第1章

赤毛の少女

 青年の目の前に、鬱蒼と広がる深い森が現れた。森は左右に長く、また一本一本の木は幹も、枝も、葉も、空に向かって鋭く伸びている。


 森は大手を広げた怪物のようにも観え、青年を呑み込もうとする巨大な存在の寓意であるようにも思えた。


 皇帝ジグモンドが死んで5ヶ月が立っても、この帝国の未来には黒雲が立ち込めたままである。


 いや、黒雲は5ヶ月前に現れたのではない。もっと遠い昔の日に、それはこの国に現れたのだ。


    ◇


 半ば伝説と化した苦い物語の始まりは、峻険な大山脈によって東部より遮られた帝国の西部に、1人の奇妙な男が現れた事にあった。


 聞き慣れぬ言葉を話し、素性も信仰も家も持たぬその男は、魔術に優れ、また人々をよく助けたので、直ぐに民衆の支持を集めることとなった。


 帝国にとって不運だったのは、付近に駐屯していた軍が、規律の緩い、どうしようもない二線級の部隊だったことである。


 彼らは戯れに近隣の村々を襲っては食料を奪い、人を攫った。民衆が男に縋ったのは、無理もないことであった。


 男は数人の同行者達と駐屯地に出掛け、彼らと交渉しようとした。そこでどちらが先に手を出したのかは、今となっては分からない。


 ただ来訪者を賛美する「神書」とやらには、仕掛けたのは帝国軍の方であり、男は自らと民の命を守ったに過ぎないと書かれている。


 だが結果として、この哀れな部隊はたった男とその仲間達によって殲滅されたのだ。


 この話は瞬く間に西部全体に広がり、男の元には帝国政府に反感を持つ多くの民衆が集まった。


 小競り合いはやがて大規模な反乱となり、事態を憂慮した政府は、山を越えて西部に鎮圧軍を送った。

 

 鎮圧軍は大損害を被りながらも、なんとか反乱軍を打ち破り、男を捕らえた。皇帝は多くの助命嘆願を無視し、見せしめに男を処刑した。


 後から見れば、これが大きな過ちだったのだ。


 男の死は反乱軍にとっての象徴となり、帝国を打ち破るという強力な意志の源となった。以来何度も西部には、男のような異質な人間が現れるようになった。


 彼らはこの世界とは違う異世界から来た者、来訪者と呼ばれるようになり、常に反乱の旗印となった。


 反乱は恒常化し、帝国は身を削りながら、その鎮圧に多大な労力を払わねばならなかった。

 

 そして幾人かの来訪者がやって来た後、遂に帝国はその膝を屈した。


 反乱軍は来訪者とその子孫を君主とする新たな王国を打ち立て、帝国はその領土を大幅に失った。

 

 失ったのは、領土だけではなかった。長引く戦争によって物資は困窮し、経済は疲弊し、人々は心身共に打ちのめされた。


 敗戦により皇帝の権威は失墜し、それまで友好的だった隣国は、一斉に態度を急変させた。


 もし、生まれたばかりの王国が国内の復興を優先せず、山を越えて軍を進めていれば、帝国は今日まで永らえてはいなかったに違いない。

 

 それから数十年、帝国の軍備、経済は大幅に縮小してはいるが、隣国と上辺だけの友好関係を保つことにより、なんとかその残滓を留めている。


 だが何より一番の問題は、来訪者を神と崇める王国の信仰が、帝国領内にも少なからずの勢力を持っていることである。


 今だ古来の神々を崇める信仰が多数派ではあるものの、皇帝に対する敬愛と同様、人心は神々から離れつつある。


 もしも帝国の民全てが来訪者を神と崇める日がくれば、この国はその存在理由を失い、軍備でも経済でも勝る王国に、吸収されることだろう。


 そうでなくても、もう一度来訪者が現れた時、王国はその熱狂的な信仰心を持って、帝国を地上から消し去ってしまうに違いない。

 

    ◇


 青年はこのような祖国の窮状を憂う度、己の無力を呪った。


 それは光のない闇夜でもがくようであり、船を持たずに川の激流に呑まれるようでもあった。


 皇帝ジグモンドは暗愚であり、親族を根絶やしにする気狂いではあったが、古の神々の血を引く皇帝がいる限り、辛うじて帝国は帝国で居続けることが出来た。


 だが彼が跡継ぎを作らぬまま死んだ時、帝国は最後の存在理由を失ったと言えた。それでも青年は微かな希望を持ち、1人馬を走らせていた。

 

