第35話 歹勢、歹勢
翌朝、騒がしい台湾華語で目を覚ました。
目蓋を開けると、陽が忙しなく部屋を歩き回っている。電話しているらしい。大袈裟な身振りは陽が焦っている時のクセだ。
陽は「明白了」と電話を切る。髪をくしゃくしゃ掻いた。
「何かあったの。朝っぱらからイライラして」
「あの野郎、今まで隠してたらしい」
僕は苛立っている陽に目を細める。
「隠してた?」
「あのアパートの管理人っしょや」
陽は手のひらにバチンと拳を当て、不機嫌そうに舌打ちする。
「事件当日の防犯カメラの映像が残ってるんだってよ。ちきしょう。こないだ聞き込んだ時は、そんなの言ってなかったじゃんか」
「何で今さらになって、急に」
陽はスマホを置き、向かいのソファーに腰を落とした。
「ウチがアキラの友達だって分かったからだべ。あのアパートは
僕は寝ぼけ眼のままスクーターにまたがって陽にしがみつく。
相変わらずの乱暴運転で発車した。通勤ラッシュで渋滞する車の間をすり抜けて走り、三十分もしないうちに
「てめえっ、回りくどい事させやがって!」
一階の管理人に掴みかかる陽。Tシャツの胸元が千切れそうなほど伸びている。
管理人は「
「急に愛想良くなりやがって。ほれ、映像見せろ」
管理人は僕らをカウンターの内側へ促した。陽はモニターの前に胡坐をかく。映像はハードディスクに保存されているようだ。
八月十一日の映像を立ち上げた。凜風が死んだ日の映像だ。
映っているのは四階の廊下。他のフロアと同じく、柵に洗濯物や靴が引っ掛けてある。観葉植物や自転車など、雑多に物が放置されていた。凜風の部屋は手前のドア。
陽がリモコンで早送りする。するとエレベーターに誰かが乗り込んできた。若い女だ。そこで陽は映像を止める。
「こいつ。リザか」
動いている姿は初めて見た。キャップ帽で目元が影になっているが、口元は写真で見たすっきりした輪郭が一致する。
「ああ、彼女が劉凜風だ」
ボーダーのタンクトップに白いシャツを羽織っている。白い手首にブレスレットが輝く。細い腕に大きなビニール袋を提げていた。袋には
四階で降りた凜風。やや早足で廊下を進み、部屋の鍵を開けて入った。この時点でカウンターは午後一時を示している。
「もうちょい先だべさ」
再び陽は早送りする。そして午後二時四十分あたりで止めた。火災発生の、およそ三十分前。
「ストップ。誰か来た」
玄関に誰かが入ってきた。男だ。やや小太りで猫背、スマホを片手にキョロキョロしている。住所を確認しているのか。
管理人は男を一瞥しただけで咎める様子もない。男はカウンターを素通りしてエレベーターに乗り込む。
「この管理人、これがあったから映像を出し渋ってやがったか」
管理人は気まずそうに肩を竦めた。職務怠慢だ。もしこの管理人が一声かけていれば、事件は起きなかったかもしれない。
男はエレベーターで四階まで昇り、スマホとドアの部屋番号を見比べながら廊下を進んでゆく。そして凜風の部屋の前で足を止めた。
「こいつ、誰だ」
三十代半ばから四十代くらいか。カーキ色の地味なハーフパンツに大きめのTシャツ。縁なしの眼鏡を掛けている。地味な男だ。
男は凜風の部屋のインターフォンを押した。ドアスコープから身を外して立っているように思える。そしてドアが開いた。
凜風が部屋から顔を出す。男と目が合った。
その瞬間、凜風はドアを閉める。男は素早くドアノブを握るが、鍵を掛けられたのか開かない。男は荒っぽくドアを叩いている。
「何か、言ってるな」
男の口が動いている。音声は入っていない。そのまま三分ほど経過する。その間、男は説得するように何かを言ってノックしていた。
男はノックを止めた。ポケットに手を入れた、次の瞬間。
「えっ、マジか!」
男は鍵を取り出してドアに差し込む。
