締め切り

くにすらのに

締め切り

「それでは締め切りを一日延ばします」


「え?」


 漫画家以外のどんな仕事にも締め切りは存在すると思う。売り上げの報告だったり、営業の件数だったり、締め切りがあるからその日までに頑張って終わらせる。

 締め切りがなければだらだらと永遠にクオリティアップを盾に作業を進められない。


 そんな締め切りにも段階があって、この日を守れば余裕で印刷できるライン、この日までならどうにかなるライン、実はこの日までなら無理をすればギリギリ間に合うラインと三段階くらいある。


 僕はその三段階目、この日を過ぎれば絶対に間に合わないという締切日を迎えてなおネームすらできていなかった。


「締め切りは明日です。また同じ時間に伺いますから原稿お願いしますね」


 昨日まで口から炎でも吐きそうな勢いでギャーギャーと原稿はまだかと騒いでいた担当編集の沢田さんがなぜかおとなしい。しかも締め切りを一日延長してくれた。


「ちょっと待って! 明日じゃ間に合わないんじゃ」


「大丈夫です。編集長の許可も取ってます。先生は作業に集中してください。アシスタントさんも先生の指示を待っているみたいですよ」


「ああ、うん。ありがとう」


 妙な違和感を覚えながらも沢田さんの言うことはもっともだ。僕がネームを描き上げなければ作業は始まらない。っていうかネームもまだなのにあと一日でどうにかできるかはひとまず置いておこう。


「それではみなさん、芦田先生をよろしくお願いします」


 メガネをクイっと上げてアシスタントのみんなに挨拶をする姿はまるで歴戦の秘書みたいなたたずまいだ。

 タイトスカートから伸びる脚がいつも以上に長く美しく見える。


「任せてください! 先生は寝かせませんから」


 気合い十分に沢田さんにアピールしたのは半年前からアシスタントに入ってくれている榎本くん。

 がっしりとした体格と太い二の腕を見た時は来る場所を間違えたんじゃないかと思ったほどだ。


 ゴリゴリの体育会系でありながら可愛らしい女の子の日常系漫画を好む根っからのオタクで、豪快な性格とは裏腹にとても繊細な絵を描く技巧派だ。

 最初は主に背景を任せていたけど人物も上手ですでにいろいろ任せている。


 問題は日常系作品が好き過ぎてプロットが単調になりがちなところ。この美麗な作画は尖った原作で活きると思うので、今後良い原作者の先生がいたら引き合わせてみたいと考えている。


「なんなら私が連載を持って先生をアシスタントにしちゃいます」


 僕をアシスタントに据えようとするのは二年以上の付き合いがある根津さん。

 寒い日も暑い日もロングスカートを履いていることに気付いたのはつい最近で、おっとりした雰囲気と長く艶やかな髪は文学少女を思わせる。


 ただ、それはあくまでも外見の印象で、話し方はその外見イメージと合っているのに発言内容は下剋上を狙っているのがありありと伝わってくる恐ろしい子だ。


 その向上心は作風にも表れていて、勢いのあるシーンを描かせたら右に出る者はいない。口には出さないけどたぶん僕よりもうまい。下手に褒めるとこのスタジオを乗っ取られそうだから褒められないというのもむずがゆい。


「榎本さんと根津さんがいれば安心……とは言えないくらい先生は締め切りを守ってくれないですよね。本当に早く二人に連載を持ってもらって、先生にはアシスタントに回ってもらいたいくらいです」


「恐いこと言わないでくださいよ沢田さん」


 ごまをすりながら頭を下げる僕を見て沢田さんはフッと鼻で笑った。

 漫画は漫画家がいなければ生まれない。言わば作品の神とも言うべき存在。

 そんな神も締め切りが近付けば……というか実際にはもう過ぎている。そうなれば担当編集に逆らえなくなる。

 きっと神を超えたこの時間を楽しんでいるに違いない。

 だって締め切りを伸ばしてくれたんだもん。神様以外の何者でもないよ。


「それではまた明日。よろしくお願いします」


 沢田さんは僕が締め切りを守ると信じているかのように一切振り返らずスタジオを後にした。

 彼女の期待の応えるべく机に向かいネームを練ること一時間、二時間……。

 自分流のアイデア捻出法であるおしっこ我慢を使っても焦りだけが募っていく。


榎本くんと根津さんには隣の部屋でひとまず仮眠を取ってもらうことにしたところまでは記憶があって、気付けばまた世界は明るさを取り戻していた。


「なるほど。では締め切りを一日延ばします。編集長の許可は得ています」


「あの、沢田さん。締め切りを伸ばしてもらって言うのもおかしな話なんだけどさ、明日原稿が上がっても明後日の発売には絶対間に合わないよね?」


 よくよく考えると今日原稿が上がったとしても雑誌の発売には間に合ってない。締め切りが延びたのではなくすでに原稿を落としていたんだ。

 ずっとこもり切りで仕事をしてるから曜日感覚が狂っていた。


「そうですね。最初に設定した締め切りがどんどん延びていって、今は先生から握ている状態です。締め切りに追われるのではなく追う気持ちはいかがですか?」


「いかがですかと言われても」


 実際に締め切りと鬼ごっこしてるわけでもないし、状況としては何も変わらない。昨日はすごく追い込まれてる感じがしてたけど、原稿を落としたとわかれば開き直るしかない。

 来週号に間に合うように今から頑張ろうという気持ちだ。


「私は今まで先生を締め切りで追い込んできました。でも、それだけじゃダメだって気付いたんです。漫画家は常に走り続けなければならない。だけど後ろから追い詰められて生まれる作品はおもしろいでしょうか? やはり前を向いて、目標に向かって生まれる作品こそ至高なんじゃないかって」


「とにかくごめん! 次は締め切りを守るから!」


「次? 次なんてありませんよ。まだ先生は締め切りに追い付いていないじゃないですか。明日が締め切りです。この締め切りに追い付かないと次の締め切りは現れません」


「ああ、うん。わかった。明日だな。明日までにどうにか」


「はい。よろしくお願いします」


 こんなやり取りを何度繰り返しただろうか。ネームは全然描き上がらずアシスタントにも休んでもらっている。

 結局翌週も原稿を落とし、体調不良でしばらく休載するということで話を付けてもらった。沢田さんにはいよいよ頭が上がらない。


「どうですか先生。進捗は」


「全然ダメだ。榎本くんも根津さんも読み切りが好評だっていうのに」


「先生が原稿を落としたから二人の読み切りが掲載されたんですよ。複雑な心境かもしれないですけど素直に喜んであげましょう」


「はぁ……しばらく休載ってどれくらいなんですか? なんだか締め切りがないと張り合いがなくて」


「念のため期限は明言しないでおきました。一か月でも一年でも、先生が描けるその日まで」


「一年も休んだらさすがに忘れ去れるだろ! 看板作品ってわけでもないのに」


「そしたら……ふふ、先生が締め切りを追いかけるしかありませんね。どこかに行ってしまった締め切りを」


「そうか! 自分で締め切りを作ればいいんだ。よし、一週間だ。一週間でまず一話。それから毎週一話ずつちゃんと完成させるぞ」


 壁に駆けてあるカレンダーの毎週水曜日に赤丸を付ける。水曜日に提出すれば印刷も余裕で間に合う第一の締め切りだ。絶対に逃がさない。

 

