柏恵美の理想的な殺され方
さらす
第1部
第1話 『獲物』・1
その人は僕の前に突然現れたわけではなかった。朝の通学路でたびたびその姿を見たことがあるし、去年は僕が通う中学の制服を着ていた記憶がある。名前もどこかで聞いた。
だが一度として話したことはなかった。そもそも同じ学年ではなかったし、僕は部活に所属していないので、上級生や下級生とは滅多に関わらない。
それでもその人は、この辺りの公立高校では、一番の進学校と言われる学校の制服を着たその人は、ある日突然、僕こと
「はじめまして、君の名前は知っているよ。棗香車くんだね?」
どこか妖艶な微笑みを浮かべながら、柏さんは僕に近づいてくる。
「私が一方的に君を知っているのは不公平だ。自己紹介をしようか」
そう言って、柏さんは僕の足元に跪いて――
数時間前。
僕は通っている中学の教室で授業を受けていた。午前中の授業が終わった直後の昼休み、友人の
「なあ香車、お前SかMかでいったらどっち?」
彼らしい、いきなりの遠慮のない質問に思わず動揺する。
「……なんてこと聞くんだよ教室で、女子もいるんだよ?」
「おいおい、いまどきの女子がこの程度の話題で恥ずかしがるかよ。どちらかというと女子の方がそういう話題をしていそうだぜ」
「僕は女の子には幻想を抱きたいんだよ」
正直、それは本音だ。内心では
「で、俺の質問の答えは?」
幸四郎が急かしてくる。僕としては答えたくなかったが、こういうときの幸四郎は引かない。少し考えてから答えることにした。
「……S、かな」
「はい、ブブー。そんな答えは認めません」
幸四郎は大げさにリアクションを取り、僕の答えを否定した。
「な、何で!? この質問に正解なんてないでしょ!?」
「香車みたいな小動物系がSとかちゃんちゃらおかしいでしょ。大方、Mだって認めるのが恥ずかしいからSって答えただけだろ?」
「なんでそうなるのさ!」
幸四郎の言った、小動物系というのは少なくとも外見に関しては当たっている。同年代に比べて小柄ではあるし、色白で声変わりもまだだ。そのため、かっこいいよりもかわいいと言われたことの方が多い。僕自身はそれを否定したいところだが。
「でもなぁ、香車よ。お前に首輪つけて飼いたいって話していた女子がいたぜ?」
「この中学にそんな危険人物が……?」
「その数、35人」
「
それが事実だとしたら、僕の未来は危うい。
「ははは、冗談だよ。だけど、そんな話をしていた女子は本当にいたぜ?俺もお前には首輪が似合うと思うけどな」
「僕は……そんなに扱いやすそうに見えるの?」
「なんていうか、庇護欲をそそるっていうの? 香車は受身すぎるんだよ」
幸四郎の言葉に僕はドキリとする。引っ込み思案なのは僕が気にしていることの一つだ。彼はたまに核心を突くから、侮れない。
「あーあ。それにしても、もう秋なのか」
幸四郎がため息をつく。
彼の言うとおり、カレンダーはもう10月になり衣替えも終わった。彼の憂鬱の原因は、僕と同じだろう。二年生である僕達が三年生になるときが近づいてくる、受験という言葉が重くのしかかる、三年生に。
「幸四郎は成績が良いんだから、あまり気にすること無いだろ」
「成績? あんなもん、将来が面倒にならないために良くしているだけだ。受験に内申点がいらないなら、目をつけられない最低限の点数でいいんだがな」
軽薄そうな幸四郎だが、その実彼は将来のことをよく考えている。
『面倒なことを避けた先には、より面倒なことが待ち構えている』
この言葉を口癖のように言っている彼は、将来面倒なことにならないために成績を上げて、進学校に入ろうとしているし、成績の良さから多少の軽薄な言動も先生たちには黙認されている。目先の面倒さに囚われず、長期的に考えることが出来るのは彼の長所だと思う。
「で、小動物系の香車くんは平均点ぐらいだと」
幸四郎の言うとおり、僕の成績は悪くはないが、決して良くもない。
体育はそれなりに出来るが、それも本格的にスポーツをやっている人には及ばないし、他の教科は勉強してはいるものの、上位には入らない。
「はぁ……」
さほど、将来について考えていない僕は、憂鬱な気分を抱いていた。僕が何もしなくても時間は進む。今のこの時間は永遠ではないのだ。
「ま、先のことばかり考えてもしょうがない。今も楽しまないとな!」
僕の気分が沈むのをみた幸四郎が、話題を変えてくれる。
今を楽しむかあ……僕にとっては今が気持ちよければそれでいいのかもしれない。先のことを考えるのは難しい。
放課後。
幸四郎の提案で、カラオケに行くことになった僕たちは校門を出て、市街地の方へ向かう。
「あ……」
途中でこの辺りの公立では一番の進学校と言われている高校、県立M高校の校舎が見えてくる。
「幸四郎はここに入るのかな?」
僕はそれとなく聞いてみた。
「どうだろうな。確かにここに入れば選択肢は広がるだろうが、ただ進学校というだけで選ぶわけにはいかないな。どの分野の進路に強いのかを考えないと……」
やはり幸四郎は将来に対しては慎重に考えるようだ。
その時、高校の校門の前にいた、女生徒らしき人が動いた。高校の制服をきっちり着こなし、首元までの髪がかすかに靡いている。その女生徒はこちらをまっすぐと見据え、どこか妖艶な微笑みを浮かべながら近づいてくる。
「あ、あれ、あの人こっちに来るよ?ジロジロ見てたから怒ったんじゃ……」
僕が慌てていると、女生徒の顔がはっきり判別できるくらい距離が縮まっていた。その顔に見覚えがあった。僕の二つ上の学年にあたる、うちの中学の卒業生だ。通学路でたまに見かけるが、話したことはない。だから、あちらが僕に用などあるはずがない。それでもその人は話しかけてきた。
「はじめまして。君の名前は知っているよ。棗香車くんだね?」
女性としては低めの、よく通る声で話しかけられる。
なぜ知っているのかを問う前に、女性は次の行動に出ていた。
「私が一方的に君を知っているのは不公平だ。自己紹介をしようか」
そういって女性は……僕の足元に跪いた。
「私の名前は柏恵美。君の、第一の犠牲者だ」
名前を知られていたことも、跪かれたことも、その言葉の衝撃には及ばなかった。
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