第6話 業
「なんで僕がここにいるんだ……? ここは……、病院……?」
ここは機材と僕以外には誰もいない。集中治療室だろうか。僕が僕を見つめる。こんな滑稽な事があっていいのだろうか。いや、あってはならないはずだ。一体どういうことだ。僕はあの事故で死んだはずじゃなかったのか。次々に疑問が脳裏を通過する。
「やっぱここへ行き着いたか」
突然、背後から声が響いた。それは、つい先程まで聞いていた心地よい低音の声だった。
「イザミ君!」
なぜか彼は白く磨かれた床の上で平然と佇んでいた。少しだけはにかんでいるようにも見えた。彼の全身を見る限り、どこにも怪我などは見当たらない。僕は全身から一気に力が抜けた。安堵のせいか、じんわりとする目を二、三度しばたたかせた。
「さっきあの蛇に飲み込まれたんじゃ!?」
すると目の前の半人前の死神は、ふいに力なく笑って答えた。
「……俺はともかく、お前はまだ死んじゃいない」
その一言がまるで暴走車のように僕を通過した。
「それって……」
頭の中がぐるぐるし始めて、視界に入る全てのものがぶれ始めた。呼吸器を装着し、眠るように瞳を閉じている僕の顔がかすんで見える。そのすぐ側で、イザミ君の身体がどんどん薄れていることに気が付いた。気のせいだと思いたかった。だから何度も目をこらして彼を見つめた。だけど、彼の言葉が、少し緩んだ唇がその真実を語った。
「あの言葉、ほんとになっちまったな。笑えるな。いや、俺は本気でお前に、このかったりー役目を任せようと思ったんだけどな」
そう言いながら寂しげに笑った。
――シュン、お前に任せた。
あの時の言葉が脳裏をよぎる。あの日、アスファルトの上で横たわりながら聞いた声。僕の死に際に放たれたその一声。そして僕を死神の世界へ連れて行ったあの一声――。
「僕は何も出来ない。イザミ君の代わりにだなんて……、死神になんてなれないよ……」
思わず本音と一緒に頬に暖かな雫がこぼれ落ちる。先程まで敬語を使っていた自分はもういなかった。彼と対等に自分の言葉をぶつけたいと切に願った。それでこの世界に引き留められるなら。
「じゃ、やめればいい。お前はほら、まだ生きてる。ここに引き寄せらたってことは、お前の魂はこの身体に戻りたがってる。それに自身の武器となる
「戻れる……? 今なら……?」
彼はベットに横たわる僕の身体を労るように見つめながらその真実を語った。この世でまだ生きられる可能性があるという。僕は僕自身の見慣れた顔をそっと見つめた。自身の
「おめぇさ、一応言っておくけど、死神には誰もがなれるわけじゃないって知ってたか?」
最初はあんなに仏頂面だったイザミ君は、今はなぜか暖かく話しかけてくれていた。こんな時にそんな風に笑いかけるなんてずるいよと、心の中で強く彼にけしかけた。
「そんなこと、知らないよ……」
拳に力が入る。虚無のような透き通り始めている彼の足元を見つめた。
「だよな。言い訳がましくてあんま言いたくねぇけど、俺があの時なんでお前の言葉を聞き間違ったのか、最後に言わせてくれよ。そしたらちょっとは悔いが残らず上に行けるかもしんねぇしな」
「そんなっ」
彼の冗談めいた口調に思わず顔を上げた。イザミ君は軽い声で笑いながらも、この場の空気を少し柔らかくしてくれているようだった。
「あの時、お前はその
「打ち勝った……?」
彼の以外な言葉をそのまま問いただした。
「ああ、死神になる条件は『自身の
僕はあの時の事故を思い出した。父親をあの事故から庇った、自身のことを。
「俺は、シュン、お前の偵察に来てたんだ。自身の
僕からふいに視線を外し、後ろ髪をぐしゃっと右手でかき乱した。そんな風に顔をほのかに灯した彼は、また続けた。
「スサオ、ロチア、クニもそうだ。あいつら普段はへらへらしてるけど、まだ人間だった時、どこかの地点で自身の業と打ち勝ってるやつらだ。何かを犠牲にしてな。以前の記憶がもうないヤツもいるし、敢えて消してるヤツもいる。だがそれでも、前の人生で強く持っていた業を今でも重く背負っているヤツも多い。あいつらが戦う時に使う武器である
彼は最後に「だから、あいつらのさっきの言動も許してやってくれよ」とまるで彼らを愛しむ母親のように僕へ言った。彼らがイザミ君を助けなかった理由がそれぞれの業の中にあると言う。だとしたら、彼らと同じ半人前の死神であるイザミ君のこの暖かさの理由はどこにあるのだろう。
その時、耳障りな機械音がこの白い部屋中へ鳴り響いた。僕へ繋がっている機械から発せられている音のようだった。すぐさま、看護士であろう女性がこの部屋へ飛び込んできた。隣には白衣を身に着けた男性もいる。恐らく医者だろう。二人とも僕達には見向きもしない。全く視界に入っていないようだった。すると医者は深刻そうに言った。
