吐血潮流 上

 信じがたいことだが、世間一般で「ラブレター」と呼称される超常現象は実在するらしい。

 もはや文化というより都市伝説とか表現したほうがしっくりくるきらいがあり、そんなものを目の当たりにした人間が現代社会においてどれだけ居るというのか――恐らく誰一人として把握できてはいないことだろう。

 だが、それでも。

 やはり、あったのだ。

 実在したのだ。

「む……?」

 その手紙を手に取った少年――諏訪原篤は、普段から眠そうな眼をさらに細めた。

 背丈は一般的な高校男子の平均程度だが、やたらと姿勢がいいので長身に見える。ほっそりとした顔つきや、常に伏せがちの目、色白の肌、目元がぎりぎりで隠れない程度の頭髪など、個々のパーツは取り立てるほどではないのに、全体としては異様に調和していた。高校生とは思えない落ち着きに満ちた挙動も相まって、どこか仙人のような風格がある。


 ――ゾンネルダークとの戦いから、一ヶ月が経っていた。

 一応、この疑問系な変態から受けた負傷はほぼ完治し、めでたく退院の運びとなったのであるが、未だ体のあちこちに湿布が残っていたりする。

 盛大に破壊されまくった村の家屋は、『神樹災害基金』と呼ばれる組織によってすべて修復・再建されていた。これは在野のバス停使いによる破壊行為を保障・隠蔽するために設立された超法規的秘密財団法人であり、ニュースでよく叩かれている横領や使途不明金は、実はこういうところに消えているのである。

 嘘だと思うなら近くのバス停を振り回してひと暴れしてみるといい。

 消されるけど。


 そんなわけで、ようやく学業への復帰が叶った篤であるが、一ヶ月というのは決して小さくないブランクだった。事実、初登校となる今日の授業はまったくカケラもわからなかった。

 ――死のう。

 懐のドスに手をかけた瞬間、級友数名によって故なき集団暴行を受け、あえなくドスを没収されてしまったのだった。

 ――実に、無体な話である。

 俺が何をしたというのか。

 失意の中で下校しようと下駄箱に向かい、靴箱を開けると――中に瀟洒な封筒が入っていたのだ。

 宛名は『諏訪原くんへ』とある。

「ふむ」

 さっそく封を開け、中身を取り出す。

 隅に桜の花びらが描かれた、雅な便箋だった。

 諏訪原くんへ。

 まずは退院おめでとうを言わせてください。ひさしぶりに元気な姿を見られて安心しました。

 まだお怪我が残っているようですが、無理はせずにきちんと療養してくださいね。諏訪原くんはちょっと無茶をしてしまうところがあるので、わたしは何だか心配です。


 諏訪原くんがいない間、いろいろと思うことがありました。

 わたしのなかで、諏訪原くんがいかに大きな存在だったかを、不意に思い知らされた気分です。

 突然こんな手紙を受け取って戸惑っているかもしれません。

 でも、わたしの胸にあるこの気持ちに整理をつけないと、今にもハレツしてしまいそうなのです。

 あなたをずっと見ていました。

 入学式の時、階段で足を捻ってしまったわたしに、手をさしのべてくれた時から、この気持ちははじまっていたのかもしれません。

 諏訪原くんの落ちついた声とか、ほっそりした指さきとか、やさしい目とか、思いだすたびにどんどん胸がくるしくなっていきます。

 本当は、この手紙で伝えようと思っていたけれど、わたしは文才なんてないから、諏訪原くんへの想いはきっと十分の一も伝わらないことでしょう。

 あなたの目をみて、直接伝えたい。

 放課後、教室で待っています。

「オイオイ篤! オイオイオイオイ篤! なんだよそれオイ畜生それ! 青春それ? 青春かお前それ! 羨ましいじゃないかこの野郎ブッ殺すぞこの野郎ちくしょ~い!」

 横で甲高い声が上がった。

 振り返ると、がいた。

 ・高校の下駄箱にいて

 ・高校の制服を着ている

 そんな人物の正体を想像するなら、高校生と考えるのが妥当である。しかし、場所や服装などのあらゆる諸要素を加味してもなおその少年は小学生にしか見えなかった。

 めちゃくちゃちっちゃいから。

 ちっちゃい上に頭身が低く、目もでかい。制服はダボダボであり、明らかに二次成長はじまってない。

 嶄廷寺ざんていじ攻牙こうが

 高校二年――信じがたいことに篤と同学年のクラスメートである。篤のみぞおちあたりに頭のてっぺんがくるという尋常ではない小ささを誇り、紳相高校生徒の中でもぶっちぎりで最小。

 二年の男子の中で最小なのではない。全学年の男女含めての最小である。

「む、攻牙か」

 篤は、攻牙の頭をつかんでぐりぐり回した。

「お前は相変わらず小さいな。注射器で牛乳を血管に注入してみると良いのではないか? 普通に飲むより効くだろう」

「牛乳大明神様をヤバいお薬みたいに言うんじゃねえー!」

 攻牙は短い腕をぶんぶん振りまわして篤の手を振り払う。口調は荒いが、なにしろ見た目が小学生なので迫力に欠けることおびただしい。そのせいで上級生に可愛がられたり同級生に可愛がられたり下級生に可愛がられたり、ことによると中学生に可愛がられたりとロクな目に遭わない男である。本人としてはマスコット的ポジションは気に入らないらしく、努めて粗暴な口調でしゃべることにしている……のだが、そういう必死に尖がってる感じがまた可愛らしいと学校のお姉さま軍団や一部特殊な趣味を持つお兄さま軍団に評判である。なんだこの学校。

 攻牙は、はたと気づいて腕を下ろし、篤をにらみつける。

「……いやどうでもいい! ホントどうでもいい! お前の繰り言に対するツッコミほどどうでもいいものはないよ! 手紙だよボクが話題にしたいのは手紙! それ! 手紙!」

 攻牙は火の出るような勢いでまくしたて、篤の持っている桜柄の便箋を人差指で何度も突いた。

「うむ、これか。下駄箱に入っていたのだ」

 篤は目を細めて便箋を眺めると、丁寧に折りたたみはじめる。

「実に見事な書状だ。字体と言い文体と言い、書き手の熱き情念が伝わってくるかのようだ」

 それから手紙の想いを胸の裡で味わうかのように目を閉じた。

 ――必ず、ゆこう。

 そう、決意を新たにする。

「それで? 諏訪原くんはいったいどういう返事をするつもりなのかな?」

 突如、優雅なテノールが背後から聞こえてきた。

 攻牙の声ではないし、もちろん篤でもない。

「謦司郎かッ!」

 篤は弾かれたように振り返った。その速さたるや凄まじく、篤の姿が一瞬小型の竜巻となったほどである。

 だが、振り返った先に誰もいない。

「遅いねぇ、あくびを催す遅さだ。そんなザマでは僕の姿を捉えるなど到底無理だね」

 凄まじいまでの少年漫画臭を放つ言葉が、背後から聞こえてくる。再び振り返るも、視界の端に黒い残像がかすかに見えただけで、次の瞬間にはそれも消え去ってしまった。声の主の姿は捉えられずじまい。

 まるで、光に追われる影のごとき体捌き。もはや超人的という言葉すら生ぬるい。不可解と理不尽の権化と言えよう。

「謦司郎……恐るべき男よ……!」

 額に汗をにじませる。

 闇灯あんどう謦司郎きょうしろう

 嶄廷寺攻牙と同じく、篤のクラスメートだ。一年以上の付き合いがあるにも関わらず、篤は彼の姿を一度たりとも見たことがない。なぜか徹底的に篤の視界を避けているのだ。

 そのくせ気がついたら背後にいるので心臓に悪いことこの上ない。

 そういうわけで、篤は彼がどのような容姿をしているのかわからないのだが、クラスの女子の話を聞いてみると「すっごくカッコイイ」とのこと。同性な上に人を褒めることが滅多にない攻牙すらも「まぁ見た目だけはイケメンだよな。見た目だけは」と認めており、その胸焼け級の激甘マスクぶりが伺える。下級生の中には様付けで謦司郎を呼ぶ集団もいるあたり、尋常ではない。免疫のない人間などはこいつの顔を見ただけで糖尿病になるのではないかと思う。見たことないけど。

「で? どーすんだよ実際コレ? 放課後ってもう今じゃんコレ!」

 攻牙がわめく。

「受けるのかな? 断るのかな? お友達からはじめるなどというヘタれた選択肢はパパ認めませんからね!」

 謦司郎がウキウキとした声で言う。他人が困ったり焦ったりする様を見るのが楽しくてしょうがないらしい。

 ……しかし、残念ながら篤は困っても焦ってもいなかった。

「ふむ、知れたこと」

 篤は手に持った封筒を頭上に掲げ、よく通る声で宣言した。

「急な話ゆえ、戦装束の支度はできていないのが悔やまれるが、入学式の時から始まっていたという彼我の宿命、ここで決着をつける」

「……え?」

「は?」

 怪訝そうな声を出す二人。

 ――何をそんなに不思議がっているのだろう?

 構わず篤は言葉を続ける。

「俺は物心ついたころから武士もののふたらんとして生きてきた。戦士としての俺を認め、雌雄を決するべく死合を挑んできたというのなら、その心意気に答えぬわけにはいくまい」

 当然の選択だった。まず書状を送り、礼を尽くして勝負を申し込んできた相手がいるのならば、全力で受けて立たねば礼を失するというものだ。

「あのー篤さん? それは多分ラブレ……」

「見届けておくれ、我が友たちよ。結果がどうあれ、これより俺が挑む修羅場は誇りあるものとなるであろう……!」

 どこの誰なのかはわからないが、この自分を勝負に値する存在と認めてくれた人間がいる。その事実は、篤の胸に誇りと闘志を灯した。

 ――もはや、言葉は無用。行動のみが、真実を語る。

 床を蹴る。走り出す。

「あ! ちょ! 待てコラ篤ー! おいー!」

「うわぁい、これはひどいや! 明らかにとんでもない勘違いをしたまますごい勢いで走って行ったよ! ここで追いかけないなどという選択肢を選ぶ意味がわからないくらいおいしい状況だよ! いけない! ニヤニヤが加速する!」

「くっちゃべってねえで追いかけるぞオイ! ニヤニヤが加速する!」

「当然! ニヤニヤ!」


 なぜそこで闘志が湧くのか。

 なぜ明らかにスウィートな意味を持っているであろう手紙を果たし状だなどと勘違いできるのか。

 もはや常人には理解しがたいところではあるが、武士と呼ばれる戦士階級が数多くいた時代には「恋愛」という概念がそもそも存在しなかったことと関係があるのかもしれない。

 ないのかもしれない。

 いや、さて。

 攻牙と謦司郎である。

 この二人、篤とよくつるんで騒ぎを起こすので、七人の凶悪な変人が君臨する紳相高校の中でも最もアグレッシヴな変人集団として恐れられていた。

 具体的には、

 1、融通という言葉を知らない篤が厄介ごとを引き起こす。

 2、謦司郎が面白がって事態を深刻化させる。

 3、攻牙が二人を怒鳴りながら解決に奔走。

 この三段階の事件推移における文化的破壊力係数はゾウリムシ三百億匹分に相当し、これは一般的なバス停使いが全力で暴れまわった場合のエントロピー増加率にほぼ等しい損害である。学校の不良連中の中には彼らの名を聞いただけで顔を青くしながら周囲を見回す者もおり、三人の知名度は入学以来こいのぼりであった(有事の際はめちゃくちゃ目立つけど普段は空気という意味で)。


 ●


 篤は教室の扉に手をかけた。

 ここまで一気に駆け抜けてきた。しかし呼吸は乱れていない。むしろ軽い運動をこなしたことでウォーミングアップの手間がはぶけたくらいだ。

 ――この扉の向こうに、書状の送り主がいる。

 この空気。張りつめた気配。

 間違いなく教室に誰かがいる。

 そして俺を待っている。

「……今征くぞ、我が雄敵よ」

 力を込めて。

 万感を込めて。

 ――一気に扉を引く。

「ひゃおうっ!?」

 変な悲鳴とともに、机と椅子がこんがらがって倒れる音がした。

 見ると、紳相高校の制服に身を包んだ少女が椅子に座ったままひっくり返っている。

 ふわふわしたボブカットの髪が床に散らばった。

 スカートがまくれあがって露になった太ももを気にする様子もなく、彼女はこっちを指差して、口をぱくぱくさせはじめた。

「す、す、すわ、すわ……ッ!」

「さよう。書状に従いまかり越した」

 篤は重々しく頷き、堂々と前進する。

 そして倒れた少女のすぐそばで立ち止まった。

「立てるか?」

「あ、は、はいっ」

 少女はがたがたと音を立てて机をどかし、一瞬足を曲げて飛び起きた。

「よっと!」

 バンザイ状態で元気よく着地。しかし倒れた時に打ったのか、頭をさすりはじめる。

「うーん、痛いでごわす……」

 ごわ……す……?

