血ゲロのひとつも吐かされたことのない野郎がヒーローを名乗ろうなんておこがましいにもほどがある 煮

 七月二十一日

  午後一時三十五分四十五秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「 」のターン


「Insanity Raven」。

 体力ゲージの下に、そんな名前が記されていた。

 攻牙は、呆然と画面を見ていた。

 画面の端で、攻牙のキャラクターは延々とダメージを受けている。

 単調なループコンボ。

 ジャブ二発とストレートを延々と繰り返し、間合いが離れたらダッシュで即座に喰らい付く。

 そしてまたジャブジャブストレートジャブジャブストレートジャブジャブストレート。

 以下エンドレス。

「お……おいおい」

 抜け出せない。一連のループは完全にコンボとして繋がっており、すでにヒットカウンターは五十を越えている。

 殴られると当然のけぞるわけだが、そののけぞり動作が終わらないうちに次の攻撃を叩き込まれるので、攻牙は何もできないのだ。

 永久コンボ。あってはならないバグのひとつである。

 体力は、約半分程度にまで減って止まっている。よくよく眼を凝らすとほんのわずかずつ減っていっているようだ。

 いわゆる「コンボ補正」。常軌を逸した多段ヒットコンボは威力が徐々に減っていき、最後にはダメージがほとんどなくなってしまうのだ。

 だが、だからといって状況が好転するわけではない。確かに体力ゲージは減らないが、相手がコンボを続ける限り攻牙は攻撃できない。そうなれば体力が減っているこっちが時間切れ負けだ。

 ゲームの残り時間は、あと三十数秒。

「おいおいおいおい……」

 攻牙は台に頬杖を突き、延々と痛々しい呻きをあげ続ける自キャラを見る。

 ――こんなとこでハメや即死コンボの是非について思いを巡らすことになるたぁなぁ。

 攻牙は基本的に、ゲーム内でできることはどんな手でも使うべきだと思っている。それがメーカー側の調整ミスだろうが何だろうが、勝つための最適解を瞬時に判断し実行する精度を競うのが格闘ゲームだ。

 脱出不可能な永久コンボがあるなら、喰らわないように立ち回ればよいだけのこと。それができなかった自分は、潔く負けを認めるべきなのだ。

 とはいえ――

「こいつはちょっとどうかと思うがなぁ」

 出が早く隙も少ない弱パンチから始まる永久コンボ。奥行きの存在しない、限定されたゲーム内空間で、小パンを一発も貰わないというのは……

「かなーりムズいぜ」

 不可能、とは言いたくないが。

 しかし、それでも。

 要するに、攻牙はゲームの中の競技性を重視しているのだ。競い合いの余地すらないような状況がこうも簡単に作れてしまうのでは、競技として成り立っていない。

 じゃあ、どこまでが良くて、どこからがダメなのか? 当てづらい攻撃から始まる永久コンボなら許されるのか? その「当てづらい」というのはどの程度の当てづらさなのか?

 少なくとも攻牙には答えられない。

 ――ちょっとやってみて勝てないからと言ってすぐにクソゲー扱いするようなアホと自分が同じだとは思いたくねーけど……

 しかし、本質的には同じなのだろうか?

 それにしてもこの相手、よくもまぁこんなに長時間の間ミスりもせずにコンボを続けられるものである。たまにダッシュを挟むのだから、それなりにレバー操作は忙しいはずなのだが、すでに百ヒットを超えている。

 機械かよ!

 ――やってる野郎は何を考えてんだろ?

 楽しいのか?

