第5話 怪談:いんのつぼ(陰の壺)

冷たく晴れた空に山から立ち上った霧が湧き上がっている。山の斜面を照らす太陽が霧に挿し込み、幾筋もの光が集落に届いていた。入母屋造の勾配の高い屋根瓦も光を受けて、穏やかに反射していた。

 集落の最も山側の家の雨戸が、するすると戸袋に納まっていく。うっすらとした霧と朝日が縁やガラス障子に挿し込んだ。


「四郎、四郎ちゃん起きて」

「う〜ん」と、四郎はもじもじしながら布団から這い出した。

「ほら、言ってあったでしょ。やっちゃうんだから」


 ガラス障子から部屋の中にも朝日が挿し込んでいる。縁の向うの雨戸は、四郎の部屋のところだけ、戸袋に仕舞われていた。

 十歳年上の姉、桐子は既に中学の萌葱色のジャージに着替えていた。背中には大きく「司」と書かれた白いゼッケンが縫い付けてある。桐子は、四郎にも保育園の体操着を着せた。四郎は、春から小学生になる。村の分校は今季限りで閉校となる。桐子も県立高校への入学が決まっていた。


 二人は、玄関からあらかじめ持ってきた運動靴を履いた。桐子は、四郎の手を引っ張りながら、裏庭の坂道を登った。司家の裏庭は、そのまま山の斜面に繋がっている。

 二人の息はほんの微かに白くなる。右手すぐに背の低い祠が見える。不自然に柱が低く、軒の深い二間ほどの横長の住吉造りだ。

「ここ入ったら駄目なんだよ」

 目を擦りながら、四郎が言う。桐子は唇を強く結ぶと短く頷いた。

「今だけ…、この日この時間だけよ」と言うと、桐子はしゃがんで、祠の板襖を持ち上げて外した。この板襖は引き違いにはなっておらず、上下に溝が切られ、板襖がはめ込みになった倹飩になっている。桐子は、注連縄を引っ掛けないようにしながら脇に立て掛ける。

 中には更に幾重にも注連縄が張られている。中央の祭壇にも朝日が一気に挿し込んだ。


「う、うわ…」と、四郎は短く声を上げた。

 中央の祭壇に安置された金属製の壺の周りに、真っ黒な人形が何体も立っている。目鼻だけが小さく刻まれ、額に短冊状の紙が貼られ、細い麻紐で頭に巻き付けてある。

 朝日に照らされて、真っ黒な人形には不気味でいびつな陰影が浮かび上がり、長く影を引いた。

 

 「大丈夫よ。炭団の人形だってさ」と言いながら、桐子は四つん這いになると、そろそろと注連縄を乗り越えて祭壇に向かった。

「た、たどん?」

 四郎には、姉の背中に挿す朝日と舞い上がる埃が、とても輝いて見えた。

「炭の粉で作った燃料のことよ。粘土人形みたいにしてあるだけよ。怖くないわ」

 桐子の声は、自分に言い聞かせるようだった。桐子はすぐ祭壇の壺に辿り着いた。

「怖いのはこいつよ」

 四郎を振り向いた桐子の顔は汗ばみ、細かく震えていた。



 姉の表情を見て、四郎は生唾を呑み込んだ。そろそろと注連縄を乗り越えながら、

「な、何するの?」と言う。


「埋めるの。お祖父ちゃんが死んじゃったでしょ。ここの御守りなんて続けられないのよ」

 桐子は、そう言いながら張り巡らされていた注連縄から手近なものを外すと、壺の口に回した。


 壺は、桐子の両手を一杯にしてようやく抱えられるほどで、四郎のような子供なら入ってしまうほどだった。色褪せた金色で細かい傷が無数についている。傷の辺りが変色している。飾りも取っ手もない、ずんぐりと丸く縁だけがくびれて分厚い太鼓の皮のようなものが張られている。太鼓の皮のようなものは、くびれを包むようになっていて、別の皮でぐるぐるに締められている。

 桐子は壺に二重に注連縄を廻すと腰をかがめたまま縄を結んだ。手に絡ませて、力を入れて引っ張る。ただかがみこんだ姿勢では力は入らず持ち上げることもできず、壺はわずかにずれただけだった。

