かいぶつのうまれたひ プラスシチュエーション

 篤だけが、その音を聴いた。思い知った。

 

 二本の指が、三センチほどの間隔を置いて、篤の喉に突き入れられている。それはまるで、喉仏を掴み取ろうとしているような位置だった。

「いっ」

 気道が圧迫される。呼吸不可能。

「簡単だよね。人間はこうすればすぐ死ぬんだ。バス停なんか非効率的だよ」

 篤はバス停を引き抜いて振り払おうとしたが、界面下に突っ込んだ腕を掴まれて一切動かせない。

 刀に例えるなら、柄頭を押さえられてしまったようなものだ。

「このまま喉を握り潰そうか? それとも窒息するまで待つ? 好きなほうを選びなよ。どうせしゃべれないだろうけど」

 視界が黒く塗り潰されてゆく。肺の中に残った空気が、外に出ようと暴れまわる。

 ――どちらも断る。

 篤は自由になっている左手を握り締め、敵の顔面に向けて打ち込んだ。

「ま、そうなるよね」

 喉にめり込んでいた指が引き抜かれ、ほぼ同時に篤の拳が受け止められた。

 咳き込みながら、その事実を識る。

「左手が自由なら、普通そうするよね。正しい判断だ」

 退屈そうに、タグトゥマダークは呟いた。

「――じゃあ死ね」

 左腕が、捻られる。

 手首、肘、肩の関節が異様な方向へ捩じられ、みしみしと軋んだ。

「んっ」

 たまらず、篤はつんのめるように体を曲げ、捩じれを逃がした。

 頭が前に出る。

 前に出る。

 その先には、この世ならざる空間への出入り口がある。

 見えないが、確かに存在する。

 今しがた自分で開いたものだ。バス停『姫川病院前』を引き抜くために右腕を突っ込み、しかしタグトゥマダークに腕を掴まれて動かせなくなっているため、今も開きっぱなしだ。

 次の瞬間、篤の頭部は、異空間へと没入した。させられた。

 まるで、水中へ顔を浸したかのように。

 視界一面に、混沌とした世界が広がった。無数の色彩が乱舞する万華鏡のごとき眺めだ。

 無限の広がりを持つ空間に、さまざまな色や形が見え隠れしている。

 それらは時に炎のようであり、時に水の流れのようであり、時に散りばめられた星屑のようでもあった。魚のような蒼い煌めきが群れを作って泳いだかと思えば、捻じくれた樹上組織が早回しで形作られ、その背景には山のような巨大な影が一瞬現れてはすぐに消えた。紫の炎が海草のように揺らめき、蛍光色の花火が乱れ飛んで次々と散華していた。

 視覚化された〈BUS〉の流動。

 バス停使いたちによって「界面下」と名づけられたこの空間は、通常の世界とは少しずれた位相に存在し、基本的に交わることはない。そこでは、すべてのバス停がエネルギーの波となって溶け合い、あらゆる場所に遍在している。熱と光のコーラスを奏でている。