 今こいつ「ごわす」って言った……?

 それは何かひどく意識を混乱させる三文字であった。

 ちゃんこはそんなに好きじゃない。

 ――いやいやいやいや、あり得ん。あり得んことだ。

 懊悩する篤に対して、少女はクルリと振り返った。

「はじめまして、諏訪原センパイ♪」

 活発そうな印象を受ける少女だった。さっぱりとしていて天真爛漫、悪くいえば物事を深く考えなさそうな雰囲気。しかし、人にそういう印象を与えることを自覚して、それを利用しようとするしたたかさも、茶色の眼からかすかに覗いている。

 いわゆる営業スマイル。

 攻牙ほどではないが、子供っぽい容姿だ。篤の顎のあたりに頭のてっぺんがくるのだから、女性としても小柄なほうと言っていいだろう。染めているのか、単に色素が薄いだけなのか、茶色っぽい髪をショートボブにまとめていた。はしっこい輝きに満ちた目で、篤を面白そうに見つめている。

「一年五組出席番号十二番、鋼原こうはら射美いるみでごわす♪」

「…………」

 残念ながら聞き間違いではなかった。

 なんということだろう。

 ごわすってお前……

 複雑な思いが篤の脳内を駆け巡ったが、一秒後にはその現実に適応した。

 疑問形でしゃべる変態に比べたら遥かにマシである(文法的な意味で)。

「七月生まれの十五歳、血液型はB型でごわす♪」

「うむ」

「趣味は吐血、特技は吐血、嫌いなものは吐血でごわす♪」

「うむ。めずらしいな」

「いやそれ絶対おかしモガッ!」

「はいはい尾行中尾行中」

 後ろで聞き覚えのある声がした。

 謦司郎と攻牙が廊下から覗いているのだろう。なぜコソコソしているのかはわからない。堂々と見守っていればよいと思うのだが。

「いやー、まさかホントに来てもらえるなんてビックリでごわす! 射美が手紙、読んでもらえたんでごわすね?」

 さすがに一人称は「おいどん」ではなかったようだ。

 なんか裏切られたような気分になる篤だったが、そんなことはさておき。

「うむ。清廉な決意の感じられる、良い果たし状であった」

「えへへ、ありがとうでごわす♪ ……って、果たし状?」

「因果を含めてほしい」

「へ?」

「俺を見て、降り積もった思いがあろう。始める前に、それらを明確にしておいてほしい。受け止めよう」

 篤は腕を組み、教室の扉に背をあずけた。

 軽く首をかしげ、鋼原射美の発言をうながす。

「えーと、つまり本題に入ろうってことでごわすね? ふっふっふ、言うでごわすよ? 言っちゃうでごわすよ?」

 鋼原射美はコホン、と軽く咳払いした。

 そして大きく息を吸い込み、

「諏訪原センパイ、好きでごわす!」

「ふむ」

「廊下ですれ違ったときとか、ガッコの行きしに見かけたときとか、いいなぁってずっと思ってたんでごわす!」

「ほう」

「間違うとすぐセップクしちゃうあたり、なんかほっとけないカンジでごわす! 責任感ありそうなあたりもポイント高しでごわす♪」

「ほほう」

「おねがいでごわす! 付き合ってください! そして一緒にバカップル化して周りの人たちからウザがられちゃうといいでごわす♪」

「……なるほど、話は大体わかった」

 篤は重々しく頷いた。

 彼女の決意に応えるべく、腕を解き、半身になる。

 戦闘、態勢。

「――いざ、参られよ」

「ゼンゼンわかってないーっ!? え? っていうか、あれ? なんでこれから宿命の闘いが始まるような流れになっちゃってるんでごわすか!?」

 目を白黒させる鋼原射美。

「宿命か……言い得て妙だな。俺もその言葉に見合う礼節を尽くさねばならぬようだ」

 ――思い返せば、俺の応対はあまりに簡潔にすぎた。

 迷いは忌むべき停滞なれど、反省は惜しむべきではない。

「丁重な名乗り、痛み入る。――返礼いたそう!」

「うぅっ!?」

 篤は息を吸い込んだ。

 まるで、巨大な怪物が顎門を開く時のような雰囲気が、あたりに満ちた。

 理が、ぐるりと裏返る。

 この世を形成する、二つの要素――すなわちボケツッコミが、逆転する。

「二年三組出席番号十番、諏訪原篤! 夜長月生まれの齢十六! 血液型は弱酸性!」

「お肌に優しそう!?」

「趣味は切腹、特技は切腹、嫌いなものは切腹だ!」

「切腹嫌いだったんでごわすか!?」

「好きな本は『葉隠』、好きな言葉は『常住死身』、好きな山本常朝は『湛然和尚より慈悲と寛容の心を学びしのちの一皮むけた常朝』である!」

「もうダメだ! 射美はいきなりセンパイのことがわからなくなったでごわす! でもそんなセンパイもミステリアスでステキでごわす……っ♪」

 祈るように両手を組んで、目をキラキラさせている。

 ガゴン! と後ろで扉が音をたてた。

 廊下の二人が、なにやら騒いでいるようだった。


 ●


「『好きな山本常朝は何か』なんて問いを人生のうちで発する機会なんてあるか? あいつの繰り言聞いてるとボクはわりと真面目に気が狂いそうになるんだが」

「まぁ落ち着きなって。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて有頂天」

「ただの変態じゃねえか! ……それから! あいつらの会話はもう恋の告白って雰囲気じゃねえよ! 単なるボケポジションの奪い合いだよ! 相手の予想を外してボケマウントを取ることでしかコミュニケーションを図れない狂人どもによる血を吐きながら続けられる哀しいマラソンだよ!」

「いやぁ、でもあの子……鋼原さんだっけ。ツッコミもそれなりにこなせてはいるよ」

「篤の野郎がアホ過ぎてツッコミに回らざるを得ないだけだ! すぐ破綻する!」

「さすがに一年もの間彼にツッコミ続けた男の言うことは含蓄があるね。でもまぁ乱入は待ちなって」

「なんでだよぅ!」

「あの教室、

「……は?」


 ●


「そこにいるのは何者か?」

 篤は不意に、鋼原射美から目を外した。

 その視線の先には、掃除道具の入ったロッカーがある。

「ほぇ? どーしましたでごわすか?」

「俺たちの決闘領域に、想定外の者が入り込んでいる」

「いや決闘領域って……」

 篤は視線を漂わせ、

「ふむ、そこか」

 おもむろにロッカーへと歩み寄る。

 そして躊躇いもなく扉を開けた。

 ……開けようとして、奇妙な手ごたえを感じた。まるでロッカーの扉がヒモでつながれているかのような抵抗があった。

 篤は構わず腕に力を込め、扉を引き開けた。

 ぱら、と、床に何かが落ちた音がする。見ると、制服のボタンが三つ、木目の上でフラフープのごとく踊っていた。

 そして、ロッカーの中には、

「こ、こんにちはぁ……」

 なんか、いた。いるはずのないものがいた。

 あまつさえ困ったような笑顔で小さく手を振りだした。

 思わず、まじまじと眺める。

 いるのかはわかった。しかしいるのかがわからない。

 そいつは少し頬を染め、篤から目をそらした。

「あのぅ、諏訪原くん……そんなに見つめないでもらえるとうれしい、かな?」

「…………」

 無言で扉を閉める篤。

「ど、どーしたんでごわすか!? 中にいったい何が!?」

「いや、何もいなかった。モップと箒とバケツとチリトリと霧沙希きりさき藍浬あいりが置いてあっただけだ。異常はまったくない」

「最後のキリサキアイリって何でごわすか!?」

「掃除道具だ」

「それでゴマカしているつもりでごわすかー!」

 むっ、と篤は息を詰まらせる。本当にそれでゴマカせると思っていたのだ。

「誰か……っていうか霧沙希って人がいるんでごわすね? 今までずっとそこにいたんでごわすね!?」

 鋼原射美は頭を抱えて宙を仰ぐ。

「うぬぬぅ……! 話をゼンブ聞かれていたでごわすかぁ~!」

 そして突然目を見開き、

「……うぐっ!?」

 あわてて口を押さえ――


「ゴふェェッ!!」

 いきなり血を吐いた。


「うおぉっ!?」

 口を押さえる手の間から、赤い筋が垂れている。

 ――趣味は吐血とか言ってたけどホントに吐いたよこいつ!

「けほっ、けほっ」

「…………」

 しばらく、鋼原射美の咳き込む音だけが教室に響いた。

「ああ、その、大丈夫か?」

 篤、呆然としながら聞く。

 射美は慌てた様子もなく手の甲でぐしぐしと血を拭い、息をつく。

「うぃ~、ひさびさにやっちゃったでごわすぅ~」

 ゲロ吐く酔っ払いみたいに言うな。

 夕闇忍び寄る教室で、口元を真っ赤に染めた少女が照れ笑いを浮かべている。見る人が見たら、恐怖のあまり全身の穴という穴から変な汁を出して気絶しそうな光景である。

「射美はコーフンするとつい血を吐いちゃう体質なんでごわす♪」

「いやそれどんな体質モガッ!」

「はいはい出歯亀中出歯亀中」

 そして忍ばない二人。

 なぜ彼女に気付かれないのだろう。不可解というほかない。

「うぅ~、そんなことより射美は一世一代の告白を他の人に盗み聞きされちゃったことがショックでごわす!」

「あ、こら」

 篤が「実はもう二人ばかり隠れて聞いている奴がいるんだぞ」と止める間もなく、射美はずんずんと歩みを進め、血に塗れた手でロッカーに手をかけた。

「文句言ってやるでごわすぅ~!」

 がたん。

 開けた。

「…………」

 そして固まる。

「あら……?」

 ロッカーの中から、ささやくような、典雅な声がした。

 篤は目頭を押さえる。

 今鋼原が見ているであろう光景が、手に取るようにわかった。

 そこには、紳相高校の夏季制服に身を包んだ女子生徒が挟まっていることだろう。

 ロッカーというものはそもそも人が入れるようには作られていないので、無理に入り込もうとすれば相応のしっぺ返しが付いてくるのが当然である。

 ――その女子生徒は、格子のように立つモップと箒によって身動きが取れなくなっているのだ。ロッカーを閉めた際、扉の裏側にあるチリトリを引っ掛ける金具に誤って箒の柄が引っ掛かり、固定されてしまったのである。体を屈めて引っ掛かりを外せば良いのだが、空間的余裕の問題で、屈み込むにはにはロッカーを開けねばならず、開けてしまっては篤と鋼原に気付かれてしまう。それゆえ、彼女は今まで身動き一つできなかったのだろう。

 問題点はもうひとつある。

 悲劇と言ってもいい。

 たぶん、篤がロッカーを開けた時に起きたことだ。

 ボタンが外れていた。

 薄手のブラウスの第一から第三ボタンが、ちぎれて飛んでいったのだ。

 そんでもってなんかこう、世界の半分を占めるある種の人間たちが、なんかある種の憧れというか興奮というか競り上がってくる情熱的なものの混じった視線を注ぐであろうある種の隆起というか膨らみというか白い二つの果実というようなある種神話的な表現をせざるをえないなんかこう、ある種のあれ、あれだよ、ホラあれ! ある種!