 皇帝の血統が見つかったと聞いた時、青年は父以上にその話を喜んだ。そして止める父を説き伏せ、自らの眼で確かめるため、帝都を後にしたのだ。


 そうこうしている内、闇夜の光を求め、激流を渡るための船を求める青年の目の前に、一軒の屋敷が観えて来た。


 立派な塀に囲まれた、辺境の森の中とは不釣り合いな屋敷。その中に、皇帝となるべき者が住んでいるのだ。


 青年は鞭を振るい、馬を急がせた。


    ◇


「すみません」


 青年は下馬すると、眼の前で固く閉められている門に向かって言った。


「誰か、誰かいませんか?」


 返答はなかった。冷風が吹き、着ている外套を揺らした。青年は周囲を見渡し、ぐすんと鼻を鳴らすと、今度は強く門を叩きながら言った。


「誰かいませんか?馬にやる水を分けて頂きたいのです」


「どなたです」今度は門の裏から、微かに女の声が聞こえた。


「旅の者です。長い道のりの途中、家が見えたので寄ったのです。国境を越える前に少しだけ休ませてくれませんか」


「村で休めば宜しいでしょう。ここより南に小一時間ほど行った所にありますから、そちらの方で…」気弱そうに、女が言った。


「お願いします」青年も負けじと、哀れな声色で答えた。


「人目を避けねばならぬ、哀れな私の境遇をどうかお察しください。馬に水をやり、ほんの一刻、休ませて頂くだけで良いのです。どうかお願いします」


「家主に聞いてまいります」


 女は門から離れて行ったようだった。暫くしてまた声がした。


「屋敷の中に入れるわけにはいきませんが、水ならお分けできます」

「ありがとうございます。貴方とご主人に神々の祝福がありますように」


「柄杓とバケツを渡しますので、ご自分で…」


 閂を外す音がすると、僅かに出来た門の隙間から、柄杓の入ったバケツを持った細い腕が飛び出してきた。


 青年はその隙間を片手で押さえつけ、もう片方の手で女の腕を掴むと、するりと自身の身体を門の中に入れた。


 地面に落ちたバケツから水が溢れると同時に、女の叫び声が響いた。


「な、何をなさるのです!」


 頭から羊のような角を生やし、髪を2本のおさげでまとめた獣人アヴァルの少女が言った。


「危害は加えぬ。マルギット様はどこにいる」

「そ、そんな人はおりません。人を呼びますよ!」


「警備が居ないことは知っている。マルギット様はどこか」


 自分を掴む腕を振り解こうともがくうち、少女は青年が腰に帯びている剣を観た。


 相手の眼が恐怖に震えていることに気がついた青年は、落ち着かせるように言った。


「心配しないでいい、危害は加えない。私はただ―」


「その娘を離せ!」


 その時、屋敷の中からもう1人の少女が飛び出してきた。着の身着のまま、少女は弩弓を手に青年を睨みつけた。


「魔物にも劣る愚劣な品性の輩、傲慢、恥知らず! 地獄の業火に焼かれるがいい!」


 驚き、青年は新手の少女を凝視した。髪は太陽のように赤く、眼は、この世の緑をすべて詰め込んだようだった。


 獣人アヴァルの少女は青年の気が散ったのを観ると、すぐさま腕を振りほどき、赤毛の少女の前に背を向けて立った。


「お、お逃げ下さい。マルギット様」


 マルギットと呼ばれた赤毛の少女は答えず、獣人アヴァルの少女の肩越しに弩弓の鋒を覗かせていた。


 青年は驚きの表情を隠さずに赤毛の少女に向かって歩み出ると、恭しく片膝を立て、頭を垂れた。


「非礼をお許し下さい。私は、駅逓長官ドミニク・ゼルハルジュが息子、フロリアン・ゼルハルジュです。貴方をお迎えに上がりました。


 人中の獅子、邪悪を打ち破る者、天がもたらした光、この世の全ての善き者が頭を垂れる、古の神々から受け継いだ高貴な血統。皇帝に、なるべきお方…」


 青年がそれ以上何も言わなくなると、獣人アヴァルの少女は後ろをを振り返り、困ったような顔をした。


「気狂いでしょうか?」

「多分、違うでしょう」自分には重すぎる弩弓を下げつつ、マルギットは言った。


「で、では、人の形をした魔物でしょうか?」

「きっと、もっと酷いものよ」


「ど、どうしましょう」

「屋敷に入れてあげなさい、ニナ。今夜は寒くなりそうだから」


 去り際に、マルギットはフロリアンと名乗る青年を一瞥した。風が吹く度、癖のある青年の栗色の髪が、小さく揺れていた。


 こうして、皇帝と宰相は出会った。

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