「は、早く手伝って」「う、うん」

 四郎もようやく祭壇に辿り着いた。壺の後ろに周って、桐子と息を合わせて押し出した。


「ずるずる…、ごっとん」と重々しい音を立てて、壺は祭壇から降りた。桐子が、

「しっ!」と、口の前で指を立てる。四郎もびくりとして、その場で固まった。朝日に壺が鈍く光っている。しんとした空気が祠に広がった。鳥も鳴いていない。

「……大丈夫ね。他の注連縄も外して持って行きましょう」

 二人は、残りの注連縄も外すと壺にぐるぐるに巻き付け、のこりは二人がそれぞれ袈裟懸けにした。


 二人は、更に壺を運ぼうとした。


「お、重いわ。こんな調子じゃ間に合わない…」と桐子は、霧を含んだ汗を顔ににじませた。


「お、お姉ちゃん、モアイの運び方!自分で歩かすんだよ」と、四郎が声を上げた。


「何よそれ」


「イースター島のモアイを動かした本、読んだことがあるんだ。ちょっと傾けて、棒を差し込んで、左右にぐらぐらさせながら歩かせるんだ!」


 桐子は、注連縄を支えていた真榊の台をすべて抜き、真榊を四郎に持たせた。自分は足を壺の底部につっぱると壺に巻いた注連縄を強く引っ張った。


「いくわよ!」


 桐子が、全身に力を入れて突っ張り、全体重をかけると、壺はわずかに片方の底を浮かせた。四郎が真榊を挟む。四郎は、一本の真榊でできた隙間にさらに真榊をつっこみ、桐子の動きに合わせてこじていく。


「お、お姉ちゃん、棒の上に載せてコロコロできるよ!」


「やった!すごいわ。四郎ちゃん」


 桐子が、壺を曳き、四郎が真榊を繰り返し壺と床の間に並べていく。この繰り返しで、壺は、おとなしく祠の縁に出た。わずかに傾かせながら、地面に引き下ろす。外はじょじょに霧が晴れ、一層陽射しが明るく二人を照らしていた。


「こ、これどこに埋めるの」と、四郎が訊く。


「そこよ、三メートルくらい上。あそこにお祖父ちゃんが掘った穴があるわ」


 土はやわらかく、コロ代わりの真榊はもう敷けなかった。二人はモアイを歩かせる方法に戻り、左右に壺を振りながら歩かせていった。



 桐子の家は、古くから続く家だった。代々荘園主に仕えてきた家柄で家系図も悠に平安時代に遡る。


 いつの頃からか、屋敷の奥に炉のようなものがしつらえられ、そこにあの壺が据えられた。当初は常に贄を捧げ、数々の薬草毒草を投げ入れ、真夜中も火を絶やさぬようにしていたという。


「あれは、『陰の壺』っていうの。もともとは、朝廷が敵を倒すためにこしらえたの。でも、その威力があまりにも強すぎて、こんな山奥に祀って村の人に世話をさせたの。捕まえた動物を飢えさせて、お互いを嚙み合わせたり、毒蛇に殺させたりして、その動物も蛇も殺してこの壺に入れて毒液で煮詰めたりしていたのよ」

 桐子が説明しているのは、「蠱毒」と呼ばれる呪術・呪法のことだった。


「な、なんでそんなことするの」と、四郎は思わず手を止めて訊いた。


「恨みや痛み、憎しみ怒り…、そんなものを煮詰めて呪いにしようとしたんだわ」


 二人は汗だくになって、法面のそばに辿り着いた。


「そうね…。ちょっと休憩しようか。ほら、炭団の人形。あれに呪い殺したい人の名前を書いて、呪いの儀式をしたのよ。相手が死ぬまで生贄を継ぎ足してずっと続けるの。呪いの仕上げに、あの炭団の人形も焼いてしまうの」


「えっ、ええー、こ、怖い」と四郎は、ぶるっと震え後ずさりした。


「怖がることなんかないわ!呪いを防ぐことはできたのよ」

 桐子は力強く断言した。


「ど、どうするの?」


「簡単よ。あの紙には名前を書かないと駄目なのよ。本当の名前を教えなければいいの」


「あ、そうか」


「もっとあるわ。本名を長く読みにくくしたり、漢字を変えたり読みを変えたり、名前も生まれた時から、年齢で変えたりもしていけばいいのよ。こんなこと平安時代には対策されていたんですって」と、さらに力強く桐子は続けた。四郎は少し安心した様子だったが、


「じゃ、じゃあ、もう埋めなくても…」


「だ、駄目よ!正しい名前が確実に分かれば、効果は完全だもの」

 桐子の脳裏に、祖父の枕もとで聞いた言葉が甦った。


「……藤原道長、平清盛、源頼朝、後醍醐天皇、織田信長、豊臣秀吉……」



 壺は、一メートルほど押し上げたところで進まなくなった。壺の至る所についた傷が、桐子をせせら笑っているように感じられた。二人は汗と土にまみれていた。しゃがみ込んだ四郎が、


「お父さんたち起こそうよ」と言う。だが、桐子はそれを許さなかった。


「…駄目。お父さんもお母さんも諦めているもの。私は絶対諦めないわ。ほら、四郎、さっきのモアイみたいに何か考えはないの」


「ええ~……、あっ!自転車で坂を登る時、真っ直ぐが無理な時は、じぐざぐに行くと登れるんだよ!」


 桐子は、あんぐりと口を開けた。


「それよ!」


 二人は、壺を横倒しにすると、右斜めに転がし、向きを変えて左斜めに転がして、じょじょに坂を登らせることに成功した。そこには、祖父の掘ったマンホールほどの穴が黒々と口を開けていた。


「さぁ、おしまいよ、『陰の壺』。四郎、これを落としてしまうわよ」


「う、うん」

 二人は、壺のくびれにまわした注連縄をそれぞれに掴んで、壺の底の方から穴に降ろし始めた。


 その時、


「ぶつん」

 桐子の持っていた注連縄が音を立てて切れた。すぐ隣にいた四郎があっという間に壺と共に穴に吸い込まれていく。


「四郎!!」

 桐子は、バランスを崩して後ろ向きに倒れそうになりながら、自ら足を滑らせて穴に飛び込んだ。


「お、お姉ちゃん」

 逆さまになった四郎の足を桐子は抱きしめていた。桐子の両足が穴の両側に突っ張って止まった。


「な、縄を離して!」「うん!」

 四郎が、ふっと軽くなった。桐子の耳元をしゅるしゅるという音が抜ける。桐子の目の端に注連縄に張られていた四手がちらっと映った気がした。


「えっ?」

 次の瞬間、桐子の左足首に壺の全重量がかかった。注連縄の一本が桐子の左足にからまっていたのだ。


「ずるずるずるずる」


「きゃあああ」「わあああ」

 桐子は、必死に両足と体を穴の壁に突っ張った。二人は、穴を数十センチずり落ちたところで止まった。


「し、四郎!私を掴んで上がりなさい!」「う、うん」

 桐子は、四郎の足を必死に抱きしめながら、少しでも四郎の体を持ち上げようとした。体操着が汗で脱げていく。四郎も両手を桐子のジャージにかけ、体の向きを変えていこうとした。四郎の足が穴の壁に触れ、土の塊が落ちていく。塊は壺の皮に落ち、太鼓を低く打つような不気味な音をさせた。


「う、うわーん」

 四郎が恐怖のあまり泣き出している。不気味な音は、真っ暗な闇から反響を繰り返し、低く獣が唸るような、声を殺して誰かが笑うような声になって二人を襲って来た。桐子は叫んだ。


「泣かないの!あんたは誰より強いんだから!賢いんだから!」


 泣き止んだ四郎の体が持ち上がり、桐子の顔を見つめている。四郎は、ぼろぼろ泣きながら、桐子の肩に足をかけ、登っていく。


 ふっと、四郎の重さがなくなった。地上に達したのだ。


「お姉ちゃん!」と叫ぶ四郎の声が、真上から聞こえた。闇の笑い声は、悔し気な怒りのような唸り声に変わっていく。壺は独りでに揺れ始め、左足首の縄がきつく食い込いこむ。太鼓のように張られた皮が内側からぶすぶすと黒く変色して、煙を上げ始める。壺の中は、いつのまにかどろどろの鉄が湧きだし、煮えたようになって皮を焦がしていたのだ。重みを増した壺が、さらに桐子を引きずり落そうとしている。