 普通に言うと胸の谷間がチラリ。

「あわ……あわわ」

 射美が目を白黒させている。状況が理解できないのだろう。

 というかこの場の誰ひとりとして理解できていない。

「ええと、こんにちは。はじめまして」

 あまつさえロッカーの少女はフツーに挨拶してきた。

「あ、は、えと、あぁ、はじめ…まして……?」

 混乱中。

 約二秒間の自失から立ち直った射美は、ロッカー少女をキッと睨みつけた。

「……じゃなくて! なんでそんなところに!?」

「ごめんなさい。あなたの大事な用事を台無しにしてしまって」

 いきなり謝ってきた。

 言い訳なり反論なりを予想していたのか、うろたえる射美。

「はぁ、いえ、その、まぁ、なんというか……」

「邪魔するつもりはなかったんだけど、いきなり始まっちゃったから、出るに出られなくて」

「はぁ、いえ、そういうことなら、なんともはや……ごわす」

 思い出したように語尾。

「あら」

 不意に、ロッカーの中から白い手が伸びてきて射美の頬に触れた。

「はわっ!?」

「血が……大丈夫?」

「いえあのっ、これは……」

「待ってて」

 手が一瞬引っ込み、桜柄のハンカチを持って再び伸びてきた。

「あう」

「じっとしてて」

 ふきふき。

「どこか怪我でもしたの?」

「いえ、あの、射美はそーいう体質なんでごわす」

「まぁ、大変ね」

 驚愕のツッコミポイントをそれだけで終わらせるロッカー少女。

 彼女は、名を霧沙希きりさき藍浬あいりという。

 篤のクラスメートであり、同級生はおろか上級生にまで「お姉」と呼ばれるほど大人びた物腰の女子高生である。攻牙とは逆ベクトルで有名な人物といえるが、実際のところ容姿そのものは「超・高校生級ッッ!」みたいな隔絶した何かがあるわけではない。その顔容はすっきりと整ってはいたが、幼さも色濃く残っていたし、その頬にいつも湛えられている微笑はどちらかというと無邪気なものを感じさせる。星空を映す夜の湖のような漆黒の髪も、特に手を加えることなく自然に背中まで伸ばされていた。まぁ身体のある一部分の発育だけは、超高校生級と言ってもいい雄大な存在感を誇示していたが、何事にも例外はあるのだ。

 彼女、霧沙希藍浬が「お姉」などと呼ばれる由縁は、主にその言動である。

 ――やはり、彼女は、器がでかい。

 と、篤は思う。

 普通、口元が血まみれな少女が目の前に現れたら、もう少しあたふたしても良いと思うのだが、彼女は一瞬でその事態を受け入れる。ことによると「一瞬」というタイムラグすらないかもしれない。

 浮世のよしなしごとをすべてあるがままに受け入れ、しかも別段無理をしている風には見えない少女。

 その心の在り方は、篤にとっては妙にまぶしく映る。

「はい終わり。きれいになったわ」

 ロッカーの中へ、手が引っ込んでゆく。

「あ……」

 何故か名残惜しそうな声を出す射美。

「う……その、お礼なんて言わないでごわすよ~!」

 射美が慌てたように声を上げ、藍浬の手からハンカチをひったくった。

「で、でも借りっぱなしは気分が悪いのでハンカチは洗濯してきてやるでごわす」

 以外に義理堅い性格なのか。

「あら、気にしなくていいのに」

「そーいうわけにはいかないのでごわす!」

「まあ……それじゃあお願いしようかしら、ふふ」

「ふ、ふん、明日持ってきてやるでごわす!」

 ハンカチを胸に抱きながら、プイと顔をそむける射美。

「そ、それから! 諏訪原センパイ!」

 急にこっちを振り向いた。

「むっ」

 鋼原射美は目を細めた。

「どーも出会ったときからお話がかみ合わないと思ってたでごわすが、どーやら射美の正体がバレてたようでごわすね」

 え?

「『ドキドキ☆夏の恋仕掛け大作戦~吐血自重しろエディション~』で油断したところをドクチア! って行く予定でごわしたけど、そんな小細工は通用しないようでごわす」

 聞いただけで脳髄が腐りそうな作戦名である。

 ビシィ! と篤に指を突き付ける。

「ゾンちゃんの仇は、この射美が討つでごわす! 覚悟するでごわすよ~!」

 突き付けたまま走りだし、後ろ手で器用に扉を開け、そのまま廊下へと消えていった。

「ゾンちゃん……だと……?」

 聞き覚えのある語感に、なにやら嫌な予感を抱く篤。

 その時、廊下から声だけが聞こえてきた。

「いてっ!」

「あうっ」

「気をつけろよオイ前見て走れ!」

 攻牙のちまっこい怒鳴り声が響いてくる。

「いてて……う~ん、ごめんなさいでごわす…………って、あれ?」

「あぁ! やめろ! その眼はやめろ! なんでこんな所に小学生が? とかそんな感じの眼はやめろ!」

「なんでこんな所に小学生が?」

「口に出して言うなァァ!」

 廊下で出歯亀っていた攻牙とぶつかったらしいが、なんかもうかなりどーでもいいと思ってる篤だった。

「可愛い娘ね」

 背後で霧沙希藍浬の声がした。

「む……」

 振り返ると、彼女はロッカーから顔だけ覗かせていた。

 どこか、儚い思いを抱かせる微笑みを浮かべている。

「付き合うの?」

 小首を傾げると、長い黒髪がさらりと揺れた。

 誰と――とは聞くまでもない。

 篤は深々と頷く。

「無論だ。彼女の気持ちには答える」

「ふふ、がんばってね」

「あぁ。……ありがとう」

 篤は少し気持ちが軽くなり、口元にあるかなしかの笑みを灯す。

 どうということのない言葉だが、霧沙希藍浬が言うと不思議に心が洗われる気がする。

「でも意外ね。諏訪原くんも男の子だったんだ」

「霧沙希は今まで俺を女だと思っていたのか」

「ふふ、そうかもね」

 なぜかクスクス笑いはじめる。

 なんだかよくわからないが、笑っているのでよしとする。

「ところで諏訪原くん」

「何だ」

「出るの、手伝ってくれない?」


 ●


 ――甘かった。

 鋼原射美は、ひとり難しげな顔をして歩いている。

「うぬぬ、まさか射美のカンッペキな演技が見抜かれようとは……」

 カバンをしょって下校中である。

「諏訪原篤……さすがはゾンちゃんを破っただけのことはあるでごわす」

 あの眼力はただものではない。

 甘ったるいアニメ声とか、なんか頭悪そうに見える容姿とか駆使して相手を骨抜きにし、背後からボコるのが鋼原射美のいつものパターンなわけであるが、世の中にはそーいうのが通用しない相手もいるらしい。

