『ただいま』


「友達から聞いた話なんだけどね」


 大学二回生の頃の話だ。

 当時仲の良かった仲間内のひとり──Rが、「家に何かがいる」と相談してきたのだという。


 何かとはなんだ、と聞いても、なんだか要領を得ない説明しか返ってこない。

 随分と混乱しているらしいRは、しばらく頭を抱えて俯くと、ようやく整理がついたのかゆっくりと話し始めたそうだ。


 防犯対策の話だが、女性の一人暮らしで帰宅時に『ただいま』と声をかけることで同居人の存在を仄めかして、不審者への牽制をする方法がある。

 Rは元から心配性で、小柄で筋力にも自信がなかったので、同じように「ただいま」と言いながら帰るようにしていたそうだ。

 立地と家賃の関係で、あまり防犯性が高いとは言えないアパートに住んでいることも、心配性に拍車をかけていたのだろう。

 友達とルームシェアでもしているように見えれば、と思って続けていたRなのだが、近頃それに返事・・が帰ってくるようになったそうだ。


「おかえりー、って何かが言ってくんだよ」


 だから、何かってなんだよ、と誰かが聞く。

 けれどもRは、そんなの俺にも分からん、と首を振るだけだった。


 他の住人が悪戯してんじゃねえの?と言う友人たちに、Rはつらつらと並べ立てた。


「いや、俺だって最初は警察案件かなとか、壁薄いから文句的に乗っかってんのかなって疑ったよ。でもさあ、そもそも盗るもんなんかマジでないような部屋だって見れば分かるし、別に防犯なんていくらやったって損しないからやってただけだし、そもそも俺が帰る時間と隣の部屋の奴が帰る時間違うし、とにかく誰もいないんだよ。いないけど返事だけすんの。なんか音に反応するやつ仕掛けられてんのかなとか考えたって、わざわざ俺にそんなこと仕掛ける奴らなんかお前らくらいしかいないっていうか」


