20
時間と空間から切り離された部屋で朝を知る為に、女神ポリムはわざわざ窓の外に太陽に似せた光を上げている。それを感じてからベッドから起き、まずは瓶に溜めた水を汲んで、顔を洗う。それから朝食用のパンを焼く為に、石窯に火を入れ、オーブンが温まるのを待つ間に、飼っている鶏から一つ、卵を貰う。スープは残り物の野菜があったのでそれを刻み、適当に鍋に放り込み、水を張ると、竈の方にも火を灯して鍋を掛け始める。
外では小鳥の
朝の清々しい時間だ。
けれどこれを姉たちは理解しない。
何故下等な人間と同じように振る舞うのか。
何故わざわざ面倒な工程を経て食事をするのか。魔法の力を使えば一瞬で食べ物を出現させられるのに。
そもそも人間のように食事をする必要がないのが、女神ではないか。
そんなことを、姉たちは言うのだ。
けれどポリムにとっては愛すべき人間という存在をより深く理解し、それぞれの物語を様々な角度から楽しもうという、そういう気持ちでいるのだ。それに何もしなくても永遠の生命とも呼ぶべき無限の時間を過ごせる女神とは違って、人間の生には限りがある。それに生きていく為の制限も多い。だがそれ故に、女神たちにはない不思議な文化が生まれることを、ポリムは幾らか羨ましいと感じている。
かつて姉の一人はそれを「嫉妬」と呼ぶのだと言ったが、ポリムは人間に嫉妬を覚えているとは思わない。ただ、少し羨ましい。それだけなのだ。
だから時々、物語の書を手に取り、その世界に入り込む。住人になりすまして、その世界を見聞する。
それは禁じられた行為だけれど、誰も罰しにやってこないのだから、実質禁じられていないことと同義だ。
「あ、そろそろ焼けたかしら」
オーブンを覗き込むと、鉄板の上でこんがりと焼き目の付いたパンが、彼女の両手で掴まなければならないほどに
「焼き立ての香りはたまらないわね」
パンというものも、物語の世界から彼女が学んだものだった。その世界の歴史によって種類や固さ、製法が異なるが、
他に野菜の出汁が出たスープと、鶏卵は目玉焼きにして、脇に香草を添えた。
朝食を作るのにオーブンの予熱の時間なども含めて三十分ほど掛かる。でもその時間を費やすことが何の出来事もない平凡で退屈な女神の生活に潤いを与えてくれる。
「どうしてそれがお姉様たちには理解できないのかしらね」
ポリムは席に就くと、手を合わせて感謝した。
「今日の焼き具合はどうかしら」
美味しい食事への期待に頬を緩ませながら、彼女が厚めにスライスしたパンに手を伸ばした時だった。
「朝食、ですか。実に人間らしい朝の過ごし方をしているのね」
「クレイアお姉様……」
濃い群青の髪を背中で揺らし、紺色に彩色された甲冑に身を包んでいる女性が、いつの間にか対面に立っていた。ポリムの姉であり、歴史の女神クレイアだ。
彫像のような、ある意味で美しいが温かさを感じさせない涼やかな目鼻、青く、時折光る唇、白すぎる肌の喉元が動くのを、ポリムは緊張感を持って注視する。
「優雅、と呼ぶのよね、人間の世界では、こういうのを」
「は、はい」
「それで、
姉が敢えて「進捗」という言葉を使ったことから、ポリムは背筋に氷を一つずつ詰められているような気がしてくる。返答によっては一つどころではなく、一気に全身が凍りついてしまう場合すらあるから、ポリムは掴んだパンの切れを皿に戻すと、何と返したものかと一瞬、その視線を後ろの本棚へと向けてしまった。
本棚には彼女が管理している物語の世界を閉じ込めた本が並んでいる。分厚い革の表紙で包まれたそれらが背表紙を見せているが、その底の部分が黒く滲んでいる。特に酷いのが『シンデレラ』と女神の字で表記されている一冊だ。それはシミがあるとか、黒ずんでいるという程度ではない。見ている今そこで、それは大きく一度跳ねると、どろりと黒いヘドロを吐き出し、本棚を超えて床へと落ちた。
「前回来た時よりも悪化しているようね。あなたが優雅に朝食を食べている間にも、シンデレラの世界は崩壊していっていると、そういう認識で宜しいかしら?」
「あ、あのですね」
ポリムは椅子から立ち上がり、自分の背で本棚を隠しつつ、大きな身振り手振りを交えて「悪化している」という言葉を何とか誤魔化そうと言葉を
「今、わたしたちがこうしている間にもですね、わたしが仕込んだ従順な下僕がこのシンデレラの世界に入り込み、歪んでしまった物語の理を修正しようと、こう、がんばっているところでして」
「下僕?」
「はい、そうです。下僕さんたちです」
「たち?」
クレイアの細い目が更に細められる。
「あー、えー、その、色々な方面からの修正が求められておりまして、一人では足りないと感じたので」
「ので?」
「二人。それだけです」
「あなたは女神の戒律について、まさか忘れてしまっているということはないでしょうが、それを踏まえた上での今の発言ということで宜しいのかしら?」
女神の戒律。それはポリムたち世界の女神を縛る鉄の掟である。守るべきルール、従うべき決まり事として女神の理というものがある。けれどそれは仮に守らなかったからと言って何か罰を受けるというものではない。
しかし戒律は違う。それは破ることがいけないのは当然として、もし違反したことが知れれば、最悪女神としての資格を失う。権能を奪われてしまう。
かつて一人だけ、その戒律を破り、堕天(この世界を離れることをこう呼ぶ)した女神がいたという話を、姉クレイアから聞かされたことがある。その後彼女がどうなったのかは歴史を管理する女神であっても分からないそうだ。ただ、どの世界に堕ちたにせよ、女神が人の世界に堕ちて無事である訳がなく、おそらくは悲惨な最期を迎えたのだろうと言っていた。
そうである。女神でなくなるということは死が訪れるのだ。いくらポリムが人間に憧れを持っているとしても、自分の永遠であったはずの時間に終わりが訪れるようになるというのは受け入れられない。
だから絶対に女神の戒律だけは破ってはならないのだ。
「わたし、戒律は破っていません、姉様」
「けれど我々女神はそれぞれが管理する世界への直接の介入は戒律により固く禁じられているでしょう?」
「ですから、わたしは何もしていません」
「何も? でも先程あなたは」
「下僕とは言いましたが、わたしの一部ではなく、別の物語世界の住人ですから、わたしが直接何かをして世界を修正しようとか、そういうことは全くしていません。彼らが勝手にやっているのです」
一瞬目を上にやり、クレイアは考え込む。けれどそれもほんの一瞬のことだった。すぐに小さく首を振り、溜息を零す。
「他の世界というのはシンデレラの世界以外の住人ということですね? あなたは別の世界の住人を、シンデレラの世界に転生させてしまったというのですか!」
「て、転生してません! 転生じゃないです! あくまでゲストとして見聞しているだけです! だから彼らはシンデレラの世界には一切危害を加えられません。大丈夫です! そこはしっかり守っています! 守らせています!」
「あのね……」
腕組みをしたクレイアは珍しく声を荒らげそうになったが、唇を噛み締め、そこをぐっと耐え、背中を見せる。
「世界同士を混ぜた時に何が起こるのか。あなたも知らない訳ではないでしょう。ですから決して」
「はい。分かっています」
「……ともかく、頼みましたよ。その謎の世界崩壊症候群については余計なことはせず、調査と経過報告だけすれば良いのです。喩えあなたの好きな世界が壊れてしまったとしても、それも一つの歴史かも知れないのですからね」
クレイアはポリムの方を見ることなくそう言うと、
「こちら、一枚いただけるかしら」
切り分けてあるパンを一つ摘み、それを一口齧った。
「人間らしい、味ね」
砂山が崩れ落ちるようにして姉の姿が消えてしまうと、ポリムはどっと疲れた体を思い切り椅子の背もたれに投げ出し、女神とは思えないような低い声でただ「あぁぁぁぁ」と漏らしたのだった。
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