 腹立たしい気持もないではないが、それより好奇心が上回る。

 ――ちょっくら相手のツラを拝んでやるか。

 残り時間はまだあるし、見て速攻戻ってくれば問題あるまい。

 そう決意すると、勢いよく立ちあがる。

 筐体を回り込み、反対側を覗き込む。

「……げぇっ!?」

 思わず、変な声で呻いた。

 異様な光景が広がっていた。

 電動車椅子に乗る変態緊縛大男が、そこにはいた。

 相手はこいつだったようだ。

 しかしそんなことはどうでもいい。

 それよりなにより異常なのは、男が筐体の画面に頭を突っ込んでいたことだ。

「ちょっ……なっ……おま……おまっ!」

 姿勢はめっちゃ前のめりだった。画面はもちろん割れていた。あたりに透明な破片が飛び散っていた。

 筐体からは白い煙が立ち上り、バチバチと火花が弾けている。なにやってんだコイツ。

 攻牙の声に反応したのか、もぞりと男の巨体が動いた。

 派手な音をたてて頭が画面から引き抜かれ、こっちを向いた。その顔は血まみれだった。

 にたあ。

 と、口枷を噛みしめて怖気立つような笑み。

 立ちすくむ攻牙の耳に、ふと、異様な響きが感知された。

 みしみし、という音。

 それが何の音なのか理解する前に――

 ばぎり、という音。

 男の口にはまっていた金属製の口枷に、ヒビが入っていた。

 頬が、歪む。人間の口がここまで裂けるものなのかと思うほどの、獰猛な笑みだった。

 ぎぢぎぢ、という音。

 攻牙は思わず一歩後ろに下がった。

 めぢぃっ、という音。

 口枷が砕け散った。車椅子や床にばらばらと落下する破片。男の巨大な顎が、ゆっくりと動いた。

 ごぎりごぎり、という音。

 やがて、男は口を開いた。

「――ぶっちゃけ、不味かった」

「喰ったのかよ!」

 もう意味わからん。

「ててててめえこの野郎どういうつもりだ! きょきょきょ筐体に何やってんだこのオッサンはー!」

 男は恐ろしく巨大な顎門を開いた。さながら地獄の門かブラックホールか。攻牙のちっこい体などひと呑みに出来てしまいそうな口である。

「――席に戻ることを推奨する。勝負はあと一ラウンド残っている」

「いやいやいやアンタ自分が何やってるのかわかってんのかーッ! いまボクが店員呼んだら即出禁だぞこの野郎!」

「――席に戻ることを推奨する。むろん、その勇気がないのならば話は別である」

「ンだとコラ」

 この手の挑発だけはスルーできない。

「上ォ等ォだ出禁野郎。てめーが社会的に制裁される前にゲームの中で制裁してやらぁーッ!」

 肩を怒らせて席に戻る攻牙。

 ちょうどその時、タイムオーバーとなって一ラウンド目は終了していた。無限コンボから解放された攻牙のキャラクターは、拳を握り締めながら相手を睨みつけている。体力ゲージは残り三割程度。

 敵キャラクターの「Insanity Raven」とやらは、ニュートラルポーズのまま何のリアクションもとっていなかった。

 こいつには、勝ちポーズがないのだろうか。

 ――まあいいブッ殺してやらあ。

『第二燐界形成-Round 2-』

 そして始まる第二ラウンド。攻牙はより攻撃的な位置に技を仕込んでゆく。

 敵を真上に打ち上げる〈バーティカルヴォイド〉を画面左端に置き、左右任意の方向に吹き飛ばす〈スローターヴォイド〉を右右左左左の順で配置してゆく。図解にすると「↑→→←←←」という感じであり、中央付近の「←」はほとんど敵と重なるような位置だ。

 相手は一切動かない。

『閃滅開始-Destroy it-』

 敵の咆哮が轟きわたる。画面が振動する。「Insanity Raven」の唯一の自己主張。

 オ前ヲ、コレカラ、殺ス。

 そんな声が聞こえてきそうな、狂烈な意志の発露。

 ――そういうことはなぁ……

 攻牙はすでに一足一撃の間合いをキープしていた。

 ――戦いが始まる前に済ましとけ……!

 足払いが命中。咆哮が中断された。

 花火のようなヒットエフェクトとともに、敵の黒い体が地面に倒れ掛かる。だが完全にダウンする直前、設置しておいた〈スローターヴォイド〉が発動。相手を左方向へ吹っ飛ばした。

 そこからはピンボールのようなありさまだった。

 「Insanity Raven」の体が右へ左へせわしなく吹っ飛びまくる。そして最後に〈バーティカルヴォイド〉によって真上に打ち上げられ、すでにジャンプしていた攻牙の空中コンボが炸裂。連続して砕け散る水晶のエフェクトが、画面中をネオンのように輝かせた。

「っしゃどうだ!」

 通称『反復横跳び』と呼ばれる連鎖方法だった。一瞬で相手の体力を半分にまで減らす、最大級の大ダメージコンボである。しかし陣形を構築するのに時間が掛かる上に、設置技を打ち消す攻撃が全キャラに標準装備されているので、実戦で決まることはまずない。

 ――思ったとおりだ!

