第2話 遮那王の下に集う者達。

嘉応元(1169)年9月 京下京区 五条堀川小路

遮那王(11才)



かたじけない、危ういところでありました。某はもと比叡のお山に修行した法師にて武蔵坊弁慶と申す。

 見ればそこもとは、まだ若子のご様子。」


「 • • 、武蔵坊弁慶なる者は、乱暴狼藉を働く荒法師と聞き及びましたが、礼節を弁えておられるのですね。」


「 • • 、命の恩人に無体な言葉を吐くほど落ちぶれてはおりませぬ。」


 野盗と戦いになった経緯を聞くと、清水観音に詣でる途中、女連れの三人の町衆が絡まれているのを見かねて助けに入ったところ、多勢を嵩に武器を奪おうとし諍い毎になったという。

 町衆は、逃げた後だという。


「清水観音には何か願を掛けられにか。」


「ははっ、某に相応しき主を求めるには、東西いずれに向えばよいか、お尋ねせんと思いましてな。」


「ん、主をお求めか。そなた、俺の共をしないか。俺は今から東国に行くつもりなのだ。」


「おおっ、さようでありますか。ならばこれはきっと清水観音のお導き。同道致しますぞ。」


 こうして、俺は弁慶を従えて、義経の記憶にある、都で知己を得た者達の所に別れの挨拶に向った。

 お比叡山の悪僧達、俊章、千光房七郎らなど。

この悪僧と呼ばれる者達は、乱暴狼藉も行うが悪人の意ではなく、当時の権力者である貴族にに立ち向う、言わば革命家であった。

 母が嫁いだ一条家に出入りする伊勢の商人、藤太、藤次兄弟。

 そして、一条長成に嫁いだ母の常盤御前。




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 伊勢の商人 藤太は、煎じ薬、焼物、衣服、生活雑貨などを手広く行う商人で、都の東西市で商いをする傍ら一条家などの貴族の屋敷に、御用聞きとして出入りしていた。


 藤原京の時代、大宝律令に始まる管設の市は東西に一箇所ずつ置かれ、平安京では朱雀大路を挟み七条に置かれていた。

 東市が月の前半,西市が後半に開かれ、交易商品も定められていた。

 京職に属する官人の市司 《いちのつかさ)》と配下の市人で運営され、財貨の交易,器物の真偽,度量の軽重,売買価格などを取り締まっていた。

 市には、市女 《いちめ》 という商い女がおり、庶民の交流の場でもあった。

 また公開の処刑場でもあり,辻説法の場でもあった。



「藤太、売れているか。」


「これは遮那王様っ、こんな所にお出ましとは如何なされましたか。」


「うむ、実はな、都を離れることにした。」


「それで、どちらへ。」


「東だ。しばらくは戻らぬ。」


『お待ちを。』そう言って藤太は、仮小屋の奥から銭袋を取出し、餞別だと渡してくれた。


「遮那王様、手前どもの鎌田屋は、伊勢の大湊尾張の熱田に店がございます。ご用命の折は、何なりとお申し付けください。」


「藤太、世話になった。いつか礼をする。」、


「そのような、お気遣いはなく。お帰りをお待ちしております。」


 藤太、藤次の兄弟とは、2年前に一条の館の庭で出会った。その時、藤太達は届け物のついでに女房衆に甘味を献上していたのだが、そこへ顔を出した俺に、童が喜ぶと思い水飴を差し出したのだ。

 へらについた水飴を一舐めした俺は、『水飴か』と呟いた。

 それを聞き逃さず、藤次が『ご存知でありましたか』と聞き返した。

 作り方を知らぬと言うので、水飴の作り方を教え、さらに、掻き混ぜて空気を含ませると、練り飴ができると教えた。


 憑依前の俺に、なぜそんな知識があったかというと、憑依の力は憑依してから遡って生後の人生すべてが俺になっているのだとか。

 そう、怨霊 義経が教えてくれた。


 水飴と練り飴を作った藤太兄弟は、市で評判の商人となり、かなり儲けたようだ。

 義父である一条長成にも、少なくない献上をし、義父はその銭で俺に太刀を求めてくれた。

 藤太兄弟とは、その後も雑談を交すようになり、都や他国の世情を聞いたり、見返りに牛の腸内油や鯨の油を教えたり、魚の干物、水飴と溜醤油で煮込んだ佃煮作りなどを教えた。 

 おかげで今では、伊勢の大湊に大店を構えているそうだ。




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 比叡山のお山には幾百もの宿坊があり、数多の僧侶が修行をしている。そして、お山を警護する僧兵も数多暮らしていた。

 そんな中の一つの宿坊に、俊章と千光房七郎らがいた。


「おお牛若っ、達者であったか。鍛錬は欠かしておらぬだろうな。はははっ。」


「ぼちぼちだ、七郎。俊章殿はおられるか。

 別れの挨拶に来た。」


「おるぞ、案内あない致す。」


「俊章様、牛若が来ましたぞっ。入ります。」


「牛若丸か、どうしたのじゃな。」


「俊章殿、此度、都を出ることに致しました。

 それで、お別れの挨拶に参りました。」


「そうか、いずれこの時が来ると思うていた。牛若丸、否遮那王。七郎を連れて行け、道中は危険じゃ。七郎、遮那王をお護りせよ。」


 

 俊章殿達との出会いは、三年前になる。父の仇討ちを心に秘めていた俺は、都の神社全てに祈願することを決意して、上下両賀茂神社、貴船神社などを巡っていたが、琵琶湖の畔大津にある日吉社に詣でた帰路、村人達と諍う比叡山の僧兵達と遭遇した。

 比叡山の地主神大山咋神を祀る日吉社の参道には、比叡山の里坊が多数ある。


「ええい、聞き分けのないことを申すなっ。

日吉社に奉納するのは叡山に奉納するのと同じと申しておるのだ。仏罰が降るぞっ。」


「何が同じだ。無茶を言ってるのはそっちじゃねぇかよ。渡せねぇものは渡せねぇんだよ。」


 訳を聞けば、鮒ずしの樽を買い上げるという比叡山の僧達に、日吉社に奉納する分だから売れないと言う漁師の者達の言い争いだと言う。

 俺は、今にも、かいを振り回して暴れそうな漁師達の前で声を上げた。


「漁師達の申しよう、如何にも道理。なれど、日吉社に奉納された後は、どなた様が召されるのか。」


「そんなことは知らねぇよ。」


「そうか、ならば今すぐ奉納なさるが良い。

 さもなくば、叡山の皆々様が皆の衆の舟など焼き壊しかねませんぞ。」


「ああ、そうすべか。」


「そこな、叡山の僧侶殿。日吉社の供物の下げ物を譲り受けるよう申されては如何か。

 お求めの品があるやも知れませぬ。」


 そんなやり取りがあり、のちに聞くと日吉社は、すかさず叡山の僧兵達に売り渡したそうな。

 そして、その話が荒法師の僧兵達の師である俊章殿に伝わり、一条の館に七郎が礼を言いに来たのが、俺と俊章殿達との始まりだった。

 俺のことを気に入った七郎は武術の稽古をつけてくれることになり、叡山へ足繁く通うことになったのだ。




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 その夜、更けてから一条館の母 常盤御前の部屋の前へ来た俺は、宿直の見知った侍女に、母上に別れを告げに来たことを告げた。

 侍女は、もう寝入っていた母上を起こしてくれた。 


「母上、遮那王にございます。勝手ながら一条様の出家の申し付け、拒みましてございます。

 これから、東国に参り父上の仇を打つべく、力を養う所存にて、お別れの挨拶に参りました。これまで慈しみ育ててくれたご恩、深く感謝申し上げます。」


「やはりそうでしたか。遮那王、あなたはやはり武士の頭領のお子ですのね。私が引き止めても詮無きこと。今生の別れかも知れませぬ。

 これだけは忘れないでくだされ。母は遮那王が無事に生きることだけを願っています。」


「母上、どうかお健やかにお過ごしあれ。」

 

 そう言って、涙を流す母上の御前から辞去した。遮那王11才の旅立ちであった。

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