第41話 凜風だけは、お前の記憶に住まわせてやってくれ
午後一時。僕は基隆のヨシオさんの自宅を訪れていた。僕とヨシオさんは庭のベンチに隣同士で腰掛けていた。
「そうか。凛風は、事故ではなかったのか」
「まことに申し上げにくいのですが、そのようです」
「よくぞ真相を突き止めてくれた。お前の働きのおかげで、凛風も浮かばれるだろう」
「いや、僕は陽の助手っていうか、動画編集を手伝ってただけですよ」
「そうか。だが、ありがとうな」
ヨシオさんが口籠ると、僕は何も言えなくなった。おずおずと顔を覗き込む。
『ヨシオさん。妙な事考えてるんじゃない……ですよね』
「仇討ちか? 仇は自害していたではないか。もし生きていたら、俺がこの手で腹を裂いてやったものを」
ヨシオさんは膝の上で拳を握り締める。骨ばった手に青い筋が浮いた。ふとヨシオさんが僕に目を向ける。
「貴様が気に病む事はない。同じ日本人だが、貴様らが悪い訳ではないだろう。まったく、すぐに罪悪を感じるのが日本人の情けないところだ」
「また、言われちゃいましたね」
僕は苦笑して誤魔化した。そう。僕の悪いところだ。
ヨシオさんは「ああ、忘れるところだった」と思い出したように、ポケットに手を入れた。
「受け取れ。約束の物だ」
ヨシオさんが拳を突き出す。僕が手のひらを差し出すと、ヨシオさんは拳を開く。僕の手にひやりとした感触が伝わった。
「これは……」
「凜風の遺品だ。火事場に焼け残っていた物だ」
シルバーのブレスレットだ。細かいリングを編んだだけのシンプルなデザイン。飾り気のない凜風らしい嗜好だ。
「瀬里加という子と約束したのだろう。凜風の形見分けをしてやる、と」
なかなか粋な事を考えおる、とヨシオさんは微かに口元を緩めた。
「凛風の同居人だったか。凛風の死の真相を突き止めるために、わざわざ日本から来てくれたのだろう。きっと凛風にとっても大切な友人だったはずだ」
全ては瀬里加が僕らの所に来た事から始まった。瀬里加の愛と悲しみが僕らを動かし、真相まで辿り着かせたのだ。瀬里加にとっては悲しい愛の物語。
「晴人、お前が渡してやりなさい。任せたぞ」
ベンチに掛け、杖を支えに背筋を正すヨシオさん。長いため息をついた。一仕事終えたような充足感と、何かが終わったような喪失感を含んだ吐息だった。
「大切に想ってやれよ。お前の花嫁の凜風は、俺の分身だ」
「分身、ですか」
僕はヨシオさんを横目に聞き返す。
「あの子には、今の若者ない精神が宿っていた。不屈の日本精神だ。まあ、俺が色々と教え込んだのだがな。かつて日本人として育ち、台湾人として運命に抗った俺たち。凜風は、俺たちの精神を受け継いだ数少ない子供だ」
凜風がデモ活動に参加している画像を思い出した。
「日本語世代は俺たちが最後だ。もう十年もすれば、日本精神を叩き込まれた台湾人はいなくなる。しかし凛風は、俺たちのような鉄の精神を持っていた。俺にとって、凜風が最後の希望だった」
額から血を流しながらも、必死に何かを訴える姿。そしてあの強い意志の瞳。あの子はもう、この世にない。
「ここは中華民国でもチャイニーズタイペイでも、ましては大日本帝国でもない。台湾という国家だ」
ヨシオさんは固く杖を握り締める。
「台湾は『台湾』という国名で連合国(国際連合)に加盟する。そうすれば世界が認める独立国家となる。日本とは真の兄弟として手を取り合い、アジアの発展のために歩む。俺は、そんな未来を夢見ていた」
ヨシオさんは空に目を細める。スコールを呼ぶ巨大な積乱雲が青空にそそり立っていた。
「俺は、もう長くはない。自分の身体だ、俺が一番良く分かっている。俺には、力も、時間も残されていない」
ヨシオさんは開き直ったように笑み、湯飲みの茶をすする。そしてヨシオさんは零すようにぽつりと言った。
「老いぼれに出来たのは、凛風に婿を紹介してやった事だけだ」
「えっ――」
足元から寒気が這い上がってくる。冷たい大蛇に巻き付かれたように血液が冷えてゆく。
「すまんな晴人。今まで黙っておって」
「……まさか、あの冥婚は」
静かに頷くヨシオさん。そして言い切った。
「亡くなった孫を日本人と位牌結婚させたい――。そう俺が依頼したのだ、あの山名という便利屋に」
「陽が……」
ヨシオさんは静かに頷いて続ける。
「凜風も本望だろう。それに俺は日本人の祖父になれた。血の繋がりはなくとも、日本と家族に戻れたのだ。およそ八十年の時を経て、俺は日本人の先祖になったのだ」
思い返せば、僕の冥婚は不自然な点が多かった。