 攻牙は口の端を吊り上げる。

 ――この野郎はゲームのセオリーをなんにもわかってねえ! ド素人だ!

 まあ、ド素人がなぜ隠しキャラクターを使っているのかという疑問は残るが、とにかくあの緊縛男は『装光兵飢フェイタルウィザード』における立ち回りの基本をまるで理解していない。おそらく、ラウンドコールの間に動けることも、設置技を打ち消す手段があることも知らないのだろう。

 だから『反復横跳び』などという魅せコンを食らうのだ。

 ダウンした「Insanity Raven」に重ねるように〈バーティカルヴォイド〉を置いておく。

 直後に奴が跳ね起きた。さすがに設置技はガードされる。しかしそれは織り込み済みだ。防御の上から畳み掛けるようにラッシュを仕掛け、相手の行動を封じる。鈍い音が連続し、青のガードエフェクトが弾ける。

 ――ここからイキナリ下段攻撃に切り替えてコンボ叩き込んでやる!

 格闘ゲームには『ガード硬直』というものがあり、敵の攻撃を防ぐと、ガード状態のまま一瞬だけ動けなくなるのだ。

 攻牙はその隙に乗ずる。突発的にしゃがみ込み、足払いを差し込もうとした。ごく初歩的なガード崩しだが、素人には対応できまい。

 だが。

「……っ!?」

 攻牙は喉を詰まらせた。

 相手は突然の下段攻撃に対し、ガードなどしなかった。

 なぜかいきなりパンチを出し、なぜかそれが攻牙にヒットしたのだ。

「ガーキャンっ!?」

 ガード中にレバー前と攻撃ボタンを同時に入力することで、カード硬直を省略していきなり反撃できる。これをガードキャンセルと言う。

 ――いや……違う!

 ガードキャンセルを使って反撃してきたのならば、発光エフェクトと共に一瞬だけ時間が止まる演出が入るはずだ。なにより、こんな初心者がガーキャンなど知っているとは思えない。

 だが、今のタイミングは明らかにガード硬直を無視している。

 つまり、どういうことか?

 ――まさか……こいつ……

 再びジャブジャブストレートの永久コンボが始まり、殴られ続ける自キャラを呆然と眺めながら、攻牙は唇を噛み締める。

 ――最初からガード硬直なんてないんじゃねえか!?

 そもそもガード硬直とは、メーカー側の意図的なバランス調節の一環である。アグレッシヴな試合の方が盛り上がるので、攻撃側がやや有利になるように仕組まれているのだ。

 だが、「Insanity Raven」は弱パンチ一発から永久コンボに入れる。要するにゲームバランスなどまったく考えられていない狂ったキャラクターだ。そんな奴にガード硬直など設定されているわけがなかったのだ。

 攻牙は自らの失策を痛感する。無意識のうちに、敵がまともな相手のつもりで行動していた。度し難い隙だ。

 ――おかしな永久を使ってきた時点で気付くべきだった……!

 頭を抱える。

「ちっくしょう!!」

 やり場のない怒りに、指が戦慄く。

 瞬間――

 妙な、ことが起こった。

 ゲームの画面が近づいてくるのだ。

 ――ん?

 別に自分が動いた覚えもないのに、視界の中でどんどん画面が大きくなってゆく。

 ――なんだ!?

 というより、自分の方が引き寄せられていくようだ。慌てて後ろを見る。

 自分自身の顔があった。その体がゆっくりと傾いてゆき、力なく床に崩れ落ちる。そのさまを、攻牙はなぜか客観的な視点で見ていた。

 ――ゲエーッ! これはっ!!

 幽体離脱!

 マンガやアニメでよくみる光景だ!

 なぜかわからないが、攻牙はいきなり幽体離脱して魂だけが画面に吸い込まれているのだ。

 ――ウソだろおおおぉぉぉぉ!?