 となれば、小細工なんか抜きにして正面からぶつかるか。

 《ブレーズ・パスカルの使徒》地方制圧軍十二傑が一人、セラキトハート。

 それが射美のコードネームであり、正体である。

 まっとうに戦ったって勝てるのだ。

 ゾンネルダークを破ったバス停使いがいると聞いたから、ちょっと無理して学校に潜入してみたけれど、実際に会ってみればさほど強力な〈BUS〉感応は感じ取れなかった。

 要するに、諏訪原篤はスペックの低さを戦術で補うタイプの使い手なのだろう。

 射美にとって、そういう相手は最も戦いやすい。

 とはいえ――

「うーむ、とりあえずは報告でごわす」

 カバンからストラップがじゃらじゃら付いたスマホを取り出した。

 側面のカバーを外し、中の青いボタンをつまんで引っ張り出す。

 間違ってボタンを押したりするとスマホが爆発するので、ちょっと緊張する射美であった。

 何度かのコールののち、電話がつながった。

「あー、もしもし? タグっちでごわすかぁ~?」

『ハイパー☆晩飯タイム、はっじまっるよぉー!!』

 なんかいきなり叫び出した。

 やや甲高い青年の声だった。

「……あぁ、今は躁モードでごわすか」

 若干の頭痛を覚える射美。

 ――タグトゥマダーク。

 それが電話の相手のコードネームだった。

『やあ射美ちゃん! いつもいい具合に脳みそ溶けそうなアニメ声だね!』

「ほめてるのかどうかよくわかんないでごわすけど、とりあえずありがとうごわします♪」

『今日の晩御飯は天ぷらスペシャルだヨ! 衣がフニャらないうちに帰っといで?』

「あ、りょーかいでごわす♪」

 それは急がねば。

『それで、どうしたのかな! お兄さんに何か相談事かな! 今の僕は可愛い後輩のためなら実の妹を質に入れてもいいと思うくらい慈愛の心に満ち溢れているよ!!』

「ぜんっぜん慈愛にあふれてないでごわすよ♪ むしろ軽く最低でごわすよタグっち♪」

『死のう……』

 いきなり沈んだ声でつぶやくタグトゥマダーク。

 がさがさと神経質な手つきで周囲をさぐる音が、携帯を通じて聞こえてくる。

「はいはいすとぉ~っぷ。刃物探すのストップでごわすよタグっち~? 今のナシナシ。ウソ。ジョーク。ジョークでごわすよ~?」

 いつものことだけど、躁鬱の浮き沈みが激しすぎる。

『……ホント?』

 捨てられた子犬みたいな声を出すな。

「ホントでごわすよ~? 怒ってないでごわすよ~? 怖くないでごわすよ~?」

『ふふふ、良かった。ゴメンね、取り乱しちゃって』

「い、いえ、問題ないでごわす……」

 内心超メンドくさい人だと思ってる射美であった。

『それで、どうしたのかな?』

「あ、はい。相談事っていうか、報告でごわす」

 射美は今日あった悶着について一通りのことを話した。

 諏訪原篤に接触したこと。

 しかしこちらの演技は完璧に見抜かれていたこと。

 あと廊下で小学生みたいな男子生徒を見かけて超カワイかったこと。

 あとあと、なぜかロッカーの中に入っていた人に、なんかこう、独特のノリで丸めこまれてしまった感じなこと。

『ほへ~』

 なにやら感心したような声を上げるタグっち。

『すごいなぁ、射美ちゃんは』

「へ?」

『学校に潜入して早々に友達を作るなんてすごいことなんだよこれは! お兄さんの学生時代とは大違いだね! 死にたい! 死のう!』

「そっちでごわすか!」

 トラウマスイッチを押してしまったみたいだった。

 その後、どうにか言葉を尽くして自殺を思いとどまらせると、タグトゥマダークはため息をつきながら言った。

『で、えーと、つまり? 諏訪原篤は君の「真夏☆恋仕掛け急接近大作戦」を軽やかにスルーする精神と眼力を持ち、かつ《絶楔計画》の存在を知れば確実に邪魔立てをしてくるであろう人物だと、そう言いたいわけだね?』

