12
「わあぁ」
一歩、城の中に足を踏み入れると巨大な玄関ホールがチェルを出迎えてくれたが、その荘厳さに思わず声が漏れた。
床は大理石が綺麗に並べられた上に、真っ赤な
「あぁ、忙しいったら……ん?」
その天井絵を見上げてぼんやりと佇んでいるところに、チェルとそう大差ない身長の侍女が右手にバスケットを提げ、小走りにやってきた。
「あんた見かけない子ね」
「あの、あたし、侍女長様に会うように言われてきたんですけど」
「ああ。もしかして昨日来るって言って来なかった新入り? だとしたらもう手遅れよ。ヒルデ様は時間厳守。それを守れないような人間はゴミと、普段から言ってるし」
今まで何となく会話の端々から漏れていた雰囲気から、そういう人物だと想像は付いたが、ここで簡単に諦める訳にはいかない。そもそも目的は侍女長ではなく、王子に会うことなのだ。
「遅れたことは謝ります。昨日はどうしても来られない事情があったので。ともかく一目でいいんで、会わせてもらえませんか? お願いします」
「会うのはいいけど、アタイ今忙しいのよね」
「じゃあ手伝います。その後で紹介してもらえますか?」
「ほんと? 手伝ってくれんの? いや悪いわねえ。ここの人でもないのにさ。けど、只でさえ忙しい中であのおヒル様ったら、どんどん侍女辞めさせちゃうし、他の使用人や料理番にも散々文句言ってこっちは勝手に目の敵にされちゃうしで、ほんと大変なのよ。
無茶苦茶なことを言われた気がしたが、チェルは気にせず笑顔を浮かべ「それで何をすればいいんでしょう?」と、いつまでもお喋りを続けそうな彼女を
ジル、と名乗った彼女はチェルより二つ歳上の、まだ半年ばかり務めている新しい侍女だった。
「今ね、お城にドレスの先生たちがいらしてて、その方たちの世話で人手が足りてないのよ。その上で、王族や泊まっている貴族の部屋の掃除と食事の準備、おまけに今日は兵士たちの衣服一式を洗濯しろって言われちゃって」
「でもこれだけ大きいお城なら、それぞれ担当の使用人がいるんじゃないんですか?」
「いたのよ。でもね、おヒル様が侍女長になってからはチクチク、チクチクとあれは駄目これは駄目、もっと丁寧にやれ、もっと早くやれ、仕事が雑すぎるだ、どうして自分で気づけないだの、細かすぎてみんな付いていけなくなって、どんどん辞めちゃったのよ。お陰様でこっちは掃除に洗濯、炊事に着替えに御用聞きにと、足が十本あっても全然足りないわ」
彼女はとにかくよく喋った。チェルが一つ尋ねると十返ってくる、というものではなく、尋ねる以前に自分から、まるで
「ところで今は何をしに向かっているんでしょうか」
「あら、そういえばどこに行くんだっかしらね」
ジルのバスケットには空になったワインの瓶が二本、入っている。
「ひょっとしてワインのお替りとか?」
「あー、そうだった!」
彼女は大きく手を叩き、お化けみたいな二重の目をぱちくりとさせた。
「じゃあ、こっちじゃないわ」
ずっと赤絨毯を踏まないようにその脇を歩いていたのだけれど、急に方向転換し、回廊の壁の方に寄っていく。しばらく行くと右手に地下への階段が見えてきたので、ジルは「こっちよ」と言ってそこに入っていった。
明かりがなく、入口から遠ざかるほどにどんどん足元が見えなくなる。それでも構わずにジルが進むものだから途中で付いていけなくなり、チェルは手を壁につけて恐る恐る歩を進めた。壁はひんやりとして、それが心地良い。
ほとんど見えなくなり、右手の感覚だけを頼りにして降りていくと、ジルの声に続いて扉から漏れた明かりの筋が伸びているのを見つけた。扉を開けて中に入ると、膝丈のズボンと黄ばんだシャツを着た大柄な男性が木箱から次々にワインを出しては、棚に並べていた。ジルはその男性に何やら話しかけて笑っている。
「あら、チェル。遅かったわね」
「暗い中でよく歩けますね」
「慣れよ慣れ。いちいち火を点けてから下りたり上がったりしてたら間に合わないでしょう?」
そうは言うがこの男性が部屋にいてランタンを点けていなかったら、暗闇の中でもワインを手に取ることが可能だったのだろうか。流石にそれは無理だと思いたいが、世の中には信じられないことをやってのける人もいるので、彼女がそういった特殊能力持ちの可能性は捨て切れない。
「ここはワインばかりなんですか?」
石で壁と天井が造られていた。外よりも少し温度が低いように思う。チェルの村でもワインの
「ワインだけじゃないが、ここは九割方ワインだな。何でも王様だかお后様だかがワイン好きらしくてな」
ジルの代わりにその男性が答えた。
「王子よ。ほんと、朝からワイン何本開ければ気が済むんだか」
「俺は沢山飲んでもらえれば儲かるから、朝からでも昼からでも、それこそ水浴びするように飲んでもらって構わないぜ」
「そりゃあね、あんたら酒屋はさ、そうだろうけど。空になる度に怒鳴られる身にもなってよ。どうせならいっそこの部屋で暮せばいいんだわ、あのクソ王子」
彼女から出た「王子」という言葉に、チェルはにんまりと口元に笑みを溜める。
「そんなにここの王子様ってワイン好きなんですか?」
「好きどころじゃないわよ。あの馬鹿、ワイン切らす度に暴れるもんだから、常に誰かが見張ってないといけないし、ただでさえ人手が欲しい時に余計な人員割かなきゃいけない訳よ。それだけならまだしも、アレがあるからさ。アタイら誰も近づきたくないのよね」
アレと言われ、チェルの頭にはヨギのところで少し出ていた話を思い起こす。
「そんなに誰も近づきたくないなら、あたしが行ってきましょうか? 王子様のところ」
「あら、ほんと? あんたって意外と使えそうな娘ねえ。それじゃあ頼んじゃおうかしら」
ジルは自分のやりたくない仕事を押し付けることができて嬉しそうだ。こういうオツムの弱い使用人ばかりだと動きやすくなるな、とチェルは一人ほくそ笑む。
「あ、でも王子様の部屋、あたし知らないんですけど」
「あそっか。じゃあ、部屋の前まではアタイが案内したげるわよ。それならいいでしょ?」
「そうですね」
笑顔で頷いたチェルに、ジルは口元を隠して笑う。
「ここの王子様って本当に優しい人だから、あんた、きっとすっごい驚くと思うわよ」
それが普通の優しさではないことは、彼女や酒屋の男の表情を見るまでもなく分かった。けれどそれでも構わない。いや、寧ろその方が都合が良い可能性もある。
別にチェルは良い人を探している訳ではないのだ。
あの気持ちの悪いシンデレラと結婚してくれる、ただその条件を呑んでくれる王子という人間を求めているだけなのだから。
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