 ブラックホールに遭遇した宇宙船の気分を味わいながら、攻牙はそのままゲーム筐体に吸飲されていった。


 ●


 七月二十一日

  午後一時三十八分十一秒

   諏訪原家の前にて

    「俺」のターン


「……これは一体……」

 俺は我が家を襲った惨状を眺めていた。

 背中にぐったりした霧華を背負い、手には『姫川病院前』が握られている。内力操作の超身体能力によって、強引に家から脱出したのだ。

 我が家は斜めに烈断されたのち、断面にそってずれていっているところだった。やがてズレが限界に達し、家屋の上半分ががくりと倒れると同時に瓦解。粉塵と木屑がもうもうと立ち込める中、諏訪原家は山の藻屑と化した。

 ――瞬間、狂乱した鴉の絶叫が鳴り響いた。

 見ると、異様な音を発する巨大な円盤のようなものが、凄まじい速度で迫ってくる。

「くっ!」

 俺は地面を蹴り、その場を離脱した。

 直後――

 光の円盤は、狂風をまとって遥か彼方へとカッ飛んでいった。轟音と土塊が撒き散らされ、巨大な一筋の爪痕が大地に刻まれる。風圧が殺到し、俺の体をよろめかせた。圧倒的ともいえる存在感。ただ通り過ぎるだけで、天変地異にも等しい被害を出してゆく。

 一見したところ、外力操作系の技に見える、が。

 確か……ディルギスダークは内力操作系バス停使いだったな。

 してみると……どういうことだ?

 とりあえず、家を破壊した一発も、さっきすぐそばを掠めていった一発も、どちらも真南の方角から飛来した。

 ――ということは、敵は真南にいるのだろう。

 しかし姿は見当たらない。よほど遠くにいるのか。

 俺は大気を思い切り吸い込んだ。

「姿を現せ! ディルギスダァーク! 尋常に勝負せよ!」

 すると、懐のスマッマが鳴り出した。

 ポケットから取り出す。

「……ううむ、ええと」

 どうやって電話に出るのだったか?

 数秒間の懊悩ののち、たどたどしい手つきで通話ボタンをドラッグした。

『――ないわ。マジないわ。ディルギスダークは姿なき狩猟者。虚数の彼方にて生ぜし者。諏訪原篤は造作もなく打ち倒されることだろう。自分が何を相手にしているのか知ることなく』

 だから何を言っているんだこいつは。

『――円盤の攻撃速度は亜音速。加えて射程は無限大。諏訪原篤に逃れるすべはなかった』

 鴉の絶叫が、みたび響き渡る。

「むっ!」

 携帯をしまい、『姫川病院前』を掲げた。

 直後――

 バス停に巨大な光輪が激突していた。やはり真南からの攻撃だ。

 接触点から間断なく火花が飛び散り、耳を塞ぎたくなるような金属の悲鳴が大気を引き裂いた。

 まるで、巨大な丸ノコを受け止めているかのような光景。

「ぐ……!」

 腕が、痙攣する。

 踏みしめた両足が大地に沈み込んでゆく。バス停の柄が掌にめり込んでゆく。

 全身の筋肉が張りつめ、血管が浮かび上がる。

 俺は歯を食いしばる。

 凄まじいばかりの圧力。桁違いのパワー。同じ絶望を味わおうと思ったらゴジラに踏みつけられる必要があるのではないか。

 顔が強張ってゆく。骨が軋む。

 タグトゥマダークがネコ科の肉食獣のように危険だとしたら、ディルギスダークはダンプカーのように危険だ。

 真っ向勝負だと必ず負ける。しかし、俺は真っ向勝負しか戦う方法を知らない。最悪の相性。

 受け切れない。

「ううおおっ!」

 『姫川病院前』に漲る〈BUS〉を内力操作。上方へ「弾く」力を停身に行き渡らせる。

「おおおおおおッ!」

 同時に、渾身の力を込めて得物をカチ上げる。

 ひときわ巨大な火花が咲き狂い、円盤の軌道がわずかに上方へと曲げられる。

 即座に身を屈め、やり過ごした。風圧が叩きつけてくる。

 肩で息をする。全身から汗が噴き出した。

 たった一撃受けただけで、すでに疲労困憊だ。

「次からは回避に専念し…………ッ!?」

 思わず、呻いた。

 やり過ごしたはずの円盤が、急激に向きを変えて襲い掛かってきたのだ。

「なんと……!」

 完全に虚を突かれた。

 悪辣なフェイント。ディルギスダークはこの時を待っていたのだ。光輪を「直進しか能のない飛び道具である」と俺が勘違いしてくれるまで、ずっと同じ方角から向かわせていたのだ。

