第32話 うん。でも、もうちょっとだけ……

 中学三年の十月だった。

 札幌の短い秋。肌寒い風が吹き、冬の香りがした。これから街は雪に覆い隠される。山も野原も横断歩道も、そろそろ見納めだ。

 そんな秋の夕暮れだった。

「で、推薦決まったべか?」

「夏の大会でスカウトの人がいたらしくてね。そこの高校のバスケ部から声が掛かったんだ」

 僕と陽は自転車を駆って家路に就いていた。バスケットボール部を引退して二ヶ月。ずいぶん暇になった。

「やったじゃん! さすが晴人、バスケだけはウチより上手いもんな」

 その日、僕の進路が決まった。スポーツ推薦入学だ。市内にある強豪校で、過去に何度もインターハイ出場を果たしている。

「したっけ今からウチん家で祝賀会やろう! 好きなもん食わせてやるべ。何が良い?」

「うーん、焼肉」

 僕は有頂天になっていた。僕は空を泳ぐようにペダルをこぐ。秋の終わりを告げる風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 陽は中学生にしては金持ちだった。財布の中には常に一万円は入っている。

 小学校三年の頃、陽の両親は離婚した。そして一昨年、母親は再婚。陽は新しい父親とは合わないらしく、あまり家に帰りたがらない。母親は食費だけは陽にたっぷり渡してあるらしい。