「家族を呼んだほうがいいな」
その言葉は、空しくこの白い殺風景な部屋に呼応した。
「さ、俺の言い訳話はもう終わりだ。さっきも言ったが、まだお前はあいつらみたいに自身の武器となる
ふっと笑うイザミ君。
彼が着ている学ランは、もうその黒色でさえ認識出来ない程だった。
***
気が付くと僕は河川敷のコンクリートの上で、膝を付き、頭を抱えていた。狂おしい程に頭が痛い。周囲の暗闇の監獄に囚われているように僕からこの痛みを離そうとしない。
「イザミ君っ……!」
僕は父の事を、ずっとこの世から消えてしまえばいいのにと何度も、何度も思っていた。
だが、あの父を庇い、今、僕はここにいる。
あんなにも嫌いな人なのに。母を傷つけた人なのに。僕がしたことは果たして正しかったのだろうか。あの時、僕が何もしなけば、助けなければ、今、この場にいることもなかったはずだ。イザミ君もこんなことにならなかったのかもしれない。こんなに不条理な
自身の身体に戻ればこの現状も全て忘れるとあの時、彼は言った。楽になれる。そうだ、このままイザミ君を見放せば、皆、後悔せずに生きていけるんだ。自分の
「我はこの世のために、……この務めを、全うする」
僕の胸は痛みを増しながら激しく締め付けられ、ざわめき出す。
その時、脳裏に映像が浮かんだ。父だった。僕があの時、助けた父さんだった。そして隣には母さんもいる。二人で病院で横たわる僕の傍で嘆き悲しんでいる。二人とも声を上げて大泣きする子供のようにわめいている。
頭の中に、母親、そして父親と共に過ごした、小さな僕が刻んだ思い出が、次々と泡のように溢れて出た。非力な僕が高校で棒術部に入ったのも、小さな頃に両親と一緒に見に行ったSF映画の影響だった。棒術をこなす登場人物を3人で『かっこよかったね』と興奮しながら言い合った。あの頃の父は豪快によく笑い、威厳に溢れていた。母もふっくらとしたつやのある頬をよく上げて笑っていた。そんな笑顔の二人がとても好きだった。子供ながらに、それがずっと続けばいいなといつも思っていた。
――父さん、仕事、首切られちゃったんだ……。もう誰からも必要ないんだって。ハハッ。
和食の並ぶ食卓の上で聞いた、あの時の記憶がまた浮かぶ。自重気味に覇気無く笑う、父の姿だった。あんなに威風堂々としていた姿からは想像も出来ない程に、今にもその場から散って消えてしまいそうな弱々しい姿だった。父のすぐ隣に座る母は、まるでその言葉が聞こえていないかのように無言を貫き、焼き鮭をゼンマイ式の人形のようにただ口に入れていた。だけど、少しだけやつれているように見えた。
あれから父は酒に溺れだし、賭け事にもどんどんとハマっていった。僕はあの時、どうすれば良かったのだろう。現実、そして自身と戦い、負けてしまった父を、打ちひしがれる父を、見ることしかしていなかった。いや、見捨てていたのだろうか。あの時、もしかすると、何か出来ることがあったのだろうか。
頭も、胸の中もむせ返る程に激しく痛む。
なぜ僕はこんなに辛いのだろう。
なぜ僕はこんなにも苦しいのだろう。
なぜ。
なぜ――
何度も自身に繰り返し、その言葉を投げ続けた。
僕が見ていた未来は、僕の望む未来は、僕自身が握っていたはずだ――
突然の衝撃に頭を打たれ、強い光に照らされたかのように目がくらむ。だが、先程までの頭痛や胸の痛みが嘘のようにすっと引いていくのが分かった。
「僕が望んでいたことはこれ、か……?」
思わず右手を見つめた。ずっとこの手で握っていた、暖めていた未来。また3人で笑い合える未来。
あの時、父をこの手で助けていなければ、今よりも酷く後悔をしていた。自分自身の業に取り憑かれ大蛇にまでなってしまったあの男のように。
そしてそれは今も、同じだ。
「イザミ、すまない」
いつの間にか溢れ出していた涙と一緒に、熱くて重たい何かが僕の中から止めどなく込み上がる。右手が猛烈に熱い。まるで燃え盛る炎にかけられているような今まで感じたことのない熱さだ。だが痛みは感じない。地上へ這い登るように立ち上がり、右手を真っ直ぐに月夜へ掲げ、それまでため込んでいた熱を放出するように荒々しい声を張り上げた。そのまま、顔の前で右手を真っすぐにかざすと、不思議と心が落ち着きを取り戻し始めた。そして僕はまるで、いつもの普遍的な日常のようにその言葉を唱えた。
「……業よ、来い」
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