 あれはただの飛び道具ではない。かなり精密な遠隔操作が可能な上に、何度でも繰り返し攻撃できる。

 閃光。

 衝撃。

 『姫川病院前』の破片が、視界一面に飛び散った。

 防御は――辛うじて間に合った。何の慰めにもならなかったが。

 真っ二つに叩き折られ、ミキサーに巻き込まれるかのように粉砕されてゆく『姫川病院前』を、俺は呆然と眺めた。

 あおりを受け、体が後ろへ倒れ掛かる。背中の霧華のことを思い出し、身をよじってうつぶせに倒れる。

「不覚……!」

 次の一撃防ぐ方法は、ない。

 立ち上がろうとした俺の前に、悪夢のように、輝く光輪が現れた。

 鴉の声が、心なしか、嘲笑っているように聞こえた。

 円盤は、慈悲も躊躇いもなく、突進してきた。

 恐怖は、特になかった。

 しかし、さらわれた霧華(の精神)を助けることも出来ずに力尽きるのがなんとも無念で、自らの不甲斐なさを情けなく思った。

 ――あぁ、俺には解脱も転生も許されまい。

「いつも心は吐血色ーーーーーーっ!」

 瞬間……甘ったるい声がして、なんか来た。

 巨大な鉄の塊が、横合いから視界へと突入。絶大な火花とともに円盤を撥ね飛ばした。一瞬遅れて撒き散らされた衝撃波が吹き荒び、辺りに舞い上がっていた砂煙を一掃する。

 それは、バスだった。

 緑と白のツートンカラーが目に優しい、何の変哲もないバスだった。表面が淡い色彩のエネルギーフィールドで覆われている。

 そして屋根の上には、一人の少女が仁王立ちしていた。ぴったりとしたレギンスの上にフリルのついたキャミソールを着ている。ボブカットの茶色っぽい髪が、ふわふわと揺れていた。

「二十一世紀の萌えを科学する! 轢殺系美少女、鋼原射美でごわすよーっ!」

 にひー、とした表情で、俺を見下ろしてくる。

「早く乗るでごわす~!」

 すでに自動ドアは開いていた。

「……恩に着る!」

 ずり落ちかけていた霧華を背負い直すと、車内に転がり込んだ。

 冷房がガンガンに効いていた。

『あー、あー、ごじょーしゃありがとうでごわす~♪ 当バスはこのまま藍浬さん家までノンストップでカッ飛ばすので~、席についてシートベルトをつけるでごわすよ~♪ つけなかったら命の保障はしないでごわす~♪』

 どうやら車内アナウンスまで掌握しているらしい。しかし、鋼原はマイクのある運転席ではなく天井にいる。どういう理屈なのかはよくわからない。

 急いで意識のない霧華を座らせ、シートベルトを身につけさせた瞬間、強烈な横Gが全身を襲い、体が背もたれに押し付けられた。

「むぐぅっ」

 窓から外を見ると、景色は恐ろしいまでの速度で後ろに流れてゆく。近くのものは掻き消されて視認すらできない。

 ……明らかに普通のバスに出せるスピードには見えなかったが、別段驚くことではない。普段は乗客の安全や他の車への配慮のために、性能の一割も発揮していなかっただけである。ウソだと思うならバスをジャックしてアクセルを思い切り踏み込んでみればいい。そしてもれなく捕まればいい。そうすればいい。