 僕らはスーパーで一番高い牛肉を買って陽の家に向かった。陽の自宅は僕の家から自転車で十分くらい。山手の小高い丘の上にある団地だ。

 陽の家は狭い。六畳の居間とキッチン。それだけ。両親は家にいなかった。だからこそ僕を呼んだのだろう。

 陽は通学鞄を畳に投げ捨て、窓を開ける。スカートのポケットから煙草を取り出して火を点けた。

「煙草。身体に悪いぞ」

「分かってんよ。だから晴人は吸うなよ、体力落ちるし」

 陽はキッチンからホットプレートを持ってきて、テーブルに荒っぽく投げ置く。電源を入れて鉄板に手をかざす。

 陽は家に誰もいない事を確認し、煙草をシンクの縁に置いた。

「晴人晴人っ、アレやるベか、アレ!」

「ええっ。いい加減恥ずかしいんだけど……」

 陽が両手を広げると、僕は嫌がりながら後ろを向いて直立する。

 陽が後ろから僕を抱き締めた。煙草とほのかなシャンプーの匂い。頬と胸の膨らみが背中に当たり、陽の体温が伝わる。

「でっかくなったな。昔はウチよりちゃんこかったのに」

「そりゃ……なあ」

 僕の背中に顔をすり寄せる陽。これが僕らの儀式だった。

 この儀式は幼稚園児の頃から続いている。初めは陽が僕を持ち上げる遊びだった。陽が力自慢するための遊び。

 小学生になって、男と女で抱き合うのは変だと分かった。だから人前ではやめた。二人きりの帰り道やマンションの裏や陽の部屋、誰も見ていない所で儀式は続けられた。

 六年生の時、僕の方が大きくなった。だから陽は僕を後ろから抱き締めるようになった。

 そんな頃、陽と儀式をしていると変な気分になった。

 すごく良い匂いがする。陽の身体が心地よくて、ずっとくっついていたいと感じた。奥歯の奥がイライラして、へその下がむず痒くなった。

「あああ、やっぱ晴人の背中は落ち着くわぁ」

 中学生になっても儀式は続いた。

「……陽。ホットプレート、温まってるよ」

「うん。でも、もうちょっとだけ……」

 陽の腕に力がこもる。僕を胸に押しつけた。僕らを繋ぎ合わせて混ぜて押し固め、一人の人間にしようとしているみたいに。

あったかいなぁ晴人は」

 吐息が耳に掛かる。産毛が温かく湿り、首筋から胸元まで鳥肌が駆け下りた。またズボンが窮屈になる。嫌だ、見られたくない。

 僕は陽の手の甲に手のひらを重ねた。まるで恋人みたいに。

 その瞬間、陽の両足が胴に絡みつく。僕が唖然とした隙に、陽は喉元に腕を滑り込ませて締め上げる。畳に引き倒され、エビ反りのまま気管を締め上げられた。

「どうだ、参ったべか!」

 僕は「ギブギブ」と陽の腕をタップすると、ようやく腕をほどいてくれた。陽は満足そうに仰向けになる。

「背はでっかくなったけど、まだまだウチには敵わねえべ」

「不意打ちだろ、今のは」

 咳き込んでいると、陽は僕の背中をさすった。

「油断する方が悪いべ。ケンカじゃ不意打ちも卑怯じゃねえし」

 最後は茶化して、変な空気を消し飛ばしてくれる。こうして僕らは『変な関係』から『幼なじみ』に帰って来られる。

 陽はホットプレートに肉を乗せ、箸で広げて並べてゆく。

「陽はどうすんの、進路」

「そーいや全然考えてねえわ。でも内申も悪いから、たぶん私立のテキトーなとこになるべ。したっけ晴人と同じ高校にするべか」

「残念。僕が受ける所は男子校だよ」

 そっか、と陽は割と本気で残念そうに俯く。

「あっ、そうだ。乾杯するべ!」

 陽は冷蔵庫から缶を二つ持って来る。

「これって、お酒」

 テーブルに置かれたのはレモン味の缶チューハイ。

「良いじゃん。今日はお祝いだべ」

「……でも、こんなの」

 僕が渋っていると、陽はプルタブを開けて僕の前に置いた。開け口から白い煙が舞い上がる。

「ちょっと飲んでみな。煙草と違って、体力落ちるワケじゃねえし」

 陽は慣れた様子でチューハイに口を付ける。まるでジュースでも飲んでいるみたいだ。僕は目の前の缶を見詰め、小さく息を吐く。

「ホントに、ちょっとだけだからな」

 僕も缶に口を付ける。レモン味のジュースみたいだ。しかしアルコールのツンとした匂いが鼻に抜ける。飲み下すと胸が熱くなった。

「あー、晴人も飲んだな」

 陽は悪い事ばかり僕に教える。親にも先生にも言えない悪い事。秘密を共有すると、世界には僕と陽しかいないような気がした。

「でも酒の飲み過ぎは良くねえべ。あのクソ野郎みたいになっちまう」

「クソ野郎って、お父さんの事か」

「あんなの父親じゃねえよ」

 舌打ちして髪を掻き上げる陽。目元に僅かに青痣が残っている。殴られた痕だ。

「あのクソ野郎、またブン殴りやがった」

 陽は義父から暴力を受けているらしい。僕は会った事がないが、新しい父親は酒を飲むと荒れるという。いくら陽でも男の力には勝てない。

「お母さんは助けてくれないの」

「見て見ぬフリってやつだわ」

 陽の母親はすすきののスナックで働いている。朝まで家に帰ってこない事も多い。もともと義父もそこの客だったらしい。

「何か、僕に出来る事ってないかな」

「馬鹿野郎。晴人みたいな弱っちいのに守ってもらうなんて、恥ずかし過ぎんべ。自分で何とかしてやらぁ」

 ケラケラ笑う陽。目元の痣が痛々しかった。陽は窓縁に腰掛けて煙草を咥える。

「……寒くなってきたべ」

 陽は肩を竦めた。もうすぐ冬がやってくる。

「ウチ大人んなったら、雪の積もらない南の国に引っ越すべさ」

「それは良いね。僕も毎年雪かきするのウンザリなんだよ」

「じゃあウチと一緒に行こうか」

 中学生の冬は今年が最後。陽とは幼稚園からずっと同じだったが、高校生になったら別々だ。

 陽のクラスメートでいられる時間も、あと半年もない。

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