 息継ぎも怪しいそれを遮ったのは、その場に上がった手のひらだった。

 説明とも言えない吐き出しを一旦止めて、呆れたように誰かが問いかける。


「要するに、それ話して俺らにどうして欲しいわけ?」


 Rは一度グッと詰まって、ちょっと気まずそうにしながら、『誰か一緒に付いてきてほしい』と頼んだ。


 だったら最初からそう言えよ、というのがその場の総意である。

 だがまあ、Rが小心者でややこしい男なのは、今に始まったことではない。

 その慎重さに助けられたことも何回もある訳で。

 時間の合う奴が家の様子を見にいくこと自体には、特に不満は出なかったそうだ。


「なんで引っ越さんの?」

「俺んちはお前みたいに金有り余ってねえんだよ」

「あははカワイソー」

「うっせ、同情するなら引越し資金寄越せ」

「トイチな」


 そんな戯れあいじみた会話を交わしつつ、結局Rを含めた三人で彼の部屋に向かった。


 辿り着いた先は、よく見る作りのアパートだった。

 あまり日の当たらない一方通行の道路から更に小道に入ったところに、少し陰気な雰囲気を漂わせて佇んでいる。

 Rの部屋は通りから見れば一番奥に位置していて、突き当たりには隣家のブロック塀が並んでいた。


 時刻は午後五時頃で、季節的にはまだまだ明るい時間帯だ。


 まずは実際に見せてもらおうとなって、いつものように部屋に入ってもらうことにした。

 不安の滲む顔で鍵を回したRが、扉を開いて、薄暗い室内へと声をかける。


「……ただいまー」


 正直に言えば、友達はこの時点では、本気で何かが起こるなどとは思っていなかった。

 Rは元々神経質な奴だし、バイトやら学業やら、将来への不安やらでちょっと気が滅入っているだけだと考えていたのだ。


「おかえりぃー」


 だから、声が聞こえた時にも、まず最初に一緒に来ていた別の友人──Kを疑った。

 どうせ悪ふざげをしているのだろう、と思って。

 けれども、隣に並んでいるKも、ちょうど同じような顔をして此方を見つめていたそうだ。


 お前が言ったんじゃねえの?という視線の問いに、無言で首を振る。

 そもそも、今の声は間違いなく室内から聞こえていた。


 扉の取っ手を握ったまま、警戒するように室内を窺っていたRが、ゆっくりと降り返る。

 暗く沈んだその顔は、自分で言っておきながら信じたくはない、というような表情だった。


「……な? 聞こえるだろ?」


 すがるような確認の声に、とりあえず肯定を返す。

 三人居て三人ともが聞いていたのだから、聞き違いということはないだろう。


 例えば、これが別の友人の家で起こったことなら悪戯を疑ったかもしれない。

 だが、友達から見るに、Rは決してそういうことはしないタイプだった。

 もし仮に家だけ使わせてくれと言われたとしても、『自宅で心霊現象が起こったことにされる』という状況自体を嫌がるくらいの人間だ。


「どうせだから、中も確かめてくれよ」


 不安げに手招くRに続いて,仕方なく室内へと入った。


 家賃に見合った、狭い作りの部屋である。

 玄関入ってすぐの左手側にトイレとその奥側に小さなキッチン。

 右手側に浴室がなんとか収まっていて、玄関からはすぐに室内が見渡せる。

 フローリングの一室には布団と雀卓にもしている炬燵机、その他雑多なカラーボックスやら何やらが詰め込むように並んでいた。


 わざわざ見て回る必要もないほどの部屋だ。

 収納だって既に満杯で入れるような場所はないし、誰かいればすぐに分かる。


 先ほどの声の主が何処にもいないことは明白だった。

 幾度か意味のない言葉を声を出してみても、特に反応はない。


 狭い室内で、男三人で立ったままそれとなく視線を交わす。


「……これってさあ、此処でもう一回『ただいま』って言ったらどうなんの?」


 口火を切ったのはKだった。

 え、わかんない、とRが小さく答える。

 この現象が起こってから、そんな風に試したことはないそうだ。


「何処から聞こえてるのか分かったら、それが原因なんだから取り除けたりしないか?」


 例えば良くある話のように、収納の隠れた奥に妙なお札があってそれが剥がれているだとか、風呂場に何かがいてそれが答えているのだとか。

 原因があれば対応も出来るだろう、という話だった。

 ただただ薄気味悪さに怯えていたRとしては、そういう発想はなかったらしい。


 友人二人がいるし、まだ陽もあることで幾らか安心もあったのだろう。

 Rはその場で何処に向けてということもなく「ただいま」と口にして、


「おかえりぃー」


 と、耳元で響いたそれに身を強張らせた。


「………………」


 三人は揃って無言になった。

 その声は、Rの耳元にだけ聞こえた訳ではなかったからだ。


 友達の耳元でも確かに聞こえたし、反応を見るにKの耳元でも聞こえたのだろう。

 ごく近い後ろから、随分と嬉しそうな声が。


 後ろを振り返ったが、何の姿も無かった。

 だが、気のせいとするにはあまりにも明瞭な声だった。


 聞こえ方から察するに、家にいる何かは、帰った時には家の奥にいて、帰宅後はずっと後ろについているのではないだろうか。

 別にわざわざ言葉にはしなかったが、想像するには十分すぎるほどの材料だった。


 とりあえず、Rはその日はKの家に泊まったそうだ。


 その際に、もう『ただいま』を言うのをやめたらどうか、という話になったらしい。

 Rは現象が起こってからというもの、怯えながらも挨拶を続けている訳だが、それは、今度こそ何も居ないことを確かめるためでもあるし、あるいは怪奇現象によって行動を変えたらそれの存在を認めてしまうような気がする、という感覚からの行動でもあったようだ。