凜風の実家は基隆市なのに、なぜか数十キロも離れた台北に紅包が置いてあった。そもそも紅包を道端に置く風習など、現代ではほとんど見掛けない。
それを日本から来たばかりの僕が拾った。偶然にも凜風は大の日本好きで、さらにヨシオさんは日本統治時代育ちの親日家。
「じゃあ僕が台湾に来る前から、ヨシオさんと陽がメールのやり取りをしていたのは……」
「お前と凜風を夫婦にするための段取りを立てていたのだ。山名陽は、お前を凜風の夫に、と紹介してくれたという訳だ」
そのために僕は台湾まで呼び出されたのか。
外国人の僕は風習を理解しないから、頼まれても簡単には死者との結婚を承諾しないだろう。だから現代では廃れた昔ながらの方法で冥婚を成立させようとした。
「もしかして、ヨシオさんは初めから陽を知っていたんですか」
「台湾在住の日本人YouTuberなら大概知っておるわ。もちろん『陽ちゃんの闇CH』も登録済みだ」
ヨシオさんは僕にスマホを見せつける。しっかりとチャンネル登録されていた。
何も知らなかったのは僕だけだ。
僕は龍山寺の広場のベンチに座らされ、足元に仕掛けられた紅包を拾うよう仕向けられていた。全ては陽とヨシオさん(もしや宗傑さんたちも)の計画通りだった。
あのキッチンにあった大金も謎が解けた。陽はヨシオさんから謝礼を貰い、さらに僕の冥婚をYouTube企画のネタにもした。ちゃっかり稼いでいる。
「しかし初めてお前を見た時、ガッカリしたぞ。若く精悍な日本男児が婿に来ると思ったら、お前のような軟弱者だったからな」
「悪かったですね」
眉を寄せる僕。しかしヨシオさんは満足げな笑顔で続ける。
「だがな、お前は面白い奴だ。呼び出せばすぐに来るし、俺が倒れた時も心配して飛んで来おった。それに凜風の真相も突き止めてくれた。義理堅さは日本男児として認めてやろう」
「いえいえ、そりゃどうも」
「その義理堅さを買って頼みがある。劉凜風を、どうか忘れないでほしい」
絞り出すような声。ふと僕はヨシオさんを覗き込む。
「人は二度死ぬ。一度目は肉体が滅びた時、二度目は皆から忘れられた時。俺は沢山の死に触れた。二・二八事件で殺された兄、白色テロの弾圧で処刑された父、黑社會の抗争で殺した外省人、粛正で手に掛けた仲間たち。そして志半ばで若い命を奪われた凜風。みんな覚えている。俺が覚えているから、彼らは二度目の死を迎えずに存在する。この世に
大きなため息をついたヨシオさん。呼吸の尻が掠れて震えた。
「俺が一度目の死を迎えれば、多くの魂が二度目の死を迎えてしまう。父も兄も、この世から存在が消えてしまう。鉄の意志を持って台湾のために戦った男たちが、歴史から消えてしまう」
だからせめて、とヨシオさんは僕を一瞥する。
「凜風だけは、お前の記憶に住まわせてやってくれ。死ぬまでとは言わん。二十年、十年でも良い。未来のために命を懸けていたあの子を、少しでも長く、この世に留めてやってくれ。頼む」
深く頭を下げるヨシオさん。僕は俯いた。
「初めての海外旅行でドッキリまがいの結婚をしたんだ。忘れられるワケないでしょ。凜風さんの事、ヨシオさんの事だって、一生忘れられませんよ」
その時、ヨシオさんの瞳に涙が滲んだ。顔を隠すように肩を竦めたヨシオさん。僕はその皺だらけの手を包むように握った。
「ヨシオさんが話してくれた事、苦しんだ事、願った事、戦った事、全部忘れません。ヨシオさんと同じ、日本人として」
きょとんとしたヨシオさん。すると「この野郎、言いおるわ!」と豪快に笑って、涙を親指で弾き飛ばした。
「おい晴人。ちょっとコレ被ってみなさい」
ヨシオさんはベンチの脇から何かを取り出す。戦闘帽だ。
星の紋章が入った旧帝国陸軍の支給品。恩人である日本兵にもらった帽子。ヨシオさんの宝物だ。
「い、いや。ダメでしょそれは」
そんな大切な物を、ヨシオさんは僕に被せた。にやりと笑みを浮かべてiPadのカメラを起動させ、僕を連続撮影する。
「全然似合っとらんな、貴様は――」
ヨシオさんは僕を『お前』でなく『貴様』と呼んだ。
後で知った事だが、貴様というのは対等もしくは目下の者に対する親しみと敬意を込めた呼称だった。今となっては罵りの意味合いが強くなっている。原因は旧日本軍のしきたりだという。上官が「貴様ァ!」と怒鳴っては部下を鉄拳制裁しまくったからだ。
「またいつでも遊びに来い。俺と貴様の仲じゃないか」
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