第29話 舐めて、吸って、飲んで!

 お医者様の椅子をちょっと回して、丸椅子に座る私に正対するように姿勢を正して、メガネの奥からのぞき込む瞳で、私をとらえながらいうの。


 「妻帯者ってモテるの、それだけで一つのステータスなのよ」


 って、至極当然、至って当たり前、これが完全に宇宙の真理。さもあいなんな言い方をする律子先生。


 まあ、確かに『人妻』とかって、その言葉だけで贖い難い魅力はあるって、以前だれかから聞いた気が? 一樹だっけ? いえ、一樹はそんなこと言わないなあ。


 でも、今はそんなことを考えている場合はないのよ。


 「いえ、だって、一樹は結婚してるんですよ、すでに相手がいるって男子にちょっかいかける人なんて……」


 そう言いかけて私は黙った。というか考えた。


 あ、いるよ、そんな奴。


 中学の時にいた。


 私を意識して、好きでもなかった一樹にちょっかいかけてた女子の事を思い出した。


 そう、あれがすべての始まりだったの。


 「え? つまり、人のものだから欲しくなるってことですか?」


 って言ってて、疑問符いっぱいの思考になる。


 でも、美子ちゃんがストーカー化したのって、一樹が私と結婚してるって知ってからだわ。


 でも、待てよ、それなら優はどうなるの?


 そう、優にしたって、美子ちゃんも、そんな性格じゃあないわよ。たぶん綾小路さんも。こんな事言いたくないけど、私に比べてこの3人はみんな素直で良い子。


 もし、本気で一樹を略奪するなら、こんな堂々というかなあ?


 「でも、りっちゃん、略奪する! ってこんなに堂々というかなあ? 優にだってライバルって宣言されてないよ、もしそうなら、勝ち負けをはっきりさせたいから、正々堂々というし、綾小路さんは、なんか本気ですいません、って感じだったし」


 浮気も、不倫も、生活現況に影響を与えないよう、水面下でするもの、少なくとも私はそう思ってた。


 だから、一樹の周りの女の子みたいに、わざわざ静かな水面みなもに波紋を立てるような真似するかなあ、って考えたの。


 「いいわね、どんどん答えに近づいてるわよ一花ちゃん」


 りっちゃんの顔がとてもうれしそう。


 今はそういうのいいから、早く教えて、答えて、


 「もう、じらさないで! 早く教えてよ、どうして一樹の周りの女の子は、ああなってしまうの?」


 「拡散、感染する『アフロディーテの渦輪うずわ』って知ってる?、一花ちゃん」


 ?????


 もう、そういう顔しかできない。で、????????なのよ。


 なんだろう?ピタゴラスの定理みたいなものなのかなあ?


 りっちゃんからの情報を消化できない私はそのままその言葉を理解しようとしたの。


 アフロディーテって確か女神様だっけ? ギリシャ神話?


 そんな程度しかわからない私は、ほんとにキョトンとしていたんだと思う。


 すると、りっちゃんは、今まで私に見せたことのない顔をして、ううん、きっとこっちが本物の律子先生ね、きっと大学では生徒の前でこんな顔して教鞭を奮ってるんだと思う。


 ここにいるりっちゃんは普通に、お悩み相談室の優しいお姉さん。


 だから、ほんとにすごい人なんだなあ、って、研究者っていうのかしら、プロフェッサー的な? 律子先生のもう一つの顔を見た気がした。


 「あのね、恋愛って、拡散するのよ、ウイルスみたいに、特に心を接してる人なら、生活圏を伴う人なら空気感染するのよ」


 「人を好きになるって、病気なんですか?」


 いやいや、そんなバカなって思いつつその後の説明を聞こうとするんだけど、


 律子先生は、


 「じゃあ、実験ね」


 って言ってから、グイッと私に近づいてきて、そのきれいな唇から、あ、律子先生って舌長いなあ、って、その舌を私に突き出して、なにを言うかと思えば、


 「ほら、一花ちゃん、舐めて舐めて 」


 って、まさか自分の舌をなめろっていってるわけじゃないよね?


 「舌をなめて、って言ってるの、簡単でしょ?」


 そのまさかだった。石のように固まってしまう私。本当に理解不能なものを目の当たりにしてしまうと、人って反応がなくなるのね。身をもって知ったわ。


 それでも律子先生の長くて綺麗な舌がチロチロと迫りくる、この理解しがたい状況に、顔を振ってよけるの。


 すると、律子先生は、あきらめて身を乗り出していた姿勢をもとに戻すと、


 「なんで舐めてくれないの?ほらほら、舐めて、吸って、飲んで」


 でも、言ってる内容はともかく、特にしつこくもされないで、すぐに離れてくれた。


 この変な実験から解放された私は、ほっとして言った。


 「できるわけないじゃないですか」


 ああ、びっくりした。


 そのびっくりした私に、りっちゃんは言うの。


 「でも、一樹君のは舐めてるよね」


 って言う。


 ああ、そっかディープなキスの事をいってるのか、って悟れて


 「それと、これとは話が違います」


 って言うと、


 「同じだよ」


 そう言ってから、


 「だって、一花ちゃん、一樹君とは唾液の飲み合いまでしてるんだよ?」


 そう言われてハッとする。


 「『アフロディーテの渦輪』の中に入った人間は、常識や概念なんて、まして理性なんて箍なんて簡単にぶっ飛ぶ、だって、キスやセックスなんて、生き物にとって生命の危機だってある、現代の人間ならその前段階、衛星概念さえもぶっ壊れるんだよ、生き物ってね、人を含めて生命の営みの為に生命的リスクを負うの、これってそうとうな矛盾、体はその生命の危機さえ快楽の一つにするのよ、これを病気って言わずなんていうのよ」


 りっちゃんの言葉に、私はただ茫然としてしまう。


 そして、この渦輪な理論は、波及してゆくのだ。


 優に、美子ちゃんに、そして今日の綾小路さん。


 それどころか、人類へと。


 ちょっと、旦那がモテすぎ、困っちゃう思考な私にとっては、重すぎる内容だった。


 帰りに胃薬もらっておこう。


 


 

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