるが、具体的に相手がいる訳ではない。高望みをしているつもりもないが、今の生活の中で出会えるとも思えないし、積極的に結婚相談所に行こうと思ってもいない。
結局、何かを望んだとしても、今の穏やかな生活に流されてしまうような気がする。小さな桜の花びらでは、大きな川のうねりに逆らう事が出来ないように。
仕事の帰り道、晴美はいつものターミナル駅を乗り換えの為に歩いていた。
いくつもの路線が行き交うこの駅の地下街は、時間を問わずいつも人で溢れかえっていた。
「こんばんわ」
唐突に後方から大きな声を掛けられ、晴美は思わず立ち止まってしまった。
「とてもスッキリしたお顔の相をされてますね。私、占いの勉強をしているのですが、ちょうど変り目の時期にきていらっしゃいますね。」
学生のような若さで、顔も体も丸い感じの一生懸命という言葉が似合いそうな娘だった。
彼女は鈴木と名乗った。
場所がら、様々な勧誘やキャッチセールスがあるため、晴美はいつもなら通り過ぎてしまうのだが、彼女が言った「今が変わり目のチャンス」と言う言葉に思わず立ち止まってしまった。
彼女は矢継ぎ早に
「今、どのような運勢を掴むかによって、あなたの永遠が決まる時ですね。何か思い当たることはないですか?」と捲し立ててきた。
「漠然と結婚については考えていますけど…」
「あ~、やっぱり。お相手はいらっしゃるんですか?」
「いえ、まだ。」
「やっぱり凄い転換期ですね、お顔に出ています。あなたにとって理想の相手と出会うチャンスが来ていますね。」
鈴木の言葉は何故か晴美の気を引きつけた。
「この近くに、私が大変お世話になっている姓名判断の先生がいらっしゃるのですが、これから見てもらいに行きませんか?」
直ぐに家に帰らなければならないという事でもない。占いで結婚の時期や相手が分かるなら…
晴美は鈴木と一緒に二つ先の駅にあるという鑑定所に行くことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます