第26話 九郎義経『平家残党蜂起』す。

文治5(1189)年7月 紀州国 口熊野ほとりくまの 田辺

武蔵坊 弁慶



 こうして、守護、地頭が頼朝が任命権を行使することになった結果、諸国では当然のことながら、悶着が続発した。

 地頭を争う者、その一党に加味する者、反発する者、多種多様である。

 しかし、それらの紛争は、守護に任命された鎌倉武士達の武力によって制圧されて行った。


 完全に支配権が及ばなかったのは、平家が支配する九州と奥州藤原家だが、兄頼朝は奥州の藤原秀衡が陸奥守、城助職が越後守として、争いを避けた。現地豪族が国司になることは前代未聞で公卿の反対を押し切ってのことだった。


 また、四国の地頭も争いを避ける朝廷の意向により、実質支配をしている夜須行宗に落ち着いて、表面上は鎌倉守護の支配地となった。

 なお、紀伊の熊野は熊野三山の支配地であり守護の範囲外である。


 問題は伊勢及び伊賀で起きた。平氏西走後もその本拠地であった伊勢、伊賀には平氏家人が播居しており、伊賀の守護に大内惟義が任じられると、武蔵国の御家人大井実春が平家残党の討伐のため伊勢に派遣された。


 これに抵抗するべく平家残党は、平田家継を大将軍とする反乱を蜂起した。

 反乱の狼煙は、伊賀の守護大内惟義の襲撃から始まり、郎党が多数殺害された。

 時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山一帯を占拠し蜂起した。

 この報せに、都近くの平家残党蜂起に、都の院朝廷は著しく動揺した。

 史実で義経が頼朝の許可なく、後白河法皇により左衛門少尉、検非違使に任じられたのは、このような背景があったという説がある。



「兄者、蜂起した平田家継の本拠地は、すぐ隣の多気郡たきぐんです。鎌倉軍に破れれば、我らに半ば従っている沿岸部の度会郡わたらいぐんに逃げ込む郎党領民が出るのは確実です。如何致しますか。」


「伏仙坊殿、熊野の備えはどうしておる。」


「熊野三山の社殿の護りを除き、伊勢、大和へ続く街道には、いざという時の用意は致してござる。」


「半蔵、平家勢力の敗残の者共が度会郡に逃げ込むと、どうなると思う。」


「兄者、平生ならばいざ知らず、敗残の身となれば、食料、家屋敷を略奪し狼藉する暴徒となりましょう。度会郡の民の命が危ういです。」


「ならば、救けねばならぬなぁ。半蔵、水軍の者達に戦支度をさせよ。

 御曹司直伝の兵法、見せてくれようぞ。」



 数日後、近江国大原荘で鎌倉軍と平家残党が合戦となり、平家残党が大敗。平田家継が討ち取られ、侍大将の富田家助、家能、家清入道も討ち取られた。

 平信兼・伊藤忠清は行方をくらました。反乱はほぼ鎮圧されたものの、源氏方も老将佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大損害を受けた。


 その頃、田辺の湊では黒を基調とした鎧兜に身を固めた武者の軍勢1,500人が度会郡に向けて出陣していた。

 100人一組の軍勢は指揮官のみ騎乗しているが、この時代には少ない徒だけの軍勢である。

 長柄槍と盾の兵が1,000人、弓兵が300人、小型の荷駄を引く兵が200人余り。荷駄は兵糧と火炎瓶の投擲機である。

 

 沿道には民達が歓声を上げて見送り、一種のお祭り行列であるかのようである。


「あっ、信介さんがいるっ。信介さん〜、頑張って来て〜。」


「おおっ、信介。子らの人気者じゃのぉ。

 日頃の釣りの弟子達かのぉ。はははっ。」


「あ奴ら、戦を何だと思っているのだっ。命が懸かって死ぬかも知れぬと言うに、少しも心配しとらんっ。」


「はははっ、子らだけでなく、皆、我らが負けるなどとは思っておらぬのよ。

 このところの儂らの訓練を、驚きながら見物しておったからのぉ。」


 確かに、見たこともない隊形。特に集合楔形ファランクス陣形など、驚いたであろうな。 

 度会郡に入ると、民衆が『源氏の軍勢が攻め入って来たぁ〜。』と騒ぎ立てる。

 平家残党に伝わるように、あらかじめ、示し合せていたのだ。



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 平田家継の敗報を受けた多気郡の守備の郎党達は、戦いを諦めて度会郡に逃げ込み、さらに船で逃げる算段をしていた。


「大変にございますっ。紀伊から度会郡に源氏の軍勢が攻め寄せております。

 いずれが率いる軍勢かは不明ですが、源氏の白旗多数にて千を超える軍勢にございます。」


「なにっ、先手を取られたかっ。こうなれば

滝野の城に籠城して一戦構えるようぞ。

 我ら平家の意地を見せようぞ。各々方、よろしいか。」


 平家残党の乱は、史実では『三日平氏の乱』と呼ばれているが、三日では治まらず、事実はその後何年もに渡り紛争が続き、鎌倉の守護を悩ませている。


 

 源氏の白旗を掲げて、度会郡に軍勢を侵攻させ、平家残党の侵攻を諦めさせる武蔵坊弁慶の計略は、まんまと成功したのである。


『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。』

 戦わずして、相手に勝つというのが、最善の方策である。      【 孫子の兵法 】




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文治5(1189)年7月 九州筑前国 太宰府

平 宗盛 (43才)



 守護、地頭の任命制度は、九州にも波乱を広げていた。

 太宰府は北九州にあり、南九州までは中々覇権が及ばない一面もあり、特に日向国の肥沃と呼ばれる地域は、周辺の小豪族が土地の支配権を巡って以前から抗争が続いていた。

 朝廷、源氏の覇権を見越して、その権威につこうとする者、太宰府の平家の軍事支援をあてにして、平家側に立つ者。

 そして大半の豪族は日和見で利害によってはいずれかに加勢する、という混乱ぶりである。


 しかし、ここにとある勢力が介在して来た。

 薩摩の水軍が大隅の水軍と手を結び、太宰府配下の北九州の水軍と対峙したのである。

 加えて、伊予の河野通信が絡んで来たのだ。

 義経が勢力下においた四国において、爪弾きとされた河野通信は、朝廷及び頼朝の守護との接近を図るべく、平家水軍との合戦を目論だのである。

 河野通信は、平家水軍が薩摩大隅水軍と合戦の最中に、平家水軍の背後を突く作戦を目論んでいた。


 肥沃における戦いが太宰府側が不利となった数日後、北九州の平家水軍が日向に出陣した。 

 それを察知した薩摩大隅水軍も出陣し、両水軍は、日向灘で出会い頭の合戦となった。

 潮の流れで有利に立つ薩摩大隅水軍は、始めは優勢であったが、数で勝る平家水軍は別動隊が背後に回り込み逆転の様相を見せ始めた時、平家水軍の本隊の背後に伊予の水軍が姿を現した。


「うぬっ、諮られたか、源氏の水軍か。」


「あの旗印は、伊予の水軍かと。」


「伊予の水軍の背後に、さらに水軍が現れましてございますっ。もの凄い速さですっ。」


「くそうっ、これでは持ち堪えれぬぞっ。」


「と、殿っ。あの水軍は伊予の水軍に襲い掛かっておりますぞっ。凄いっ、伊予の水軍を次々と火だるまにしておりますっ。」


「もしかして、土佐の水軍かっ。四国では伊予が孤立しておるやに聞いたが誠であったか。」


「殿っ、伊予の水軍は壊滅っ。それをなした、水軍が引揚げて行きますぞっ。」


「むむ、我らも薩摩大隅水軍を片付けるぞ。」



 こうして、日向灘沖の海戦は、太宰府の平家方水軍の勝利に終り、上陸した兵力により反平家勢力は大損害を被り、敗退した。



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「宗盛様っ、お味方大勝利にございますっ。

 海戦は突然伊予の水軍が現れ、危ういところでありましたが、謎の水軍に助けられ、勝利を得ましたとか。その後は、上陸して危なげなく勝利したとのことにございます。」


「謎の水軍だとっ。いずこの水軍だっ。旗印はなかったのか。」


「それが、源氏の白旗であったと。おそらくは土佐湊の水軍であろうかと。」


「四国は、鎌倉の源氏ではないのか。」


 不可解だ。福原の時といい、今回も。我らを滅ぼさぬ源氏がいるとは。



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 その頃、伊予の高縄山城では河野通信が窮地に陥っていた。

 前年の租税を守護に直接納めるとして、四国地頭である夜須行宗に納めるのを拒否していたが、その報復に商品、種や苗の交易ができなくなり、それに怒った領民が反乱蜂起したのだ。

 ましてや、水軍の兵力が出払っており、瞬く間に諸城が反乱蜂起により落とされ、気が付けば領地境は、四国の軍勢に取り囲まれていた。

 此度の無断で平家攻めを起こしたことを謀反と断じて、夜須行宗が攻め寄せたのだ。

 河野通信の謀りごとに組みした院近臣の守護の罪も、鎌倉及び朝廷に糾弾されていて、後日罷免された。

 そして、河野通信は蜂起した民衆により、城に火を掛けられ、城と共に落命した。

 河野家の領地は、夜須行宗の直轄領となった。なぜなら、領民がそれを望んだからだ。



 肥前の松浦党を主力とする、平家水軍の勝利よりも、伊予の河野家の水軍があっという間に壊滅されたという噂が、瀬戸内の摂津の渡辺党瀬戸内の村上水軍、安芸の小早川家、伊予の越智家などの西国水軍に伝わり衝撃を与えた。

 何が衝撃かと言うと、そんな強力な水軍が、平家方に味方したということなのである。

 瀬戸内の水軍は、平家が都落ちして以降は、平家を見捨てて朝廷に従っており、平家の報復を受けるのではないかと恐れているのだ。


 史実では、熊野水軍が源氏方として『壇ノ浦の戦い』で活躍しているが、今は我が水軍であり、鎌倉方ではない。

 また、摂津の渡辺党は『伊勢大山屋』と南宋交易や奥州交易で、密接な関係となっており、半奥州陣営である。




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文治5(1189)年7月 紀州国 口熊野ほとりくまの 田辺

武蔵坊 弁慶



 伊勢の反乱は一応終息を見たが、反乱の芽は消えた訳ではなく、地頭が北伊勢の者とされたため、南伊勢の度会郡は領民が熊野への帰属を望んで強訴した。

 結果、朝廷及び守護は、院が熊野への信仰が厚いこともあり、度会郡に熊野の軍勢が出陣し平家の残党討伐に貢献したことの報償として、熊野三山への帰属を了承した。

 度会郡の漁村は、熊野水軍の一派でもあり、熊野水軍と揉めることを避けたこともある。


「兄者、なんとかなりましたなっ。」


「半蔵っ、儂の貢献が大なのじゃぞっ。少しは褒めぬかっ。」


「まあ、兄弟喧嘩はほどほどにしなされ。

 それで、度会郡の統治はどうしましたの。」


「母上、度会郡は新宮に任せました。

 まあ、本家筋なのですから、役立って貰わねばっ。」


「まあ、半蔵。本家を立てて上げたのではありませぬのか。呆れた。」


「はははっ、母上。対等な立場の別当家とは言え、熊野水軍も伊勢大山屋との繋がりも田辺家なしでは、成り立ちませぬからなぁ。

 あちらも、肩身が狭いのですよ。」


「半蔵。では、新宮の綾殿を娶ってあげなされ。気立ての良い娘だと、言うてたではありませぬか。新宮の家も安心するでしょう。」


「は、母上っ。綾殿は本家の跡取り娘にございますっ。それを娶るなどっ。」


「大丈夫よ、新宮の亀親殿とは話がついているの。新宮家は甥の慎太郎殿に継がせるそうよ。半蔵は綾殿に不満があるとでも言うのっ。」


「半蔵、詰みじゃ、詰んどるわい。素直に従わねば、母上に一生親不孝者と言われるぞっ。」


「いえ、不服などありませぬが、心構えができておりませぬので。」


「何を言ってるの。まったく、兄弟揃って情けないわねぇ。」



 こうして、田辺半蔵の嫁が決まった。本人は死刑宣告を受けたごとく、青ざめていたが。

 傍らで、弁慶は少し前までの自分を棚に上げて、陽気に笑っていた。

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