 いきなり冷静な口調。しかし☆のところで変な抑揚をつけているのがなんかムカつく。

「はぁ、えっと、急に話が進んだでごわすね……まぁそーゆーわけだから、普通に戦っていいでごわすか?」

 射美の操停術は、絶大な破壊力を誇るものの、静殺傷能力は著しく低い。

 超目立つ上に超やかましいので、使ったら即バレるのである。

 政府のポートガーディアンたちと正面からぶつかるのは今は避けておきたいので、射美はあらかじめ上司に了解を得ていないと戦闘能力を解放できないのだ。

『ま、そうなるよね。いいよ、ヴェステルダークさんには僕から言っておく。隠蔽工作はまかせといて』

「ありがとうごわします♪ じゃ、切るでごわすよ~」

『あ、そうそう! ちょっと待って。ヴェステルダークさんがさっき言ってたんだけど、諏訪原篤の抹殺の他にもうひとつ任務が追加されたみたいだよ』

「ヴェっさんが? どんな任務でごわすか?」

『人を一人、拉致ってきてほしいみたい』

「りょーかいでごわすよ。どこの誰でごわすか?」

『霧沙希藍浬だ』

「……へ?」

『霧沙希藍浬』

「…………それって」

『霧沙希藍浬』

「い、いや三回も言わなくていいでごわすよ!」

『あだ名はキリっぽ』

「変な設定付け加えないでほしいでごわす!」

『その様子だと、もう心当たりがあるみたいだね。さすがは射美ちゃんだ。その調子でたのむよ~?』

「は、はぁ……」

 電話を切ってから、射美はぼんやりと空を見上げた。

 飴色の空が、どこまでも広がっていた。

 スカートのポケットに手を突っ込んで、血まみれのハンカチに触れた。

 霧沙希藍浬から預かったハンカチだ。

 興奮すると血を吐くというホラーな体質を目の当たりにしても、ふんわり微笑んで口元を綺麗にしてくれたくれた人のものだ。

 ……ぎゅっと、握りしめた。

「作戦、変更でごわす」


 ●


「いっ」と、篤が声を上げた。

「せー」と、攻牙が続けた。

「のー」と、響司郎が繋いだ。

「「「せッ!」」」

 三人そろってシメ。

 がたん! と音が鳴り、ロッカーの入り口からホウキとモップが外れた。

「ふふ、ありがとうね。三人とも」

 中からゆっくりと霧沙希藍浬が抜け出てきた。

「うむ、無事でなによりだ」

 篤は重々しく頷いた。

「別に大したことじゃねーよ」

 攻牙は何故か目をそらす。

「女性のお役に立つのは男の本懐さ」

 謦司郎は篤の後ろでフワサァ……っと前髪をかき上げた。

 いや、後ろだから見えないのだが、篤には気配でなんとなくわかるのだ。

 恐らく、薔薇などが周囲に舞っているのではないか。

 見えないけれど、見えないから余計にそう感じられる。

「うー……んっ」

 霧沙希は二の腕を掴んで伸びをした。

 しだれ桜のような肢体が、しなやかに解放を謳歌する。

 女子としてはやや長身の背中に、光沢を宿した黒髪が柔らかく散らばった。

「……帰ろっか」

 こちらを振り返り、ふわりと微笑う。

 同時に、千切れたボタンが引き起こす極限の狭間が幕を開け、白く神話的なある種のふくらみが二つ、窮屈そうに互いを押しあっている荘厳な光景が篤たちの視界に入った。

「いや待て霧沙希―!」

 攻牙が叫んだ。

「お前ちょっと外に出る前にちょっとお前そのあれだ」

 そして汗をかきながら眼をそらす。

「まままっまままっ前をな前を気にしろうん気にしろ」

「え?」

 言われて藍浬は自分を見る。

 一瞬の沈黙。

「……きゅう」

 妙な声をあげて、胸元を抑える藍浬。

「もう、先に言ってよ攻牙くん……」

 そして目じりを押さえた。

「ちょっとショック」

 謦司郎がやれやれとため息をつく。

「攻牙~、泣かしちゃだめだよ。もうちょっと空気読むべきだったね」

「今のボクが悪いのか?」

「あのねぇ、キミが何も言わなければ、霧沙希さんは恥ずかしい思いをせずに済んだんだよ? そして僕は豊かな生命の神秘を存分に鑑賞することができたんだよ?」

「明らかに本音は後半」

「僕が彼女の胸をなめるようにいやらしく上から下から眺めまわしてどこに星マークを付けるべきか慎重に見定めるという高度な思考活動を止める権利が君にあるとでもいうのかい?」

「あるよ! ありまくるよ! なに本人の前で邪まな欲望をカミングアウトしてんだよ!」

「違う。僕はエロくない。変態なだけだ」

「どっちでもいいし変態だったとして何を正当化できるつもりだったんだよお前」

 藍浬はうつむきながら蚊の鳴くような声でしゃべる。

「そ、そうだよね。しょうがないことなのね。お、男の子だもんね……」

「おい霧沙希ィィーッ! こいつの妙に堂々とした弁舌に流されるな! 気を強く持て! 変態のたわごとに耳を貸すな!」

 誰の前だろうと自分の変態ぶりを隠す気がまったくない謦司郎は、ある意味自らの道に殉ずる忠烈の士とも言えるような気がする。そうか?

 とはいえ、いつまでも霧沙希をこのままにしておくわけにもいかない。

 篤は自分のカバンに手を突っ込み、中を探る。

 中には教科書やノートに紛れて、手紙の入った便箋が二つあった。

 ……二つ……?

 ひとつは下駄箱の中にあった桜柄の手紙だが、はて、もうひとつは……?

 とてつもなく不可解だったが、今探しているのはそんなものではない。

 さらにカバンを探り、ついに目的のもの見つけた。

「おい、霧沙希」

「え?」

 しゅるりと衣擦れの音がして、霧沙希藍浬の首に何かが巻き付いた。

 それは紳相高校制式のネクタイだった。

 篤は無言でウィンザーノットの形に結びつける。

「うむ、これでよし」

 作法に則ってきっちりと結ばれたネクタイは、うまい具合に霧沙希の胸元を隠していた。

 謦司郎が愕然とした声を上げる。

「あぁ、篤、なんてことを……霧沙希藍浬はネクタイを装備した! 防御力が500上がった! エロさが20下がった! 具体的には装備前がR16相当だとしたら、今はR12くらいだ! あくびがでますな」

「お前の脳内ではネクタイわりと優秀な防具なの? 最終装備候補なの?」

「えっと、ありがとうね、諏訪原くん。助かったわ」

「うむ、後は俺たちが周囲をガードしていれば、帰り路も安全だろう」

「可憐な女性を取り囲む三人の男……ゴクリ」

「息を荒げながら言うな!」

「ふふ、大丈夫よ。そこまでしてもらっちゃ悪いわ。私の家は山奥だし」

 霧沙希は自分の席からカバンを掴むと、小走りで引き戸の前に向かった。

 振り返ってはにかむような笑みを見せる。

「さすがにちょっと恥ずかしいから、一人で帰ります」

「お、おう気を付けてな」

「またね~霧沙希さん」

「さらばだ」

「はい、また明日ね」

 つつましやかな足音が、遠ざかっていった。


 ●


 その後、好奇心剥き出しで鋼原射美の正体や目的について教えろとしつこくまとわりついてくる攻牙を振り払い、篤は急いで下校した。

 家に帰りつくと、さっそく自らのカバンを開ける。

 教科書とノートの間から、二通の手紙がこぼれ落ちた。

「うぅむ……」

 片方は下駄箱の中にあった桜柄の手紙だ。篤が丁寧に折り畳み、カバンの中へしまった。

 だが、カバンの中にはもう一通の手紙があった。

 拾い上げてみると、『趣訪原センパイへ』と、やたら丸みを帯びた字で書かれている。

 ――いつの間に入れられたのか。

 ――そして『しゅわはら』とは誰のことか。

 二つの疑問が脳裏を駆け巡ったが、とりあえず脇に置く。

 正体不明の嫌な予感に眉をひそめながら、封筒を開け、中身を取り出した。


 大女子きて”こ”ゎす!

 方攵言果後、センハ。イの教室で待ってるて”こ”ゎす!