いとも簡単に鍵が回り、ドアが開く。男は自宅にでも帰るように堂々と中へ入っていった。
初めから、合鍵を持っていた。
男がドアを閉めると、映像は時間が止まったように普段の廊下を映すだけ。この部屋の中で何が起こっているのか。
午後二時五十一分。もうすぐだ。
「晴人、心の準備は出来たべか。早送りするぞ」
僕が頷くと、陽はリモコンのボタンを押す。十秒二十秒とカウンターはみるみる進んでいった。
するとドアが薄く開く。
「止めて、出てきた!」
さっきの男が出てきた。
男は急いでドアを閉めて鍵まで掛けた。そして小走りに廊下を駆けてゆく。
「陽。この人、なんか様子が変だよ」
エレベーターに乗り込んだ男はしきりに左手を気にしている。手の甲を押さえて表情を歪めていた。怪我でもしたのか。
三分後、ドアの隙間から白煙が漏れ出す。火の手が上がった。隣の部屋の住人が廊下に飛び出し、逃げるように階段を駆け下りてゆく。やがて廊下は白煙で埋め尽くされた。
「どう思うべか晴人」
出火元は凜風の部屋。この辺りは道が狭い割に人通りも多く、消防車の到着が遅れた。炎が消し止められるのは三十分後になる。その結果、最上階である四階フロア中に延焼する大被害となった。
同アパートの近隣住民に怪我はなかったが、凜風は焼死体となって発見される。
「信じたくなかったよ。だけどやっぱり、凜風さんは」
殺されてから火を点けられた。もしくは生きたまま焼かれたのか。どちらにせよ惨たらしい最期だ。僕らはその瞬間を見てしまった。
「犯人は映像のデブで間違いなさそうだべ。しても何者なんだ」
管理人は男が来た時も帰る時も咎めなかった。つまり見た目からして不審者というわけではないらしい。しかし映像に残っていた凜風は、男の顔を見た途端ドアを閉めて部屋に逃げ込んだ。
つまり凜風は男と顔見知りだった。
「あの男もしかして、前に言ってた共産統一推進党がらみの人じゃないかな」
凜風は独立デモの扇動者として統一派から目を付けられていた。しかも日桃幫の幫主、
「鍵も手に入れてたしさ。準備が入念だと思わない?」
「プロにしたら雑なんだべ。現場に火を点けるとか、目立ちすぎるし。しかも自分も手を火傷してたし」
推進党に与するマフィアでなく、過激な統一支持者による犯行かもしれない。陽は映像をもう一度再生し、画面に指を置いた。
「たぶん、このタイミングだろうな」
男の顔を見て、凜風が慌ててドアを閉めたシーン。そこで陽は映像を止めた。カウンターの時間を凝視している。
「このタイミングって?」
「例の『助けて』だよ」
陽は爪の先でモニターを叩く。Facebookの投稿の件か。
「したら不自然だべ。この切羽詰まった状況で、なして日本語で書いてんだ。てか普通SNSじゃなくて警察だろ」
陽は防犯カメラ用モニターからSDカードを抜き取り、持参したMacBookに映像をコピーする。
そしてカウンターに腰掛け、スマホを耳に当てた。
「おお。ちょっと聞きたい事があんだけど――」
電話の相手はアキラらしい。
「アンタ偽欣怡を探してる時に、ここらのホテル色々と確認したんだろ。その時にさ、日本人が泊まってる所ってどれだけあった」
そこから陽は日本語と台湾華語を交えて何やら話し始めた。
「オッケー。ちょっくら当たってみるわ」
そう言って陽は通話を切った。
僕らは管理人に映像提供の礼金を払って、アパートを出た。陽はスマホで地図を確認しながらスクーターにまたがる。
「どこ行くんだよ」
僕が駆け寄ると、陽はヘルメットを差し出した。
「八月上旬から日本人が連泊してるホテルがあるんだとよ。しかも男が一人で。確証はないけど、調べる価値はあるべ」
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