 物質世界に存在するバス停などは、この奔放な本質のごく一部の側面が現出しているに過ぎないのだ。

 だが、篤はこの雄大な無秩序をゆっくり鑑賞する暇などなかった。

 体が、動かない。

 界面下空間の外で、右腕を掴まれ、左腕を捩じ上げられている。

「虚停流外殺――」

 くぐもった声が、かすかに聞こえてくる。タグトゥマダークの声が、その振動が、篤の体を伝って耳まで届いたのだ。

「――〈次元断頭〉」

 何をするつもりなのかは、なんとなく、わかった。

 恐らくは――次元の出入り口を何らかの方法で閉じるつもりなのだ。

 二つの世界に分かたれた頭と体は、これ以上ないほどきれいな断面を残して切断されることだろう。

 篤は、敵の冷徹な戦闘感覚に皮膚を粟立たせた。

 ――恐るべき、技だ。

 しかも技名を言い終わったということは、もうこの瞬間にでも界面は閉じられるということだ。

 ――実に、恐るべき、技だ。

 それが不可能であるという点を除けば、である。

「――前』!」

 篤は、叫んだ。それだけを聞いたらまるきり意味不明の言葉を。

 瞬間、周囲の光彩が篤のそばへと集まり、収束し、バス停『姫川病院前』を形作った。

 ただし、それは篤の手元にではない。

 足元に出現したのだ。

 腕を捩じられ、無理やり界面下へ顔を突っ込まされると同時に、篤は自分の足元にも異空間への出入り口を開いていたのだ。

 左足を界面下へ突き入れ、出現した『姫川病院前』に引っ掛けると、前方に思い切り蹴り飛ばした。

 物質界に吹っ飛ばされたバス停は、篤の体を天秤のように支えていた右足に当たって回転する運動を与えられ、タグトゥマダークの足元を薙ぎ払った。

「おっと」

 篤の両腕に絡み付いていた拘束が解ける。

 即座に頭と右手を界面下から引き抜き、敵へと向き直った。

 タグトゥマダークは不審そうな顔でそこに立っていた。やや離れた間合いだ。

 とっさにバック宙返りを決めて、足元への攻撃は回避したようだ。呆れた反射神経である。

「妙だね……どう考えても君の召喚文句が終わる前に、僕の〈次元断頭〉は完成していたはずだ」

「注意力の問題だな。解説などする気はない」

 篤は足元の『姫川病院前』を蹴り上げた。空中で掴み取り、構える。

「さぁ、貴君もバス停を抜かれよ」

「ふぅん……」

 タグトゥマダークは、バス停を召喚するそぶりも見せず、しげしげと篤を見ている。

「めずらしい扱い方をするね、キミ。普通、バス停使いって想定外の逆境には弱かったりするものなんだけどな。なまじ強すぎるから、苦戦という経験が不足しがちなんだね」

「……何が言いたい?」

「キミはそうじゃないってことさ。両手が使えないから、じゃあ足で――って、言葉にすれば簡単だけどさ、普通そんなことをあの一瞬では思いつかないよ。お兄さん感心しちゃったなぁ」

