龍と大百足
蚤野ヒリア
第1話龍がいた
未だ、もののけ殺しの逸話が無き時代。龍と虎が開口を果たす前の話。
一人の商人が山越えを図り、連山の中腹へと差し掛かった。歳は三十を過ぎ、武器商人として事業が軌道に乗り始めた、貧乏というには金に困らず、裕福というには湯水のように金を使えないしがない商人は馬車を一つ連れて歩みを進める。山越えを初めて一日を過ぎ、日が高く上がり始めた。右と左に林があり、不気味な様相を醸し出してはいるが、この時代には妖怪の類を見たものが存在しない。商人が気にしているのは鬼や鵺などではなく、馬車を襲う山賊だ。だが、冒頭に書いたように彼は一人である。馬車を守護してくれる者は自分をおいて他にいない。
なぜ、このような状況におかれているのか、理由はある。実は、何をも貫く矛と何をも通さぬ盾を宣伝したところ、ならばその矛で盾を突けばどうなる? という質問が飛び、自らの調子のいい口が自らの首を締めるという窮地に陥ったのだ。読んで字のごとし矛盾に対してその時ばかりは閉じる事こそ少ない口が苦虫を嚙み潰し、客の目という目が興味と疑心の色に染まりゆくその場を後にした。ゆえに今、大金を設ける算段は崩れ去り、噂の広まぬうちに遠い街へと旅に出た。そして、稼いだ金で雇おうとしていた護衛は、捕らぬ、いや、捕れぬ狸の皮算用だったらしく、流石に一人では心許ないと思い、早足に聞き込みを行った。すると、ある噂話が耳に入った。かの山、嵐の日には登ることなかれ。渦巻く黒雲、ひび割れのような稲妻。浮かび上がるは千里はあろうかという巨体。それは、百足を蠢かせ、山を削って動き回らん。近寄ることなかれ。その噂の中心となる巨体が何かは分からない。だが、その山は通行を規制されているらしい。彼は考えた。噂を流した者は酷く酒に酔っているに違いない、そして、噂は一か月も前から流行っている、野盗たちの食い物は底を尽き、狩場を探して拠点を移しているに違いない、と。護衛一人雇う金のない商人は心配だが、機転の利く時の自分には幸運が宿っていると信じている。つまりは、勘を頼りに進もうと決心したのであった。
そうして今、中腹を越え、頂上付近へとたどり着く。今までの道中で山賊は愚か、狼一匹さえ見当たらなかった。商運を掴んだことを確信し、額の汗を拭って突き進む。違和感はその後に気づいた。
霧が濃くなってきた正午の頃。異様な光景を目に収める。白色の鱗の壁が道を塞いでいた。城壁のように綺麗な白。だが、生命を感じさせるように小さく膨らみ、縮むのだ。まるで息をしているかのように。商人は奇妙に思い、自らの背の三倍はあろうかという壁を登ってみた。それは円状の物体で、林を押しつぶして横たわっていた。頂上には青色の毛が生えており、着物にすれば綺麗だろうと思う。腰に履いていた刀を抜き、毛を捕ると、馬車の方へと下る。そして、流石にもう時間をとられていては先が思いやられると考えた商人は先ほどの刀で壁というには柔らかい鱗の壁を突き刺した。すると、驚いたことに、その壁はのたうち回った。思わず手を離し、その場を後にしようとするも、腰が抜けて立つことも敵わない。恐怖に慄いていると、それは商人を見つけた。
第一印象は威嚇をしている狐であった。だが、大きさも色も、何より恐さが違う。この世で最も恐ろしいものを絵にしろと言われれば、これを描く。ぎょろぎょろとした目にワニのように長い口、その上にある鼻は熱を帯びた息を吐き、宙を舞う髭はそれを象徴するようにはためいている。商人は後に、それを龍と呼ぶ。
商人は石のように固まった体を無理やり動かし、地べたを張って逃げる。馬車まで行けば、馬の背に飛び乗って逃げることができる。しかし、それは叶わぬ望みであったようだ。馬車を購入してからずいぶんと時間が経っている。車輪は軋み、馬を繋ぐ縄はほつれてきている。買い換えようと考えていた矢先に矛盾を起こし、龍と出会ってしまった。龍は怒声をあげると空気が震える。興奮した馬は暴れ、縄がちぎれて一目散に走り去ってしまう。その現状に、狼どころか、動物すらも見かけなかったのはこいつのせいか? と間抜けにも今頃気づいた商人は走馬灯を見て、家に残した妻を想った。腹に我が子を身ごもったかの女性は今の私に何を思うだろう、きっと、頑張ったなどと労いの言葉をよこしてはくれないだろう、と商人は悲嘆にくれた。
俯瞰して見るが、やはり商人は運が良かった。彼の顔に唾が飛ぶほど声を荒げたのは龍であった。
「お主か、俺の腹を突いたのは!」
なんという迫力であろう。臓物が震えあがるほどの気迫がある龍に対し、死を覚悟しつつも妻子を脳裏に浮かべ、奮い立つ商人がいた。
「はい、私であります。町で武具を売りに出したのですが、何分商才が無いものでして、一つもこの手から離れていってはくれませんでした。そこで、この山を越えた先にある街へと行こうと山登りをしていたとき、あなた様の胴が行く手を阻んでいたのです。私には妻とその腹に赤子がいます。二人の身が心配でならず、先を急ごうと意気込んでいたのです。あなた様の胴を刺したことに悪気はありません。どうか、許してください」
商人は龍の目を真っ直ぐ見つめた。正直な言葉の数々はしかし、もののけを激怒させるには十分な言葉であったらしい。龍は大口を開けて怒鳴った。
「お主の事情など知ったことではない。俺は俺の縄張りを荒らす奴があらわれたことに酷く怒りを覚えている。お主の邪魔が入ったせいで、疲れもとれやしない。お前を食い、俺の英気を養う獲物となれ」
龍は山をも飲み込んでしまえそうな口を開け、商人を食おうとしたその時だった。空が黒雲に呑まれた。異変を感じ取ったのはもののけも人間も同じ。だが、態度に違いが出た。商人は突然、空が黒く染まったことに驚き、龍はまたかとでも言うようにため息を吐く。
「間が悪い。また奴がきた」
龍の独り言に商人は首を傾げた。
「どういうことですか? やつとは何ですか?」
龍が臨戦態勢をとる。商人から見て右側から空は黒くなった。龍が見る方向もそちらだ。つまりは右にこれらの原因となるものがあるのだろう。段々と、(この時代にはないが)列車のようにガタガタと地を震わす何かが近付いてくる。地震を起こして来るものは何か。商人は龍を見たときのような緊張と不安と絶望を感じながらも好奇心から右に顔を向けた。すると、それは飛び出した。そして、龍と激突し、勢いを止めずに奥へ奥へと突き進んでいく。聞こえたのは龍が吐血する音だ。右から突撃してきたのだから左へと流れていく。あまりの事態に身を守ろうと上げていた腕を下ろし、左を向いた。そこにいたのは長い触角と百足を持つ、非常に見覚えがあり、見れば誰もが気味悪がる虫と酷似した、だが、その目は記憶している虫のそれとは一線を画すほどに大きいそれは、大百足であった。
押し倒され、口から血を垂らしている龍を見つけ、商人はさらに震えあがった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます