第38話 ただいまとおかえり

 「エレシュキガル……」


 遠くで声が聞こえた。

 ソロモン様のものではない。

 お父様でも、お兄様でもない声。


 「ねぇ……エレシュキガル」


 何度も私の名前を呼ぶ声。

 その声は縋りつくような、脆く儚い声だった。


 私はその声を知っていた。

 だから、どんなに弱々しくても、安心できた。


 「どうか目を覚まして……」


 ――――――彼が待ってる。

 私の近くで待ってる。


 その声に導かれるように、私はそっと目を開ける。 

 眩しい光が右手から差し込み、思わず目をつぶった。


 ゆっくり瞼を開け、明るさに目をならしていく。


 正面に見えたのは美しい文様が描かれた天蓋。

 寮の部屋でもない、実家の私の部屋でもない、知らない部屋だった。

 

 左手が何か包まれているような……。


 横を見ると、私の左手は、ベッドわきに金髪の彼に両手で掴まれていた。

 彼は少し顔を俯け、祈るかのように私の左手を握りしめている。


 「アーサー様……?」


 名前を呼ぶと、彼からハッと息を飲む声が聞こえた。

 ゆっくりと顔を上げ、彼の水色の瞳は変わらず綺麗に輝いていた。

 だが、目元には薄っすらとクマがあった。


 「嘘……? エレちゃん……起きたの?」

 「はい」

 「本当に? これは……夢じゃない?」

 「おそらく」


 試しに頬をつねってみる。頬にじんわりと痛みが広がった。結構痛かった。


 「夢ではないようですよ、アーサー様」


 と言って、私は微笑んでみせる。

 彼は口を開けて、呆然としていた。


 アーサー様は私が目覚めるのをずっと待っていたのだろう。

 ずっとここで私の手を握っていたのだろう。


 ああ…………私ったら、アーサー様に迷惑をかけてばかりだわ。

 ソロモン様に無茶を言ってでも、起きればよかった。


 私が体を動かそうとすると、アーサー様から「無茶はしないで」と言われた。

 それでも、体を起こした。

 レイリアル様が治してくれたとはいえ、長期間体を動かさなかったため、体は鉛のように重い。

 せぐるし声を漏らしながらも、私は体を起き上がらせた。


 そして、アーサー様の左手をぎゅっと握り返した。


 「ただいま戻りました」


 その瞬間、握られていた左手は、アーサー様に引っ張られる。

 私の体は彼の胸に引き寄せられた。


 「おかえり、エレシュキガル………」


 アーサー様は私の頭に手を添え、ぎゅっと抱きしめる。

 その抱擁はきつく、苦しい。

 だけど、安心できた。温かった。


 「ずっと目覚めないのかと思って怖かったよ……」


 耳元で呟く彼の声は震えていた。

 普段では聞かないような、気弱な声だった。


 「よかった……起きてくれてよかった……」 




 ★★★★★★★★




 目覚めた私は、その後、ベッドの上で座ったままではあったが、アーサー様から、自分が眠っている間に起きたこと、また、今回の騒動について話を受けた。


 私が意識を失った後、あの場所に兵士やアーサー様のお付きの方が来られ、ブリジット様は連行、そのまま牢獄に入れられた。

 また、彼女の実家であるラストナイト家の処分は、後日決定することとなった。


 こうして、説明されただけでは短期間で行われたと勘違いしそうになったけれど、実際はかなり時間がかかったらしい。


 というのも、ラストナイト家が管理しているとブリジット様から説明を受けたあの庭は、実際には学園内にあるサロンのブリジット様の所有地ではなかった。

 学園から遠く離れたラストナイト家の領地だったらしく、私はいつの間にか転移させられていた。


 そのため、兵士たちが私たちの元まで駆け付けるまで、4時間ほどかかったらしい。


 「では、なぜアーサー様はあそこにいらしたのですか?」


 サロンのブリジット様のお庭に行っても、おそらく私たちのところまでは来れなかった。

 すると、彼は首元をちょんちょんと指で示した。


 自分の首元を見ると、そこにあったのはアーサー様から頂いたエメラルド色の宝石が付いたネックレス。

 これが私たちの所に来れた理由……?


 「エレちゃんにもしものことがあったらいけないから、そのネックレスに転移魔法を仕込んでいたんだ。黙っていてごめんね」


 そういうことだったの……。

 だから、アーサー様が現れる瞬間、首あたりから光が見えたのね。


 その後、私が1週間以上眠り続けていたことも聞いた。

 彼はやはりその間ずっと私の傍にいたらしいのだが。


 「もしかしてですが、アーサー様は学校はお休みになれたのですか?」


 私をずっと看病していたということは、つまり学校をずっと休んでいたということになる。私なんかのために、勉学に励む時間を削ってしまったのだ。


 しかし、アーサー様は微笑んで横に首を振った。


 「その心配は大丈夫だよ。今学園に行っても、授業なんて誰もしていないからね」

 「そうなのですか?」

 「うん」


 アーサー様曰く、ブリジット様を操った犯人が魔王軍と繋がりを持っている可能性が考えられるので、検察や兵士たちが早急に犯人を探し出しているとのこと。

 調査されている場所は、公共機関、教育機関、貴族の方など、多数に及んでおり、 当然、学園も該当していたため、学園は一時臨時休校となっている。


 「エレちゃんがここにいることは、レイルロード公爵とシンにも話は伝えてあるよ。だから、エレちゃんはゆっくり休んで……ずっとここにいても大丈夫だから」


 そうは言ってくださるが、私には受け入れられなかった。


 私はアーサー様の婚約者というだけだし、王族の人間でも何でもない。

 そんな人間が体が弱っているだけで離宮にいるなんて、他の人から訝しげに思われることだろう。


 それに、この体だと、最低でも1週間は迷惑をかけてしまう。

 ずっとはここにはいられない。


 後でお父様に連絡して、実家に戻ることにしましょう。それがいいわ。


 「あの……アーサー様。先ほどから気になっていたのですが……ここはどこでしょうか?」


 話を聞きながら、周囲を観察していた。だが、さっぱり分からなかった。

 外の庭は広いことは分かる。

 でも、植物が多すぎて、ヒントになるようなものが見えない。


 王城のどこかなのはなんとなく察せるけれど……。


 「学園でも王城でもないよ」

 「では……」

 「ここは離宮さ」


 王族が所有する離宮について聞くことはあった。

 王城から少し離れた湖の近くにあるというのは聞いていた。

 だが、特に離宮に用事もなかったため、実際に入ったことがなかった。


 王城なら部屋の構造を大体把握してるから、分かるけれども、でも離宮については全然知らない。

 ああ……だから、分からなかったのね。


 「宮廷魔術師もいるし、薬剤師も、兵士もいる。結界も張ってあるし、ここは王国で一番安全な場所だから、敵が襲ってくるという心配もないよ」


 と言って、アーサー様は私の手をさすってくれた。

 それだけ厳重な警備があれば、また魔王軍の配下にある住民に襲われても大丈夫だろうけれど………。


 でも、待って。

 離宮って王城からも、実家からも遠く離れた場所ではなかったかしら。

 実家に連絡するにも、最低でも3日はかかるんじゃなかったかしら――――。


 ぐっ――――。


 その瞬間、地鳴りのような音が盛大に部屋に響く。

 だが、その後が地震は来ない。来るはずがない。


 だって、音が聞こえたのは、私のお腹からだもの…………。


 遅いと分かっていながらも、恥ずかしさに耐えられず、お腹を押さえる。

 そんな私を見て、アーサー様はフフフと笑みを漏らしていた。


 「1週間も眠っていれば、みんなお腹は空くものさ。でも、安心して、用意はちゃんとしてあるから―――」


 そう言いながら、アーサー様は部屋の隅で待機していた侍女と視線をかわす。

 すると、その侍女は素早く部屋を出ていき、一時して他の侍女さんとともに、複数のワゴンを転がして戻ってきた。

 ワゴンが現れた瞬間、美味しそうな香りがすっと鼻に入る。


 ワゴンの上に乗っていたのは、銀のクローシュで蓋をされたお皿で、中身は見えない。

 だけど、私は何があるのか明確に分かった。


 この香りは――――私の大好きなトンカツさんでは?


 私は食の欲望にかられ、立ち上がってワゴンの元へ行こうとベッドから降りようとした。

 が、途中で止められた。


 「ああ~、大丈夫だよ~、エレ様ぁ~。私ちゃんがそっちに持っていくから、動かなくてもおけだよ~」


 と、笑顔がチャーミングなツインテールの侍女さんが、ベッドの上に背の低い小さな机を置き、先ほどアーサー様と視線を交わしていたロング髪のクールな侍女さんがワゴンに乗せていた料理たちを用意してくれた。


 「お待たせしました。どうぞお召し上がりください」

 

 並べられたのはトンカツ、ステーキ、コロッケ、カラアゲ、オムライス。

 全て輝いて見えた。


 ご飯ものだけではなく、ケーキなどのデザートも用意されていた。

 お腹はペコペコなこともあって、ここが天国に見える。


 「好きなだけ食べていいからね」

 「ありがとうございます」


 何かから食べようか迷ったが、最初に手を付けたのは一番好きなトンカツさん。

 その一切れを口に入れた。

 久しぶりに食べたトンカツは、それはもう美味しすぎて。


 「天国のような味です……」


 と、私は訳の分からない発言をしていた。

 そんな私の発言に、アーサー様はフフフと笑みを漏らす。


 「遠慮なく、食べていいからね。全部エレちゃんのために用意したものだから」

 「はい」


 空腹に耐えられなくなった私の手は止まらず、どんどん口に放り込んでいく。

 勢いのままに食べ頬を膨らませていると、アーサー様は。


 「いつものエレちゃんだ」


 と言って、笑ってくれた。

 彼の笑顔に、私も笑っていた。

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