 自らの顎に手を当て、不敵な微笑を湛えながら、

「ちょっと、苦手なタイプかもしれないニャン」

「…………」

 空気が、なんか、微妙な雰囲気になった。

「ニャ、ニャン!?」

 タグトゥマダークは口に手を当ててあたふたしていた。

 篤は興味深そうに、己の顎を掴んだ。

 ――今度は「ニャン」か……

「《ブレーズ・パスカルの使徒》には、珍妙な語尾でしゃべらなければならない掟でもあるのか?」

「か、か、勘違いしニャいでくれ! 僕はこんな語尾ニャんか……あああ! 付けたくニャいのに! 付けたくニャいのに付けてしまうニャンッ!」

 タグトゥマダークは、ニット帽に包まれた頭を抱えて天を仰いだ。

「タグっち……そんな人だったでごわすか……」

 後ろで射美が半眼になって呆れていた。

「ちょっと頭が不自由だけど、優しくてカッコイイ人だと思ってたのに……」

「あああっ! ち、違うニャン! これはおかしいニャン! 僕の意思とは無関係に語尾がついてしまうニャン! っていうかさり気に前半部分ひどいニャン!」

「あー中学の時こういう奴いたぜ。ワクチン打つと獣の紋章が浮かび上がって危険なパワーが目覚める的な設定で授業中によく『ぐぁ…っ! 静まれっ!』とか言い出すんだ」

 攻牙が耳の穴をほじりながらどーでもよさそうに言った。

「いや接種はしたんかい! ってクラスの全員に突っ込まれてたぜ」

「設定とかじゃないニャン! マジで止まらないニャン! あと思春期の想像力をバカにする奴は心が貧しいとお兄さんは思うニャン!」

 三人の、そして周囲の通行人の冷めた視線が、タグトゥマダークを追い立てた。

「うっ、ううっ」

 その顔が引き歪む。

「うにゃあぁぁぁぁぁんッ!」

 泣きながら走り去っていった。

 ナイーヴにもほどがあった。


 ●


 ――どこまでも、まっすぐな眼をしていたな。

 タグトゥマダークは、泣きながら朱鷺沢町を駆け抜ける。

 ――諏訪原篤。一切の迷いもない信念に寄り添う、この上なく安定した佇まい。

 泣きながら、駆け抜ける。心はズタボロに揺れ動く。

 だが、その根底には、鏡面のようにさざ波一つない場所がある。

 タグトゥマダークは、そこで思考する。

 ――諏訪原篤。直接相対してはじめてわかる、その存在の堅牢さ。

 冷酷に、思考する。泣きながら、思考する。

 ――死に囚われているがために成立しうる魂。

 泣きべそをかき、同時に心の根底で嗤う。

 ――僕とおんなじだ。そして、僕とは全然違う。

 大声で咽びつつ、泣き叫びつつ、必死に走りつつ、タグトゥマダークは嗤う。

 魂で、嗤う。


 やがて、敷地面積だけは立派なボロ借家に帰り着いた。

 すぐさま妹の部屋に続く襖をズガンと開ける。

 そこでは、切りそろえた髪型の小さな女の子が、机に向かって勉強していた。

 ゆっくりと椅子が回り、高級ピアノのような輝きをもつ瞳が、こちらを向く。

「うにゃあああぁぁぁぁん! 夢月ちゃあああぁぁぁぁぁん!」

 タグトゥマダークは咽びながら自らの妹に泣きついた。

「あらあら、どこの不潔な変質者が入ってきたかと思ったらお兄さまではありませんか。どうかなさいましたか? またディルギスダークさまに苛められましたか? 後で文句を言っておかなければなりませんね。『手ぬる過ぎます。やる気あるんですか?』って」

 相変わらずひどいことを言う。

 しかし言葉とは裏腹に、突然乱入してきた自分をちゃんと受け止めてそっと撫でてくれるので、本当は優しい子なんだなぁ、こんな可愛い妹がいて僕は幸せだなぁ、と思う。

 彼女は、赤い着物を着ている。今時珍しいことこの上ないが、夢月の普段着は着物である。そしてそんなチョイスが恐ろしく良く似合う容姿をしていた。

「それで? どうなさったんです? その頭の肉ヒダはなんですの?」

 ――肉ヒダって……

 いやまぁそうなんだけど。

「あのね、あのね、僕ね、朝起きたらネコ耳が生えてたんだニャン」

「……」

 夢月の表情が、急激に冷めてゆく。

「そんでね、そんでね、さっき諏訪原篤をブッ殺しに行ったらね、なんかね、語尾まで変になっちゃったんだニャン」

 夢月は無言でタグトゥマダークに背を向ける。

 そして机の引き出しに手を入れると、大きなハサミを取り出した。

「切り落としましょう」

「やめてえええぇぇぇぇっ! なんでそうなるニャ!? なんでそうなるニャ!?」

「あら、明白じゃありませんか。その世の中ナメてるとしか思えない軽薄な語尾は、明らかにお兄さまの貧相な頭についている汚らわしい肉ヒダが原因ですわ。ちゃっちゃと切除しちゃいましょう」

「夢月ちゃん! 夢月ちゃん落ち着いて! 落ち着くニャン! 気軽に切除とか切り落とすとか言わないでニャン! 怖いニャン!」

 夢月はかすかにため息をついた。

「……わかりました。お兄さまの気持ちも考えず過激な言動に走ってしまいましたわ。反省します」

「う、うん! うん!」

「去勢しましょう」

「言い方の問題じゃニャいんだよ!? しかもさらにひどい言い方だニャン! 最悪のチョイスだニャン!」

 重くため息をつく夢月。憂いを秘めた白皙の美貌が、遠くを見る。

「……どうしましょう。どこに埋めましょう」

「夢月ちゃん何を言ってるニャ!?」

「いえ、あまりにわがままでヘタレな身内を持ってしまった我が身を哀れんでちょっとした非合法的計画が頭をよぎっただけですわ。お兄さまにはまったく関係のない事柄ですの」

