汝、願わば呪え

かがみ

第一章

リネット

 リネットLynetteマーシュMarsh


 銀製短剣シルバーダガーに刻まれた名前を人差し指の腹でなぞりながら、リンは遠方の空間に意識を向けていた。


 太陽は二時間も前に地へと潜り、今は丸い月と無数の星々が天を占拠している。いかに薬草の採取や狩猟に適した場所と言えども周囲に人影は見当たらない。鬱蒼とした郊外の森は生命の存在を否定するかのように静かだった。


 虫の鳴き声すら聞こえない。時折に木々の枝が風で揺れ、幽霊と見紛いかねない動きを見せてはさざ波のような葉音を奏でるくらいだ。日中では心地良く思えそうなその音も、宵闇の中では不気味に感じ、怖々とした雰囲気がある。


 そんな森の中でリンは細い身体を茂みに潜め、息も一緒に潜めていた。夜行性の野獣などへの対策ではない。単なる職業病だ。


 何せリンの格好は目立つ。深いスリットの入ったロングスカート。そこからはみ出した雪のように白い脚。真夏なのにケープを身に着け、肩口まで伸びた金髪は金糸さながらの美しさだ。特に白を基調とした服装は暗闇の中でも人目を惹き付ける。


 リンは口も開けずにただただ銀製短剣で指を遊ばせる。青い水晶で柄を装飾されたそれは呪術師試験の合格証だ。


 試験の成績によって水晶の色彩が決められ、青は特に優秀だった者のみに与えられる。国内での所有者が十人に満たないほどの珍しい品だ。


「いた」


 リンは溜息混じりに呟くと短剣を逆手で握った。視線を民家三戸分ほど奥に向け、だがそこに人間や魔物の気配は感じない。ただ何か薄黒いモノがいる。一見して影だ。人の形をしたものが三つ揃って舞踏を楽しむように空中で揺れている。


 踊る影シャドウソウル


 あれらは人の魂だ。恐らくは近隣の村人のものだろう。現世に未練があったのか、或いは冥界から呼び寄せるほどの強い想いが遺族にあったのかもしれないが、何であれ放っておくのはまずい。早々に二度目の死を与えなければ面倒なことになる。


 踊る影は不幸の兆しとも呼ばれ、出現からまもなく生前の知人に呪詛を吐くのだ。言葉を発せられない連中なりのコミュニケーション手段とはいえ、呪術の耐性を持たない者は例外なく寝込み、最悪の場合は身体を乗っ取られてしまうので何とも傍迷惑な行為と言える。


 踊る影は人を襲うことはない。魔物にも該当しない。ただし危険度S級の魂喰いソウルイーターが現れる起因になるため、出現の経緯を問わず発見直後に浄化させる決まりがある。


 方法は簡単だ。踊る影は銀で触れると消え失せる。銀製ならスプーンでも倒せてしまい、浄化の難度が低すぎる点からどの解呪本リカバーブックにも対処法が記されていない。


 しかし油断は大敵だ。リンは手加減しない。心を静め、躊躇なく呪った。


「猛き雪豹の血を継ぎし高原の尖兵よ。其の卓越した技巧を我に示せ」


 level.1――魂魄具現化カースドアビリティ発動。


中位呪体化セカンドトランス――巧妙な猫トリックキャット


 変貌は一瞬。言霊が体内に宿る獣人の魂に干渉した途端、リンの頭から灰白色の獣耳が生え、手首から先も猫のものとなった。スカートを捲れば腰に尻尾も見当たる。


 基本にして奥義と呼ばれる呪術。呪体化トランスは支配下にある魂を用いて自分自身を呪ってしまう荒技だ。無論、変化したのは外見のみではない。


 リンが力強く地を蹴れば目標との間合いは僅か数秒で0となった。すれ違い様に短剣を振るい、踊る影が断末魔の叫びを上げる間もなく消滅する。


 さながら風のような迅速さだ。武芸を生業とする者でも銀色の光が走ったようにしか見えないと言うことが多い。


 速やかな浄化こそが我々にできる唯一の救いだ、と高名な祓魔師エクソシストは言うが、どんな理由があっても弱者を虐げるのは心が痛む。リンは溜息を止められない。


 これは人助けだ、と事後に心中で言い訳するのはもはや癖となっている。


 なぜなら踊る影は厳密に言えば人間なのだ。外見の違いで割り切れるほどリネットという少女は賢くない。


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