 けれども、呼びかけない限り向こうからもアクションがないのなら、素直に挨拶を止めればいいのではないか、とKは提案したそうだ。

 確かに、挨拶に反応するのなら、言わなければそれで済む話である。


 ただ、Rとしてはもう、何かがいると客観的に判断できた時点で嫌だったのだろう。

 わざわざあんな話をして呼んだのも、あの場で友達やKが『そんなの聞こえないし、気のせいじゃね』と言ってくれることを期待していたのだ。


 結局Rは、実家に泣きついて父親に金を借りることで部屋を出る資金を用意したらしい。

 多少苦労したようだが、無事に話はついたそうだ。


 ただ、荷造りの為にも一度はあの部屋に戻る必要がある訳で。

 友達は怯えたRに頼られて、後日再びKと共に部屋の荷造りを手伝うこととなった。


 その時はわざわざ挨拶なんてしなかったし、特に変な声が聞こえることもなかった。

 無事に別の部屋に引っ越しも済んだし、まあこれで一件落着と行くだろう。


 そんな風に思っていたある日。

 今度はKから話が出たそうだ。


「多分さー、この間のあいつ、俺の部屋についてきてるっぽいわ」


 引っ越しを手伝ってからしばらくして、Kは何かの節にそう語った。

 なんでも、自室でふとした時にこぼした独り言に、例の声で返事があったそうだ。


 それは別に、何を呟いたのかすら思い出せないほどに些細な言葉だったらしい。

 ネットニュースに対する感想だったか、それともたまたま買った新発売の飲み物への一言だったか。あるいは単なる疲労を表しただけだったか。


 ともかく、一人の部屋で呟いたそれに、明確にあの時の声が聞こえたそうだ。

 状況的にも同じように、すぐ後ろの耳元で響いたのだという。


「なんで鞍替えしたのかは分かんねえし、もうあの女、挨拶とか関係ないみたいでさ……まあ、何されるって訳でもないからいいんだけどよ」


 心配性のRとは違い、精神的にも強いKにとっては、ちょっと気味の悪い体験程度で済んでいるようだった。

 なんだったら、飲みの場などで使える面白エピソードくらいには思っていたかもしれない。


「お前のとこには来てないよな? 来てんなら一緒に除霊でも行かね?」


 笑い混じりに尋ねてくるKに、友達は思い当たる節がなかったので断りを返したそうだ。

 そもそも部屋で独り言を言っているかも、あまり意識していない。

 言われたせいで逆に気になってきたじゃないか、とぼやいた友達に、Kは明るく、悪い悪い、と笑っていた。


 ただ、その話をして別れた際に、友達は些細な違和感を覚えたのだという。

 掴みどころのない小さなものだったから、すぐに意識の外へと流れてしまったそうだが。



 違和感の正体に気づいたのは、次にRの方から話を持ちかけられた時だった。


「あの男、やっぱり俺に付いてきてるみたいなんだよ……」


 弱々しい声で呟くRの言葉を聞いて、友達は以前感じた違和感について思い出したそうだ。

 アレやっぱり男だったよな、と。


 Kの言葉が言い間違いでないとするなら、彼が聞いたのは女の声だという。

 けれども、Rが再び相談を持ちかけてきた話ではアレは男だったし、友達が聞いた声もそうだった。


 あの部屋には複数の何かがいた、と言うことだろうか?