 少し前は憎らしくて仕方なかった締め切りが今では待ち遠しいくらいだ。水曜日までに原稿を上げられるかの勝負。

 これは僕と締め切りの競争だ。逃げずに待ってろよ締め切り。


「先生はきっと疲れていたんですよ。私が担当になったばかりの頃はこんな風に燃えていました」


「そうだな。忘れかけていた漫画への情熱を思い出したよ。ありがとう! うおおおおお!! どんどんアイデアが湧いてくる。沢田さん、プロット作りの相談いいかな?」


「もちろんです」


 その日は一晩中沢田さんと漫画について語り合った。気付けば外は明るくなっていて締め切りまで一日近付いていたけど、不思議と以前のような焦りはない。

 僕はもう逃げないと決めたから。


***


 という夢から覚めるとワイシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。

 手足を縛られ身動きが取れない緊張感の中でも疲労が溜まれば眠りに落ちる。こんな状況で見る夢というのはろくなものじゃない。


 学生時代は漫画家を夢見たことはあったけどすぐに挫折して今はしがない会社員だ。漫画との関わりはアプリで無料の連載を読むくらい。


「どこのどいつなんだよ」


 口は塞がれていないので大声で助けを呼んでみたりもしたが誰にも気付いてもらえず、犯人すらこの部屋に入ってきた様子はない。

 このまま少しずつ衰弱して一人で死ぬのを待つだけなのかと考えるとそれだけでさらに気が滅入ってくる。


 芋虫のように体を前後に動かしてちょっとずつ締め切られた部屋を探索してみてわかったのは、本当にこの部屋には何もないということ。

 扉には外から鍵が掛けられていて中からは開けられない。監禁するために作ったとしか思えない趣味の悪い部屋だ。


「……漏れそう」


 どれくらいの時間ここに監禁されているかわからないけど体は正直なので生理現象は勝手に訪れる。

 水分も摂取していないし汗もかいたとはいえ、それとは別に出てくるものは出てきてしまう。


「すみませんーん。漏らしますよー。部屋汚れますよー」


 こっちが犯人を脅迫してやると息巻いてみるものの扉が開く気配は一切ない。

 そもももカメラも付いているようには見えないから部屋の状況を監視しているのかもわからない。


「人間としての尊厳が……」


 一度意識してしまうとそこから我慢を続けるのは難しい。近くにトイレがないというのも心理的に追い詰めている。


「もう……無理っ」


***


「マジか」


 彼氏のベッドでおねしょとか。私、三十路一歩手前だぞ。

 黄色いシミができたシーツを見て頭を抱えた。


「監禁されてる夢を見てたけどさ」


 どうしてあんなことになったのか全く意味のわからない夢。これって夢占い的にどうなんだろ。あとで調べてみよ。


「って、そんなこと考える場合じゃないね」


 幸いなことに彼氏はまだすやすやと寝息を立てている。マッチングアプリで知り合った年下の彼氏。ちょっと頼りないところが可愛かったりする。

 

「……拓哉のせいにするか」


 うん。それでいこう。拓哉が漏らした。まったく、いい歳した大人が子供みたいなんだから。そんなお子ちゃまな拓哉くんは私のおっぱいに甘えてね。完璧な作戦だ。男はおっぱいの前では無力。


「っと、支度しないと」


 今日は私だけ仕事なのでシャワーを浴びて軽くメイクをして、スーツに着替えた。

 朝シャワーの習慣があって助かった。今日ばかりはシャワーを浴びないと大変なことになってしまう。


 バタバタと支度しているのに彼氏は起きる気配がない。だけど休みの日に起こすのも忍びなくて、ほっぺに軽くキスをした。


「いってきます」


 これでも起きなければ仕方ない。私はおねしょ現場から逃げるわけではない。出勤するだけだ。


「そういえば先生、トイレを我慢してアイデアを出すとか言ってたっけ」


 先生理論だと今の私は何のアイデアも出ないポンコツ編集者だ。


「キャラ変して締め切りに甘い担当になったけど、あんまり効果なさそうなんだよね」


 編集長には体調不良ということで納得してもらったけど、この言い訳でいつまでしのげるかはわからない。

 押してダメなら引いてみろ理論は先生には通じなかったみたいだ。


「ああ、そうだ。監禁される夢……ストレスにさらされてる。当たってるじゃん」


 担当している漫画家が全然原稿を出してくれない。私にもその責任の一端はあるかもしれないけど主に悪いのは漫画家だ。

 

「逃げ出したい……仕事から」


 この時の私はまだ気付いていなかった。現実だけでなく夢の中でも漏らしていたことに。幸運の兆しがすぐそこまで近付いていることに。

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