「明らかに僕に関係あるよね! むしろ僕は中心人物だよねその計画! やめて! 僕そこまでひどいこと言ってないニャン!」

「どうせこんなド田舎ですから天狗の仕業にでもしてしまえば万事解決ですわ」

「とんでもない偏見だニャン!」

 その後、わりかしシャレにならない言葉責めを二、三回応酬させたのち、夢月はタグトゥマダークのネコ耳をいじりながら言った。

「ヴェステルダークさまに相談してみましょう」

「え!? あ、うん……えっと……え? なんでだニャ?」

「あの方は最強を誇る《王》の一人。〈BUS〉の特殊な作用については知悉しておられますわ。きっと良い知恵を貸してくださるはず」

「この耳と語尾は〈BUS〉の影響なのかニャ?」

「それ以外になにかありまして?」

「ふむーん」


 というわけで、夢月の部屋を出る。

 タグトゥマダーク一人で。

 ついて来てはくれないのである。

「冷たいニャ~ン……」

 夢月はあまり自分の部屋から出てこない。そういうところは奥ゆかしくて超かわいいと思うが、兄の一大事の時ぐらい付き添ってくれてもいいと思う。

「ニャ?」

 ふと、自分がハサミを持っていることに気づく。

 夢月がネコ耳を切除しようと取り出したハサミだ。

「なんで僕が持ってるんだニャ?」

 よくわからなかったが、多分無意識のうちに奪い取っていたのだろう。

 夢月に持たせておくとなんか怖いし。

 タグトゥマダークはハサミをとりあえずポケットに突っ込むと、ボロ借家の中心部に位置する居間へと足を運んだ。ヴェステルダークは普段そこで仕事をしている。

「……差し入れでも用意するかニャン」

 途中で思い直し、台所へと立ち寄ることにした。


 ●


「ブリリアント☆おやつタイム、はっじまっるニャ~ン!」

 緑茶と大福をお盆に載せて、タグトゥマダークは居間に入っていった。

 ……とりあえず、ご機嫌を取っておけば相談しやすくなるかと思ったのであるが、内心ドキドキである。

 居間には、ボロっちいちゃぶ台と丸みを帯びたテレビが置かれていた。黒のスーツをきっちりと着こなした男が、ちゃぶ台に肘を突きながら唸っている。

 ヴェステルダーク。

 この町に滞在する十二傑たちのリーダー。

 いつもは自信と機知にあふれた数学教師っぽい風貌だが、今は何やらお疲れのご様子だった。ちゃぶ台の上には、タブレット端末が立て掛けられ、キーボードの後ろに鎮座していた。画面にはここ朱鷺沢町と近郊の地図が表示されており、縦横に赤い線が書き込まれている。その周りには、何らかのデータと計算式が書き込まれたノートが数冊ほど散乱していた。

 ヴェステルダークは一瞬こちらに視線をめぐらせたのち、特に何事もなかったかのよう眼を戻した。

「《楔》が、見つからないのかもな……」

 ――うわノーリアクションだよこの人!