 今ひとつ納得がいかずに訝しむ友達を置いて、Rはスマホを手に話を切り出した。


 あれからどうも気になって、Rはあのアパートについて調べてみたらしい。

 そうして調べた結果分かったのは、彼処には何一ついわくになるような出来事はなかった、ということだった。


 あの部屋に限らず、アパート自体でも事故らしい事故もないし、死人も出ていない。近場で事件があった訳でもない。

 土地に何かがある様子でもない。もちろん、Rには調べようもないような深い事情があることも考えられるかもしれないが。

 少なくとも調べられる限りは、あそこに変な噂は無かった。


 だからこそあの男の声が何かも分からなくて、何だか前より不気味に感じるのだと言う。


「Kはその話知ってるのか?」

「この間二人で話したけど、なんか変な顔してたかな」


 おそらく、性別の違いが気に掛かったのだろう。

 Rはアレが男だと信じ切っているから、わざわざKの方に出た幽霊の性別など聞かずに話したのかもしれない。

 Kの方には女性の霊か何かがついているらしい、と伝えると、RもRで、少し妙な顔をした。


 男だったよな、と確認されたので、一応頷いておいた。

 けれども友達としては、声を聞いたのはあの一度切りで、それ以降何かがあった訳ではないから、確証を持って肯定できるかというと微妙だったようだ。


 ただまあ、何かがいたことだけは確かである。

 お祓いとか考えた方がいいのかもな、と溢した友達に、Rは絶望的な声で「でもそれって金かかるじゃん……」と弱々しい声で呟いていたそうだ。

 何をするにも金が掛かる。世知辛い話だった。



 それから更にしばらくして。

 今度はRとKが二人揃って友達のもとへとやってきた。


「例の何かが、混ざり始めててさ」


 二人は口を揃えて、そんな風に言った。

 全くピンと来なかったもので首を傾げる友達に、二人は起こった変化について語り出した。


 Kが自分の元についてきたと思っていたアレは女だったし、Rが自分の部屋にいると思っていたアレは男だった。

 それは間違いがない。


 けれども、二人が互いの見たアレの詳細について確認が取れた頃から、それらがごちゃ混ぜになり始めたのだという。


 男のように聞こえることもあれば、女のように聞こえることもある。

 挨拶をしなければ出て来ない筈なのに独り言にも反応し始めたし、なんだったら、勝手に風呂場の扉越しに影が出るようになった。

 玄関の前に髪の毛が落ちるようになったり、ベランダで変な声が聞こえるようになった。

 寝ている間に足を触られる感触があった。カーテンが勝手に膨らんでいた。

 やたらと右手を怪我する頻度が高くなった。片耳が最近聞こえにくいような気がする。聞こえにくい方の耳の側で、何かが喋っているような気がする。


 友達はそれらを聞いている内に、一旦、二人の会話を遮ったそうだ。


 一度止めた方がいい、と思ったのだという。

 なんというか、多分、全てが良くない方向に向かっている気がして。


 怪奇現象を語る二人の声には、なんだか嫌な熱が篭っているように聞こえたそうだ。

 友達は、一旦、話の主導権を譲ってもらった。


 まず、事実として。

 始まりの、『ただいま』と呼びかけることで『おかえり』と返ってくる声──という現象自体は実際にあったことだ。

 それらは何の曰くもなく、死人も何も出ていないアパートで、おそらくは偶発的に始まった何か・・である。


 けれども、ただの声だったはずの怪奇現象は、今では立派な実害を伴うようになっている。

 二人が例の何かをおかしい、と思い始めてから、急速に。


 友達の頭には、その時一つの仮定が浮かんでいたそうだ。


 聞こえた声の性別に違いがあったのは、Rの話を聞いた時に思い浮かべた声が異なったから、ではないだろうか?


