叛逆者マルギット
二六イサカ
プロローグ
美しき夜
暗闇の中、ペトラは眼を覚ました。意識もハッキリとしている。それは一体何故か? 訝しみ上体を起こすと、窓の外を観た。
春の夜の月光が川面に反射し、それによって浮かび上がった対岸の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
何のことはない。そう思おうとした時、ふと鼻の先を嫌な匂いが撫でた。それは神殿に供物として捧げられる、犠牲獣の血肉に似た匂いだった。
訳の分からぬ不安に襲われたペトラは寝床から出て、廊下に出た。赤ん坊が眠る部屋に着いた時、驚いた乳母が小声で言った。
「こんな夜更けに、どうしました?」
「分からない。ただ無性に、子供達の顔が観たくなって…」
ペトラはそう言うと、身を乗り出して揺籠の中を覗き込んだ。
赤ん坊は、静かに寝息を立てている。だが恐怖や不安といった感情とは無縁の娘の寝顔を観ても、母親の心は収まらなかった。
「大丈夫ですか?」
「分からない。リポルト様はまだ帰らないのね?」
「はい。今晩は遅くなると仰っていましたから」
「そう。そうよね…」
心地良い夜風が吹いた。風に運ばれ、またあの匂いがしたようだった。窓向こうの夜闇は、奥行きのない壁のようにペトラの眼に迫って来た。
「ユゼフの様子を観てくるわ。アルマ、この娘を頼んだわよ」
「ペトラ様、一体どうしたのです?」
ペトラは黙って、頭から羊のような角を生やした
残されたアルマは廊下に顔を出し、ペトラが向かいの部屋に入ったのを見届けると、言われたことを思い出し、慌てて揺り籠に駆け寄った。
丁度その時、廊下から甲高い女の悲鳴が響いた。
勢い良く外に出ようとしたアルマは、7、8人の甲冑姿の男達がペトラを取り囲んでいる様を観、慌てて部屋に隠れた。主人を助けねばならないのに足は恐怖ですくみ、動かなかった。
「一体何事です!」そう叫ぶ女の鬼気迫る顔を、兵士達の持っている松明が照らした。
「ここを皇帝陛下の弟君、リポルト様の屋敷と知っての狼藉ですか! こんなことは許されない。所属を名乗りなさい!」
母親の腕に抱かれていた幼子が眼を覚ました。幼子は眠たそうに眼を擦ると、辺りをキョロキョロと見回す。
隊長格の男が前に出ると、懐から丸められた紙を取り出し、読み上げた。
「皇帝陛下の弟君、リポルト公は、恐れ多くも皇帝陛下に対し謀反を企てた疑いにより、これを逮捕する。妻子も同様である」
男は言い終わると、紙を無造作に戻した。そして何も言わず、ただ相手の反応を待った。
「母様、なあに?」
幼子が母親の顔を見上げ尋ねると、ペトラは我が子の頬に自身の頬を擦り寄せた。
「大丈夫よ、大丈夫」
息子の額に優しく口づけをすると、ペトラは兵士達に向かって毅然と言った。
「何かの間違いです。私の良人が、リポルト様がそのようなことをする筈がない」
「話は後で伺います。マルギット様は何処か?」冷たく、隊長格の男が言い放った。
「此処にはおりません」
だが男は意に介さず、部下達に屋敷の中をくまなく探すよう命じた。
一部始終を目にしたアルマは急いで赤ん坊を揺り籠から抱き起こし、適当な布で包むと、窓から飛び出した。
ペトラは警戒するように、男の腰元にある剣を観た。腰元には剣の他に、2本の小枝を斜めに交差させたお守りのようなものが垂れ下がっている。
それは確か、来訪者を崇める者達が肌身離さず持っている物の筈であった。
(皇帝親衛隊の中にすら、来訪者を崇める者がいる…)
ペトラは、ある1つの憶測を導き出した。これは恐らく、来訪教徒の宰相による謀ではないか。だが一体どうして? 良人が彼らに何をしたと言うのか。
「こちらへ、馬車を待たせてあります」感情の籠らぬ声で男は言うと、道を開けた。
「ねえ、母様。おしっこ」
「しょうがないわね」優しく、母は子に言った。
「行く前に、良いでしょう?」
男が黙って頷くと、ペトラは厠へと走る幼子の後を追って歩き出した。その時ふと、チクリとした痛みが脇腹に走った。
男が剣を引き抜くと、女は身体を支える力を失い、膝から崩れ落ちた。
「母様、母様、こけたの?」幼子は振り返ると、倒れている母親の側に駆け寄った。
薄れゆく意識の中、母親は我が子に向かって手を伸ばした。
◇
アルマは、暗闇の中を1人走っていた。木の枝に額を叩かれ、足首を捻り、履物が飛んでも、抱いた赤ん坊を決して落とさぬよう走り抜いた。
丘を降りきり、川辺に止まっている船の陰に隠れると、アルマは初めて後ろを振り返った。
今や、丘全体が蠢く松明の光によって不気味に照らし出されていた。光は1つの場所に集まったかと思うと、一斉に上下左右へ動き出し、また散らばった。
あちこちに散らばる屋敷の中からは、時折人の叫び声や、物が壊れる音、何かが激しく打ち合う音がする。
女が恐怖に震えていると、胸元に抱えている赤ん坊が何か寝言を言った。
アルマはハッとし、赤ん坊の顔を覗き込んだ。その安らかな寝顔は、目の前の奇怪な風景とは対照的だった。
「大丈夫、何も心配はありません。必ず、このアルマがお守りいたします。何があろうと、必ず、必ず。マルギット様…」
東に向かって歩く女の背中は春の美しい夜闇によって覆い隠され、直に見えなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます