第40話 忘れさせる温もり。

「ただいま…」


 帰るのが遅くなって…電話で一言言われたけど、怒ったりしないよな…。

 ちらっと部屋の中を覗いたら、夕食を作る花田さんがいてびくっとする。包丁で野菜を切るその姿になぜ恐怖を感じるのか分からない…。もう学習された恐怖なのか、これは…。でも、やはり表情だけじゃよく分からないんだよな…。


「た、ただいま…」

「おかえり、尚くん」

「うん…。遅くなってごめん…」

「いつもより遅かったけど、何かあったの?」

「今日バイト先に新しい人が来たから…」

「へえ…、女?」

「あ…………」


 ———思考回路停止。


「私が知らないところで、女の子とイチャイチャしてたの…?」

「え、駅まで送っただけ…。店長に頼まれたから…」

「なんで、私の尚くんと一緒に歩くの? 誰がそうしてもいいって言った?」

「ご、ごめん…。次は…注意する」


 やっぱり怒ってるんだ…。

 そして包丁をまな板に刺した花田さんが、こっちを睨んでいた。電話で話した時は「早く帰ってね」って言ったのに、実際帰ってきたらすぐ怒られてしまうんだ…。仲良くしたわけじゃないから、ちゃんと説明すると理解してくれると思うけど…。俺を睨むその目を見ると、心臓が握られたような痛みを感じてしまう。


「本当に…? あの女と何かあったんじゃないの…?」

「ちゃんと…、綺麗な彼女がいるって話したから。問題ないと思う…」

「そう…? じゃあ…、今日は一緒にお風呂入りたい…」

「そうしようか…?」


 すぐ服を脱いで、お風呂に入る二人。


 狭い風呂の中で、俺は俺を抱きしめる花田さんとじっとしていた。すると、首筋にある消えかけのキスマークに気づいてしまう。これは花田さんが「私にもつけて」って言った時につけてあげたキスマークだけど、まだ消えてないんだ…。しかし、俺が花田さんの体にこんなの残すなんて…。


「尚くんから私の匂いがする…。シャンプーとボディーソープのいい香り…」

「いつも…ありがとう。ずっと安い物を使ってたけど、菜月のおかげで入浴剤も入れるようになった…」

「だって、私…尚くんのことが大好きだから…」

「うん。好き…、菜月」

「口ではこんな甘い言葉を言ってるのに、下は発情してるんだ…。尚くん…」

「これは仕方がないから、無視して…」

「気になるけど…?」


 お湯に濡れた前髪を後ろに流して、その頬をつねってみた。


「痛い…」

「菜月の頬…、もちもちする…」

「……」


 すると、じっと俺を見つめていた花田さんが目を閉じる。


「……」


 あれ…? もしかして…、あれなのか…?


「……菜月?」

「……」


 俺の手首を掴んだ花田さんは、何も言わずにじっとしていた。

 これは俺からやってあげるしかないってこと…? それか…、それなのか?


「……バカ」


 こっちを向いている花田さんと風呂の中でキスをした。

 口の中から感じられるこの…、舌の感触…? ぬるぬるする感触…? よく分からないけど、今の状況がとてもエロくて顔が熱くなる。恥ずかしい…。花田さんとくっついている時の熱くて柔らかい感触を、俺は意識したくなかったけど、どんどん俺の中に入ってくる花田さんがそれを意識させてくれた…。


「こ、ここまでしよう…。これ以上はおかしくなる…」

「何が…? 何がおかしくなるのかな…? 顔も真っ赤になって…」

「知らない…! 聞くな…!」


 すると、俺を抱きしめる花田さんが耳元で囁いてくれた。


「はあ…、可愛い私の尚くん…。今日夕食いらない…」

「えっ…? でも、先まで…準備…を」

「いらない。尚くんを食べてから食べてもいい…、今はこっちがいいの」

「えっ…? か、勘弁して…昨日も…」

「尚くんは黙って私に従えばいい…」

「……うん」


 お風呂から上がった後は、すぐベッドに連れて行って肌を合わせる彼女だった。

 まだ…、花田さんのことに対して一つも聞いてないのに…。また…、花田さんに吸い込まれるようなエロいことをしている。謎だらけの花田さん…。どうしてあの人と白川は…俺にそんなことを聞いたのか、こんないい人が俺と付き合う理由とか…。聞きたいことはいっぱいあるけど、彼女と肌を合わせるたびにそれを忘却する。


 とても暖かくて…、痛みを鎮めてくれるような気がした。


「はあ…、尚くん…手…。手を掴んで」

「うん…」


 深淵に落ちるような…、そんな気分だった。

 監禁された時と同じ感覚、体が本能に従えばいいって言ってる…。


「その顔…、好き…。ねえ…尚くん、私の頬を触って…」


 裸の二人、俺は真っ赤になっている花田さんの頬を触ってみた。

 熱くて…、赤くて…、とても気持ちいい…。両手を俺の胸に置いたまま、花田さんは自分の欲求を満たす時まで、俺を離してくれなかった。ずっと、ずっと…くっついたまま、何度も…何度も…、彼女の前で喘ぐだけで抗えない。俺を見下すその赤い瞳には、乱れた自分の姿が映っている。


 花田さんはずっとこんな俺を見ていたんだ…。


「ねえ…。尚くんはね? 私の下で喘ぐのが一番可愛いよ」

「……」

「どう? 私と気持ちいいことをした気分は?」

「気持ちいい…」

「でしょ?」

「尚くんには私しかないよね?」

「うん…」

「じゃあ…、今日は裸のまま寝ちゃおうかな…? 肌と肌が触れ合う感触がとても気持ちいいから…」

「うん…」


 床に落ちている三つのゴムから、ベタベタする液体が漏れ出していた。

 夕食も食べず、疲れてしまった二人は静かに目を閉じる。そして布団の中から俺に抱きつく花田さんの感触を、体が少しずつ覚えていた…。その匂いと温もりに俺はいつの間にか彼女の体を抱きしめてしまう。その胸に顔を埋めて…、花田さんに癒されたかったかもしれない…。怖いけど、そばにいると楽になるこの矛盾はなんだろう。


 分からない…。


「……」


 唇に触れている花田さんの胸、その温もりに俺は何も思い出せなかった。


「そうそう…、私を抱きしめるのよ…。可愛い」


 微笑む顔で尚を見つめる菜月。


「尚くんも私のことが好きでしょう? 私はあの日からずーっと尚くん一人しか見てないからね? 一生を共にする人ができてとても嬉しい…。私は幸せだよ」


 尚が寝ているうちに、その体を撫で回す菜月がこっそりキスマークをつけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る