「ぎゃあああ」

 桐子は、重みと左足首を締め付ける痛み、そして闇の底からのおぞましい熱気に恐怖した。


「お、お姉ちゃん!!ぼ、ぼくお父さん呼んでくる!」

 その瞬間、重みに耐えかねた左足が、穴の壁から滑り落ちた。


「ぎゃっ」

 桐子は右足だけで体を突っ張るが、更に左足首への痛みは増していった。ここまで祠から壺を曳き、押し上げてきた体力も尽きようとしている。その時、暗闇に赤黒く光る溶けた鉄が歪んだ顔になり、壺の中から、囁きだした。


「……其方のぉ、痛みぃ、苦しみぃ、憎しみぃ、恐れ……、我を満たせりぃぃ。さぁぁぁ、名を言えぇ…。成就の暁ぃ、其方の栄華は思いのままぁ……」


 闇からの囁きは、桐子の全身にしみるように体をあがってきた。


「だ、誰かを呪えば、助かるってこと……なんだ……」

 桐子は、目をつむった。歪んだ顔がにたりと笑った。



「じゃあ……、『陰の壺』!!!!」

 桐子は、右足を一瞬縮めると、両足を揃えて、陰の壺に突っ込んでいった。



「どおおぅぅぅん」

 穴から爆発が起きた。坂を下りかけた四郎が見たものは、穴から無数の獣や人が噴き出す様だった。それは一気に朝の大気に向かって噴き上がり、消えた。次の瞬間、すっかり真空になった穴に大気が流れ込んだ。


「ずぅぅぅぅん」

 地面がびりびりと震える。


 四郎は、慌てて穴に戻った。


 そこには、全く穴などなく、ただの剝き出しの固い地面があるだけだった。


「う、うわぁぁぁん、お姉ちゃんお姉ちゃん!」

 四郎は、這いつくばって、両手で地面を叩いた。だが、固いかたい地面は、ただしんとしているだけだった。


「う…」とまた四郎が叫び声をあげかけた時、


「大丈夫よ」と、背後で声がした。


「う、うぇ?」

 四郎が振り向くと、そこには、逆光に立つ桐子が微笑んでいた。


「ごめんね。怖かったね。帰ろ」



 雨戸の開いた縁には、地震で飛び起きた両親が立っていた。


「どうしたんだい。泥だらけじゃないか」と、父親が訊いた。


「ごめんなさい。今日で引っ越しだから、二人で泥んこになって遊んじゃった」と、桐子が微笑む。


「えっ?え?」と、桐子を見上げる四郎の肩を抱いて、桐子は、


「さ、シャワー浴びよ。着替えよ」と優しく目を細めた。



 二人は、昨日の風呂を沸かし直すと、ゆったりと湯に浸かった。四郎は、桐子に髪や体を洗ってもらい、綺麗になって風呂を出た。



「あんたたちが、朝からお風呂なんかに入るから。朝ごはんはどこかのサービスエリアで食べましょうね」

 助手席の母親が、少し呆れ気味で言う。桐子は、後部座席で四郎の手を握り、静かに笑っていた。

 家族を乗せた自動車は、山間から都市部に接続する高速道路を走り、サービスエリアに滑り込んでいった。



 エンジンが止まる。四人はそれぞれドアを開けて、車外に出た。

「ん?桐子?」

 最初に気付いたのは、父親だった。今の今までいたはずの桐子が消えていた。


 警察が、サービスエリアや高速道路各所、近隣を封鎖したが、桐子は見つからなかった。

「S・A少女行方不明事件」は、数カ月間、世間の話題になり、消えた。そのころ、桐子たちが住んでいた家は、ダムに沈んだ。



 二十年たった。ダム職員の間では、今年も事務所の対岸あたりで咲く花が話題になっていた。

「今年は一つ、あの花の下で花見でもしませんか」

「いやぁいいですね。三色も咲くなんて他ではありません」

「あれは一本なのか、元は三本だったのか。全く、あんなに沢山、白、薄紫、紅色がそりゃあ見事な桐の花が咲きますから」



 花の見頃も過ぎたある夜、「バキン」と異様な音がした。当直の事務所職員にも聞こえたほどで、すぐに全設備の点検をしたが、異常はなかった。


 その年の十月末、桐の木は、文字通り鈴なりの実をつけた。木鈴は風に吹かれて、がらんがらんと乾いた悲しい音色を響かせた。

 二十年間、陰の壺の残りの妖力を吸い取り、封じられた多くの魂を花に変え、三人の弟を悼み続けて、ついに根を締め付けて壺を割った桐子が、本懐を遂げた。

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