 明らかにネコ耳も見えていたはずなのに。

 なんか、人間としての格の違いを感じる。

「お、お疲れですニャン? 《楔》の探索はやっぱ難しいですかニャン?」

「〈BUS〉の流れが読めないのかもな。二ヶ月ぶっ続けで地脈を走査したにも関わらず《楔》の位置を特定できないのかもな……」

 そして、憂いに満ちた表情で天井を仰ぎ、

「もらうのかもな」

 ぽつりとつぶやいた。

「あ、は、はい」

 慌てて大福と緑茶をちゃぶ台に並べる。


 ●


 ――あらゆるバス停は、その身に漲る〈BUS〉の強さによって、九つの階級に分けられる。

 第九級バス停が最弱で、その基準は「コンクリートの壁を一撃で粉々にする程度の力」。

 数字が小さくなるほど、その身に漲る〈BUS〉の出力は高くなる。

 バス停ごとに固有の性質を持っている場合もあるので一概には言えないが、階級の高いバス停ほど強いのだ。

 そして――

「天と地を斬り裂き、歴史を創るほどの力」

 そんな冗談のような基準で語られるバス停が存在する。

 第一級バス停――通称、《楔》。

 最高位の神樹。

 ひとつの国が収まるほどの範囲で、〈BUS〉の流動を制御し、管理し、自然や文明の(言い換えればあらゆる熱的活動の)守護者となるバス停。

 そういうものが、全国に八柱ほど点在している。

 淵停、枢停、殲停、聖停、終停、龍停、極停、皇停。

 このうち四つは『神樹災害基金』が保有し、二つは《ブレーズ・パスカルの使徒》が確保、ひとつは所在不明で、最後のひとつはここ朱鷺沢町のどこかにあるという。

 ――皇停、『禁龍峡』。

 ヴェステルダークほか四名の十二傑たちは、この最後のひとつを入手するべく動いているわけだが……

 何故か、見つからなかった。


 ●


「やっぱり『基金』の連中が何らかの妨害をしているんじゃないですかニャン?」

「そう思って、ディルギスダークにはポートガーディアンどもを締め上げるよう言っておいたのかもな」

「うわぁ……さすがに同情しますニャン、それ……」

 ヴェステルダークは緑茶を一口飲んでから、刃物のような切れ長の目をタグトゥマダークの頭部に突きつけた。

「……で、頭のそれはなんなのかもな。ジャパリパークが本当にすべてを受け入れてくれるとでも思っているのかもな?」

「ニャ、ニャはは……」

 タグトゥマダークは頭をかきながら事情を話した。夢月に対して一度しゃべっているので、さすがにもう落ち着いている。

「……と、いうわけなんですニャン」

「ふむ」

 ヴェステルダークは緑茶をもう一口すすった。

「前例が、ないわけではない、かもしれない、のかもな」

「ほ、ほんとですかニャン!?」

 できれば二重否定の上に疑問系を二つも重ねないでほしいと思った。

「私が生まれる前の記録なのだが……今から五十年ほど前、この地域で起きたことかもな」

 ヴェステルダークは、ぽつぽつと語り始めた。

「当時からここらへんはどうしようもないド田舎だったのだが……ある時、まったく突然に、極めて局地的な地震が発生したのかもな。建物はほぼ全壊し、絨毯爆撃でも受けたかのような有様だったという。火災や地すべりなどの二次災害も頻発し、多くの人々が致命的な被害を受けたのかもな。恐ろしい災禍だったのかもな」

 持っていたタッチペンを弄びながら、言葉を続ける。

「だが、本当に恐ろしかったのは、その後なのかもな……」

 なんで怪談みたいな語り口なんですかと突っ込みたかったが、空気を読んで黙るタグトゥマダーク。

「人間がな、歪んだのかもな」

 その言葉の響きに、寒気を感じた。

「……歪んだ? どゆことですニャン?」

「比喩ではないのかもな。精神ではなく、肉体が、本当に歪んだとしか思えない有様に変異したのかもな。生き残った人々は、変わり果てた自分の姿に悲鳴を上げたという」

「い、一体、どんな姿に……?」

「直立二足歩行のタヌキになった」

「超かわいいーー!?」

「もっさもっさの毛皮に包まれた住民たちは、そのお陰で家がなくとも冬を乗り切ることができたらしいのかもな」

 えらくメルヒェンな光景がタグトゥマダークの脳内に広がった。

「よ、よかったじゃないですかニャン」

「だが、本当に恐ろしいのはそこからだったのかもな……」

「まさか元に戻らなかったんですかニャン!?」

「『神樹災害基金』の前身である軍属研究機関が、事態の解明を期してこの地域を数カ月にわたって封鎖し、調査部隊を派遣したのかもな」

「そ、それで……?」

「タヌキとなった住民たちに身体検査および質疑応答を行い、さらに一帯の地質を調査した結果、さまざまな事実が浮かび上がってきたのかもな」

 そこで緑茶を飲み干すと、ヴェステルダークは声を低くした。

「局地地震とタヌキ化が起こった範囲が完全に一致していたのかもな。つまり、この二つの現象は同じ原因によるものだったらしいのかもな。さらに、タヌキ化した住民たちの話によると、地震の直前に『山の向こうで巨大な光の柱が見えた』というのかもな」

 光の、柱。

 バス停使いたちにとっては、何らかの攻撃にしろ、召喚時の余波にしろ、そういった現象は見慣れた存在だ。

「バス停、ですかニャン?」

 しかし、山の向こうからも見えるほどの光とは、ちょっと尋常ではない。

「結論から先に言おうか。この地のどこかに《楔》が安置されている、と仮定すれば、辻褄が合うのかもな。事実、被災範囲は、当時すでに存在が確認されていた他の《楔》の管理面積とほぼ等しく、さらにこの異変において地中の〈BUS〉が一切流動しなくなっていたことも確認されているのかもな」

 ヴェステルダークは息を吐き、こちらを見た。

「この『地脈の流れが消失する』という性質から、推定上の存在である《楔》には皇停『禁龍峡』という名が与えられたのかもな。一連の事件の原因は、この《楔》が暴走を起こしたことにあったのかもな」

 皇停『禁龍峡』。すべての原因と目される、仮定上のバス停――

 それからの顛末は、極めて意味不明なものであった。

 皇停『禁龍峡』の位置を特定すべく、調査部隊とタヌキ住民たちは山々を虱潰しに探し回ったのだが、二週間が経過しても手がかりは一切見つけられなかった。

「そして、本当に恐ろしいのはここからかもな……」

 気に入ったんですかその言い回し。


 ●


 その後のヴェステルダークの話を要約すると、二点に絞られる。

 ・探索途中で隊員数名が行方不明になるという事件が発生したこと。

 ・その直後、タヌキ化した住民が一斉に元の体に戻ってしまったこと。

 以上、事件はそれで終わり。皇停『禁龍峡』の正確な位置はつかめぬまま、調査部隊は撤収し、その後政府主導の復興支援が始まったのであった。

 結局、何一つ確かなことは判明しないうちに、この『昭和タヌキ騒動ぽんぽこ事件』は終結を迎えたのである。


 行方不明になった隊員たちは、二度と戻ってはこなかったという。


 ●


「……つまりその、僕のネコ耳も、皇停『禁龍峡』が原因ニャのだと?」

「少なくとも関連を疑うには十分なのかもな」

「ううう……」

「イレギュラーはもうひとつあるのかもな」

「なんですニャン?」

「《楔》とは別に、奇妙なバス停が見つかったのかもな」

「おやおや、」

 タグトゥマダークは肩をすくめて笑った。

「奇妙じゃないバス停なんてあるんですかニャ?」

「なんかうねうねしていた」

「奇妙すぎる!」

「しかも、この地域の〈BUS〉流動網から孤立しているのかもな」

 ……正確には、完全に孤立しているわけではなく、地脈のネットワークからエネルギーをもらうばかりで、自身からは一切エネルギーを吐き出さないという凄まじい寄生虫ぶりらしい。

 当然バスなど通っていない。

 バス停なのに。

「あの、それ、本当にバス停なんですかニャン? なんか聞く限りでは〈BUS〉を食べる宇宙怪獣みたいな感じがするんですが……」

「あながち間違ってないのかもな。少なくとも、そのバス停のせいで朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相は秩序だったサイクルを維持しにくくなっているのかもな。《楔》を擁する土地であるにも関わらずド田舎なのはそのせいなのかもな」

 〈BUS〉は単なる破滅的なエネルギー流というだけではない。淀みなく循環していたなら、その地域の自然や文明を活性化させる霊的な作用が働くのだ。《楔》のお膝元の地域ともなれば、超サイバーな未来都市トキサワシティーになっていてもおかしくなかったはずなのである。透明なチューブがうねりまくりである。

 だが、現実にはそうではない。

 謎のバス停によって〈BUS〉を吸い取られ、循環の流れをかき乱され、朱鷺沢町はド田舎との誹りを免れぬほどの過疎ぶりとなっているのである。

「……そのバス停の名は」

「第三級バス停、『腐りゆく唇』」

「なんです、それ? 地名じゃないですニャン?」

「不明かもな。丸看板にそう書いてあったのかもな」

「確かに奇妙なバス停ですニャー」

「うねうねしてるしな」

「だから奇妙すぎる!」


 ●


 いや、さて。

 ここで、篤サイドに目を向ける。

 タグトゥマダークを撃退した後も、篤は自らのウサ耳を誇らしげに揺らしながら学校への道を急いでいた。

 攻牙と射美は、篤の周りをぐるぐる歩きながら、ウサ耳を仔細に観察している。

「射美が思うに、諏訪原センパイはきっとウサ耳たちが平和に暮らす国『ウサミニア』のウサミミ王子なんでごわすよ!」

「そんな国は見たことも聞いたこともないがどうせ城はウサミミ城で王様はウサミミ王で大臣はウサミミ大臣なんだろ!」

「ウサミニア……それはウサ耳たちが平和に暮らす国……国民は全員ウサ耳で、シルバニアファミリーばりのキュートでメルヒェンな騒動が毎日起こってるカンジでごわす♪ そんで三十分枠のラストはいつも『もう○○はこりごりだよぉ~!』『はははは、こいつぅ!』みたいなカンジでみんな笑顔でエンディング突入でごわすよー♪」