 Rは初めに『何か』の話をするときに、特に性別に言及はしなかった。

 彼にとっては自室に何かがいるということが重要であって、いないことさえ確かめられたらそれでいいから、必要のない情報だったのだろう。


 あの時のKはなんとなく、その何かを女性だと想像したのではないだろうか。そして、友達自身は、男性として想像をした。

 だから、聞く人によって声の印象が変わったのではないか。


 それはつまり、件のアレは、想像によって形を変える何かである、ということだ。

 そんなものを相手にしているのなら、もしかしたら二人の間で何か良くない想像が膨らみすぎているために、こんなことになっているのではないだろうか。


 そんな予想を語った友達に、二人はしばらくの間、黙り込んだ。

 多分だが、何か心当たりがあったのだろう。


 Rはしばらくの沈黙の後に、ぽつりと呟いた。


「……俺さあ、防犯の為に『ただいま』って言ってる時に、返事が聞こえたらやだなーって思ってたんだよね」


 嫌だな、と思っていたことが、気づいたら本当になっている。

 やはり、今二人に起こっている現象についても、同じような状況であるらしい。

 あそこに居たら嫌だな、こういうことが起こったら嫌だな、と思っていることが、現実になっている。


 友達は、一回本当にお寺でも神社でも、自分が信じられるもののところに行ってみることを勧めたそうだ。

 もしも思い込んだことで起こったのだとすれば、同じくらいに思い込めるようなものに縋れば、きっと本当に効果があるのではないか、と。

 少なくとも、このまま変に悩んで袋小路に陥るよりは、よほどまともな選択ではないか、と。


 あくまでも真剣に提案した友達に、二人とも比較的素直に頷いたそうだ。

 その後、二人はそれぞれ何やら解決のために動いて──それ以来、特に妙なことは起こってないのだという。


 そうして何もかもがすっかり落ち着いた頃、Rはぽつりと呟いた。


「でもさあ、結局、あの『おかえり』の奴は、なんの理由もないのに現れたってことだよなあ」


 心底不安そうなRの声を、友達は今でもなんとなく思い出すことがあるらしい。







「────怖かった?」


 年明け初めての怪談である。

 約一週間ぶりに出てきた隣人は、これまでと何ら変わりない調子で、仕切り板の向こうから口を覗かせた。


 新年だろうがなんだろうが、特に予定には変わりはないらしい。

 ただ、いつもよりも長めだった気がするのは休眠明けだからなのだろうか。


 そんなことを考えながら、此方も普段と変わらず、軽く感想を述べておいた。


 確かに、勝手にこっちの想像を喰らって育つような怪奇現象は、素直に怖い。

 俺もたまに、部屋で独り言とか言ったりするが、それに返事が来たら嫌だし、不安にもなる。

 不安に思うことをやめる、というのは大分難しいので、結構厄介なのではないだろうか。

 特に今回の場合は、実際に起きているのを目の当たりにしている訳だし。


 いや、まあ、俺も毎日のような見てはいるんだが。あれも、過度に怖がったりしてたら勝手に増えたりすんのかね。

 シンプルに嫌だな。実害があるところが特に。


 なんとも言えない気持ちになりながら、俺は半纏のポケットから、怪異──あるいは幽霊からの手紙を取り出していた。


 今朝方、玄関扉についている郵便受けに入っていた手紙である。

 差出人は澄江由奈だ。七〇五号室から来て、直接俺の部屋に投函したのだろう。

 どうやったのかは、あまり考えないことにした。


 変に機嫌を損ねるといけないので、一応は隣人にも見せるつもりでベランダに出る時に持ってきたのだ。

 もうすっかり興味が失せているのか、初めに見せても、あまりこれといった反応はなかったが。


 ちなみに、手紙といっても便箋に書かれている訳ではない。

 ノートか何かを千切ったらしき紙に、べたべたの何かで辿々しい文言が綴られている。


 読み取れる限りの文言を整理するに、どうやら澄江由奈は『おかあさん』を欲しているらしい。


『おに さƕ   は  

   お かあさん ɭ ɿらなぃと ᘮと と おもします』


 並ぶ文字列を眺めながら、ぼんやりと考える。

 いるか、いらないか。死んだら嬉しいか、という問いと比べれば、幾分答えやすい気はした。

 だがこの場合、どちらにどう答えても、結局行き着く先は同じではなかろうか、とも思う。


「あげるの?」


 隣人は若干愉快そうな響きを隠しもしない声で、なんとも気軽に尋ねてきた。

 答えるつもりもない内に、うーん、と唸り声が漏れる。白い溜息が、ベランダに緩く溶けた。


「そもそも、くださいって言われたって、俺のものでもないしなあ」

「別に、いいよーって言えばいいんだよ。それだけだよ」


 どこまでも、純然たる事実を述べるだけの声音だった。

 だからきっと、単なる事実なんだろう。いいよ、と言えばそれで済むのだ。おそらく。

 済ませていいのかどうかは、さっぱり分からない訳だが。


 何となく、拠り所を探すようにして首元を摩っていた俺の隣で、あいつはのんびりとした声で呟いた。


「ユナにあげたら、りさいくるだし、えこだよ」

「なんて?」

「えすでぃーじーずだよ」

「何?」


 SDGsは別に違くないか? ちゃんと分かって使ってないだろ。

 あと今、もしかしなくても俺の母親をリサイクルする話をしてるか?


 突っ込みたいことが諸々多すぎて、あれこれ言い合ってる内に、隣人はいつものように挨拶を残して引っ込んでしまった。


 とりあえず、SDGsについては、俺も別に上手く説明は出来なかった。

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