第33話 大丈夫さ。晴人の未来は、ウチが守る

「ごちそうさま。ああ、美味しかった」

 二人で一パックの肉を平らげた。気が付けば缶チューハイも二缶も空いている。少し頭に霧が掛かった感覚があった。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 僕が立ち上がると、陽も「ちょっと待って」と席を立った。

「もう帰るのかよ。もう一杯ぐらい一緒に飲もうぜ」

「いや、さすがにこれ以上はダメだよ」

 そこまで言って、僕は言葉を止めた。

 テーブルの隣に立った陽。背景には薄暗い居間。そこには陽しかいない。この暗い家に、登場人物は陽だけ。僕が帰ると、陽はこの家で一人になる。彼女の笑顔が悲しかった。

「ご、ごめん。帰ったら電話するよ」

 僕は陽の笑顔から逃げるように出ていった。

 玄関ドアを閉め、経年劣化でひび割れた廊下を足早にゆく。陰気で薄暗い団地だ。こんな所で陽は暮らしているのだ。

「雪の積もらない南の国か。グアムとかかな」

 陽はこの場所から抜け出したがっている。僕も陽と一緒ならどこへ行っても良いかな、と思っていた。いつか二人で、誰も知らない場所で生きてゆくのも悪くない。

 階段に差し掛かった時、誰かとぶつかった。

「ご、ごめんなさい!」

 中年の男と肩がぶつかった。

 ずいぶん酒臭い。男は僕を一瞥したかと思うと、舌打ちして睨みつけてくる。無精ひげが口周りに生えていて、身なりも小汚いスウェット姿。この薄汚れた団地によく似合っている。