「いやに具体的だなオイ」

「末端価格で八万ドルでごわす♪」

「何が!?」

「犠牲もなしにユートピアが築かれるとでも思ってたでごわすかーッ!」

「繁栄の陰で何が行われてるんだウサミニアッ!」

 ――お前たち勝手なことを言っているな。

 篤は二人の応酬を適当に聞き流す。

 それはいいのだが、道中で知り合いに会うたびに、

「ちょっ……諏訪原! 何それ!」

「うむ、起きたら生えていた」

 というやり取りを繰り返すものだから、五回目ぐらいでなんか飽きてきた。


 突然の生徒会長。

「す、諏訪原君……何の冗談だいそれは?」

「うむ、起きたら生えていた」


 突然の不良。

「諏訪原てめえ、気でも違ったか!?」

「うむ、起きたら生えていた」


 突然の風紀委員長。

「こ、こら諏訪原ー! なんなんだ貴様その格好は!」

「うむ、起きたら生えていた」


 突然の後輩。

「あ、あの、諏訪原先輩……よくお似合いだと思いますよ……?」

「うむ、起きたら生えていた」


 突然の変態。

「やあ篤! みんなの股間のソムリエ、闇灯謦司郎だよ! 今日の朝立ち具合はどうかナ?」

「うむ、起きたら生えていた」

「!?」


「ぎゃああ! ヘンタイさん!」

 射美が怯えきった様子で距離を取った。学校襲撃時の体験からか、こいつは謦司郎をやたらと恐れている。

「ウサ耳には目もくれずに開口一番シモネタを言えるお前はある意味すげえよ……」

 攻牙が呆然と呟く。

「はっはっは、三人ともおはよう。なんか凄いことになってるみたいだね」

 謦司郎はいつもにこやかだ。

 相変わらず背後から出てこないので確認できないが、間違いなくいい笑顔だ。

「まぁ要するにこの耳が朝起きたら生えていたってことらしいんだがよ」

「えっ、『生えていた』ってそっちのことだったのか……」

「急にどうでもよさそうな顔をするなよ! ……それでケモナー界隈にも精通している汎用ヒト型決戦変態であるところのお前はこの有様になんか心当たりはねえか?」

「あぁ、これはあれだよ、何かの願望のメタファーなんじゃないかな。こう、体のある部分をもっと多く生やしたい的な。一本じゃ足りない的な」

「誰もお前の願望は聞いてねえ!」

 射美は「フーケーツーでーごーわーす~!」耳をふさぎながら走り去っていた。


 結局、教室でもクラスメートに騒がれてもみくちゃにされる。

 彼らの感想を総合すると、「かわいい」が一割、「シュール」が二割、「病院行け」が七割といったところだ。

 そんな中、霧沙希藍浬の感想だけは篤を瞠目せしめた。

「す、諏訪原くん……」

 彼女は白い繊手を二つとも口に当て、目を丸くしていた。

「む、霧沙希か」

 篤は誇らしげな足取りで、藍浬に歩み寄った。

「どうだ、俺の頭蓋より生じたる二本の誉れ……は……っ?」

 言葉が乱れる。

 なぜなら、その誉れ高きウサ耳を、藍浬が無造作に掴んだからだ。

 掴んだっていうか、握り締めた。

「き、霧沙希……!?」

「うーん……」

 自らのおとがいに人差し指を当てながら、藍浬はすっきりとした眉を寄せて思案する。

 その間も、ウサ耳を掴んでニギニギ。

 強い力が加わるたびに、篤の眉はピクピクと動いた。

「んん~……」

 数秒経っても、藍浬は思案顔。

 だんだん汗を流しはじめる篤。なんか、尻尾を掴まれたトカゲの気分。

 トカゲと違うのは、切り離して逃げることができないという点である。

 藍浬は、親指の腹でウサ耳の毛並みをさすりつつ、人差し指と中指で挟んだり、先っぽの方を小指で弾いたりする。

 その手つきに淫猥な妄想を膨らませた謦司郎が息を荒げすぎて過呼吸に陥ると言うハプニングがあったものの、二人の間には何の影響ももたらさなかった。

 やがて、考えがまとまったのか、藍浬は燦々と微笑んだ。

「かわいいっていうのはもちろんだけど、どちらかというと綺麗、かな? アサンブラージュ的な何かを感じます」

「おぉ……」

 篤は思わず藍浬に手を差し出した。

「この、かそけき曲線と無垢なる白皙が織り成す秘めやかな美を認識してくれたのは、お前だけだ」

「う、うん、どういたしまして」

 藍浬はびっくりしたように篤の手を見ていたが、やがて躊躇いがちに握り返した。

 つつましやかな、シェイクハンド。

 触れ合った藍浬の手は、篤のそれよりも少し熱を持っていた。

 チャイムが鳴った。

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