 もちろん、良い子はそんなことをしてはいけない。

 悪い子ならば仕方がないが。

 しばらくすると、体が速度に慣れてきた。

 肩の力を抜いた俺は、天井を見上げる。

「……ありがとう、鋼原よ。助かったぞ」

 万感の思いを込めて、言う。

『いっやー、そんな、いっやー、照れちゃうでごわすよ~♪ もっと褒めるでごわす~♪』

 姿は見えないが、頬を押さえてくねくねしているのだろう。多分。

「うむ、お前はやればできる子なのだな。俺がお前に勝てたのも、単に運がよかったからなのだろう」

 実際、圧倒的な威力を誇るホーミング八つ裂き光輪(仮)を、一瞬にして突き飛ばしたあの光景は、驚愕に値する。

 特殊操作系能力〈臥したる鋼輪の王アンブレイカブル・ドミナートゥス〉。どうやら想像以上の潜在能力を秘めているらしい。

『いっやー、あれは横合いから突っ込んだから一方的に打ち勝てたでごわすけど、真っ向勝負だったらヤバかったかもしんないでごわす~』

 それだけ相手が規格外ということか。

「……それはそうと、鋼原よ。これから霧沙希の家に向かうと言っていたな」

『言ったでごわすよ~』

「しかし……殺意が迫ってきているぞ、後ろから」

『ほえ?』

 一瞬の間。

『……うおーっ! 円盤きてるー! しかも追いついてきてるー!』

 ――円盤の攻撃速度は亜音速。加えて射程は無限大。諏訪原篤に逃れるすべはなかった。

 ディルギスダークの言葉が反芻される。

 しかし……そんなことなどありうるのだろうか? 俺はそれほど多くのバス停使いを知っているわけではないが、遠距離攻撃を得意とする外力操作系バス停使いですら、その射程は数百メートル程度と言われている。

 現に一キロ以上は走行しているにも関わらず、円盤が力を失う様子はない。濃厚な殺意がひしひしと肌を刺してくる。

 恐るべき威力。常識はずれの弾速。極めて高い精密動作性。しかも射程は無限大。

 完全無欠の遠隔攻撃。

「このままでは霧沙希の家まで巻き込んでしまう。ディルギスダーク本人を見つけ出して倒すことを考えるべきだ」

『いや、それはたぶんムリでごわす。ヘンタイさんほどじゃないにしろ、ディルさんはかなり神出鬼没な隠れんぼスニーキングのプロでごわす。逃げに徹されるともうお手上げでごわすよ』

「しかし、それでも霧沙希を危険な目に遭わすわけにはいかん」

 すると、にひひという笑いが聞こえてきた。

『それに関してはダイジョーブでごわすよ。あの家だけは安全地帯でごわす。一旦は避難するのがいいごわすよ~』

 それはどういうことなのか?

 一瞬疑問に思ったが、俺は首を振る。

 今ここで逃げるわけにはいかない理由がある。

「敵は何らかの方法で妹の意識を奪い去っていったのだ。見捨てて逃げるなどできぬ」

『妹ちゃん……? 隣のおにゃのこでごわすか? 諏訪原センパイそっくりでごわす』

「うむ……霧華はバス停使いの戦いのことなど何も知らぬ。一刻も早く助けてやらねば……」

『う、うーん……』

 重苦しい沈黙が車内を覆った。

「……むっ、そうだ!」

『ど、どーしましたでごわすか』

「電話をかけよう」

『え……誰に?』

「霧華に」

 俺は携帯を取り出すと、

「……ぬぬ……うむむ……」

 首をかしげながらも、ぽつぽつとボタンを押しはじめる。

『あの……なんでここで妹ちゃんに電話を?』

「本人から直接居場所を聞く。俺も迂闊だな、最初からこれをしていれば良かった」

『……いや、あの、それは無理なんじゃあ……そこに体あるんだし……』

「この、電話番号が点滅している時に丸いボタンを押せばよいのか?」

『機種によって違うからよくわかんないでごわすけど……』

 瞬間、携帯がけたたましく鳴りはじめた。

「……おお? やったぞ! かかったぞ! 文明の利器とはすごいものだな」

「い、いやそれ、かかってきてるでごわす! かけたんじゃないでごわすよー!」

 俺は勇んで受話器に噛みつく。

「諏訪原篤である。灼熱のみぎり、海や山から夏の便りが相次いでいる今日この頃であるが、霧華か?」

『……なんで季節のあいさつを入れたでごわすか?』

『篤! 無事かこの野郎!』

 受話器の向こうから、少なくとも霧華のものではない声が聞こえてきた。

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