 男は不愉快そうに去っていった。僕はしかめ面で男の背中を眺めている。その男は奥の部屋の前で足を止めた。陽の家だ。

 あの男が陽の新しい父親だったのか。

 酒臭いし、昼間から飲んでいたのだろう。しかもタバコ臭い。典型的なダメな大人という感じだ。早く陽があの男から自由になれますように。

 僕は階段を駆け降りた。振り返ると陰気な団地が僕を見下ろしている。大人になったら陽をここから連れ出してあげよう。それが僕の目標になった。

「あ、しまった……」

 十分ほど帰路を歩いて気付いた。携帯電話がない。

 きっと陽の家に忘れてきてしまったのだ。取りに戻ろうかと思ったが、ふと足が止まる。

 今あの家には義父がいる。あの粗暴そうな中年男だ。戻ったところで、ぶつかった事に因縁をつけられても嫌だ。携帯電話は明日取りに行けば良いか。

 しかし陽には「帰ったら電話する」と約束している。これは取りに戻るしかなさそうだ。僕は深呼吸して踵を返した。

 重い足取りで階段を上がり、陽の部屋の前で立ち止まる。ドアが重そうに見えた。

 僕はチャイムを鳴らして陽を呼び出す。

 しかし反応がない。おかしい。さっきまで陽は家にいたのだ。留守のはずがない。

「おーい、陽ー」

 名前を呼ぶが反応がない。どうしたのだ。

 僕はドアノブを掴んで捻ってみる。鍵が開いている。僕はゆっくりとドアを開き、隙間から覗き込んだ。

「……よ、陽」

 僕は立ち尽くした。

 居間で中年男が陽に覆い被さっている。陽は口唇を血が出るほど噛み締め、目に涙を滲ませていた。セーラー服のスカートをたくし上げられ、下着を脱がされている。

「何、これ……」

 男は夢中になって腰を振っている。毛の生えた汚い尻を上下させ、陽の下半身にぶつけている。

 陽と目が合ってしまった。

「晴人。見ないで……」

 陽が涙をこぼした。陽が、犯されている。

「あ、あ……あああああああああぁぁぁ!」

 僕は壊れた。

 キッチンにあった果物ナイフを手に取り、弾かれたように駆け出す。無我夢中だった。覚えていない。

 気が付けば男の背中にナイフを突き立てていた。

「あ、がぁ……テメェ」

 男は苦痛に顔を歪ませて振り返る。ナイフを抜くと、水道の蛇口のように血が溢れ出した。よろめいて立ち上がる男。充血して硬くなったままの物を股間にぶら下げていた。

 男は僕に掴みかかろうとするが、バランスを崩して畳に倒れる。虫のようにモゾモゾと動いている。僕はナイフを握り締めて硬直していた。

 やがて男は血溜まりで倒れて動かなくなった。

「陽!」

 僕はナイフを投げ捨て、陽に駆け寄った。

 自らを抱きしめるように小さく座る陽。乱れたセーラー服。肩が小刻みに震えている。固く拳を握りしめていた。

「ごめん。晴人。ウチ、この野郎に……汚された。もう晴人に、顔を見せられない……」

 彼女の白い太ももに血が滴っていた。この時、その血の意味は僕には分からなかった。けれども大変な事だとは察せた。

「大丈夫だよ陽。もう大丈夫なんだよ……後は、僕が……」

 ふと両手を見る。血だ。僕の両手が血まみれになっていた。それで僕は思い出した。足元に転がる中年男を見下ろす。

「あ。ああ……あ」

 僕は人を殺した。

 腰を抜かしてへたり込んだ僕。大変な事をしてしまった。取り返しがつかない事をしてしまった。

 畳の上に携帯電話が落ちている。僕のだ。

「……救急車。呼ばなきゃ」

 僕は携帯電話に手を伸ばす。すると僕の手首を陽が掴んだ。

「ダメッ!」

 陽は赤く腫れた目で僕を睨む。瞳の奥に恐怖を押し殺しているみたいだった。

「どうして! まだ助かるかもしれない!」

「ダメだ。そんな事したら、晴人が……」

 激しく首を横に振る陽。涙が畳に落ちた。

「晴人が警察に捕まっちゃうべさ。そんな事になったら、高校の推薦も無くなるし、晴人の人生がメチャクチャになっちゃう……」

「何言ってんだよ、こんな時に。どうして僕の心配なんかするんだよ。じゃあ、どうしろって言うんだ!」

 ふらふらと陽は立ち上がり、血の付いた果物ナイフを拾い上げた。ナイフの柄をスカートで拭っている。

「これで、晴人の指紋は消えたべ。な、晴人。もう大丈夫だよ」

「そんな事したってダメさ……。だってこの人を刺したのは事実なんだから」

 僕は横たわる義父を一瞥する。パンツが脱げ、下半身を露わにしたまま動かない。血の水溜まりに沈んで死んでいる。

「大丈夫さ。晴人の未来は、ウチが守る」

 陽はナイフを逆手に持ち、義父の背中に突き立てた。

「何してんだ陽!」

「ウチが殺した事にするんだよ!」

 そう怒鳴って陽は何度もナイフを突き立てる。義父は僅かに痙攣する。まだ息が有ったのか。

 涙を流しながら僕に笑いかける。

「晴人の人生はキラキラしてんだ。バスケで大活躍して、インターハイも出るべ。こんな事で汚れたらいけねえっしょ」

「駄目だよ。そんな事したら、陽の未来が……。ねえ、もう止めろよ」

「ウチは嫌われ者だし、親からも愛されてねえ。誰からも必要って思われてねえんだ。だから、せめて……晴人の役に立ちたいんだよ」

 僕は俯いて首を横に振る。涙が頬で乱れた。すると陽は返り血で汚れた笑顔を見せる。

「ウチは、晴人の姉ちゃんだ。大丈夫、ウチに任せりゃ……大丈夫」

「たった三ヶ月早く生まれただけだろ……」

 陽が何度も突き刺すうちに、やがて義父は反応しなくなった。今度こそ本当に死んだ。

「ほら、ウチが殺したっしょや……」

「もう止めろよ」

 僕は陽を後ろから抱き締める。いつもの儀式の逆だ。ナイフは義父の背中に突き刺さって折れている。陽は柄を握りしめたままポロポロと泣いていた。

「なあ晴人。お願いがあるんだ」

 何だよ、と僕は彼女を抱き締めて聞き返す。

「ウチを綺麗にしてくれ。汚れちゃったウチを、晴人が綺麗にしてくれよぅ……」

「……わ、分かんないよ。どうすりゃ良いのか」

 すると陽が僕の口唇に吸い付いた。僕は目を見開いたまま硬直する。血の味がした。

「このクソ野郎に汚されたままじゃ、ダメなんだ。お願いだよ、晴人……」

 陽は潤んだ瞳で僕を見詰め、僕の耳をそっと噛んだ。僕の背筋にゾクゾクと電流が走る。僕は陽を抱き締め、彼女の身体を畳に押し倒した。

「う、う……ああ、ああああああああああぁぁぁぁ!」

 その日、僕は陽を抱いた。

 どうやったのかは覚えていない。ただ僕らの交わる傍に義父の死体が転がっていたのは覚えている。

 これが僕の初めてだった。

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