 金岡原身寸美より(はぁと)


「むぅ……これは……ッ」

 篤は愕然と目を見開く。

 そしてこの書状が持つ恐るべき意味に気づく。

「新たな果たし状ッ!」

 多分、というか絶対に違うのだが、突っ込む者は誰もいない。

「しかし……これはどういうことだ?」

 篤は首をひねる。

 最初、下校しようとして下駄箱を開けたら果たし状(?)が入っていた。文面に従って教室に行ったら、そこには鋼原射美がいた。

 だから特に疑問にも思わず受けて立とうとしたのだが……

 今、ここにもう一通の果たし状(?)が存在している。こちらには差し出し人として鋼原射美の名前があった。『かなおかげんしんすんみ』などという珍妙な名前でもない限りは間違いないところだ。

 ――これは、あの、あれだ、ナーウかつハイカラな言葉でいわゆるところのギャル語というやつであろう。

 考えるまでもなく、鋼原射美が本当に出したのはこっちなのだ。

 では……下駄箱に入っていた方は何なのか?

 篤はしばらく考え、考え、考え込み、五分も経ってからようやくその可能性に気づいた。

「果たし状を出した人物は、鋼原射美の他にもう一人いたのかッ!」

 そして、自分が重大な過ちを犯したことを自覚した。

 ――なんということだ。

 諏訪原篤は、あろうことか決闘の誘いをすっぽかしてしまっていたのだ!

 その瞬間、あたりを地鳴りが包み込んだ。根源的な不安を煽る、大地の怒り。その律動。

「なんという……なんということだ……!」

 別口の決闘があったから行けませんでしたなんて言い訳で、罪を誤魔化すつもりはなかった。

「俺は、一人の気高き戦士の誇りを、踏みにじっていたのか……」

 地鳴りはやがて震動に変わる。家屋がガタガタと悲鳴を上げ、本棚におさめられているふっるい本の数々が床に落ちる。

 しかし、篤は気付かない。動揺した己の心が生み出す幻覚だと思っている。

 ――これほどの失態、いかにして償うべきか。

 答えは、すでに出ていた。

「死のう」

 懐からドスを引っ張り出す。

 と同時に、背後でドアの開く音がした。

「兄貴~! 大丈夫? かなり揺れたね……ってぎゃあ! なにやってんのバカァーッ!」

 その瞬間放たれた霧華のローリングソバット(しゃがみガード不可)によって篤は無慈悲にも吹き飛ばされ、全治三十秒の重症を負った。

 ドアを開けた瞬間に状況を理解し、コンマ一秒の遅れもなく即座に攻撃に移る。妹の恐るべき格闘センスにいつものことながら戦慄しつつ、一応抵抗してみる。

「……霧華よ、いくら腹に刃物を当てていたからと言って事情も聞かずに蹴り飛ばすのはいかがなものか。本当は切腹ではなかったのかも知れんではないか」

「じゃあなんだっつうのよ!」

「ヘソごまを取っ」

「ああもういい! 黙れ!」


 ●


 次の日。

 諏訪原篤は襲撃を受ける。

 登校してきた生徒たちでごったがえす紳相高校の廊下にて、それは完全なる不意打ちの形をとって成された。

「うらぁーッ!」

 襲撃者は背後から篤に飛びかかると、首に腕を回して締め上げてきた。

「昨日はよくも逃げてくれたな篤この野郎てめえ今日は逃がさねえぞコラァ!」

 セリフに読点をつけない男、嶄廷寺攻牙。

「あー」

 篤は頭を掻きながら、何と言ったものか思案する。

 攻牙は、ヒーロー願望が強い。普段から「あー世界の存亡をかけた戦いに超巻き込まれてえー」だの「いつになったら破門された兄弟子が仮面をかぶって師匠を殺しに来るんだろう」だの、高校生にもなってちょっとそれはどうかと言われそうなことを平気で口に出す奴だ。

「高校生にもなってちょっとそれはどうか」

「何がだよ!」

 見た目が小学生なのでまったく違和感はないが。

 そんな少年が昨日の篤と射美の意味深なやりとりを見れば、これはもう何らかの劇的な事件の匂いを嗅ぎつけて意地でも首を突っ込んでくるに決まっているのである。

「うーむ」

 首にぶら下りながらぎゃあぎゃあ騒いでいる攻牙をとりあえずスルーしながら、篤は考え込む。

 やはり適当に曖昧な返事をして誤魔化すしかなかろう。級友をバス停使いの戦いに巻き込むのは篤としても本意ではない。

「オラオラとっとと教えやがれ! あのごわす女は何者だ! ゾンちゃんって誰だ! 仇って何のことだ!」

「……うむ、何のことかはまったくわからないが、ゾンちゃんというのがゾンネルダークなどという変態の略称ではないことだけは確かだ。本当に何のことかはまったくわからない」

「わかってんじゃねえかよ! 誰だよゾンネルダークって!」

「……何故わかったんだ。天才かお前は」

「いやいやいやこの人なんで今ので誤魔化せてるつもりになってたの真剣に怖いんだけど」

 まったくわからないって二回も言ったのに、実はわかってることを一瞬で看破されてしまった。いったいどんな鍛錬を積めば、これほどの恐るべき洞察力を獲得できるのか。

 ――次からは三回言おう。

「……むっ!?」

 その瞬間、意識の片隅で、ある気配を感じた。

 覚えのある気配であり、現在最も警戒しなければならない気配。

 一見ふにゃふにゃの隙だらけに見えて、中に剣呑なものを宿している気配。

 だんだんと、近づいてくる。

 周囲の雑踏の中から、篤はその足音だけを拾い上げる。

 そして。

「諏訪原センパイ~おはようでごわす♪」

 甘ったるい声。

 篤は即座に頭をめぐらせ、声の主を見やる。

 案の定、そこには鋼原射美がいた。

 両手を後ろに組んで、身をかがめ、いたずらっぽく笑っている。

「ぬあっ! 昨日のごわす女!」

 攻牙が声を上げた。

「昨日のおチビちゃんもおはようでごわす~♪ お兄ちゃんにおんぶしてもらってるでごわすか?」

「うわすげえムカつく!」

 しかし、はたから見ると確かに「歳の離れた兄貴におんぶしてもらってる子供」の図である。

「……用向きは何だ?」

 篤は静かに、油断なく問いかける。

「そんなにケーカイされると悲しいでごわすよ~」

 よよ、とわざとらしいしなを作りながら、指で涙をぬぐう仕草をする。

 が、すぐに半眼でこちらを一瞥し、口の端を吊り上げた。

「ふふん、ちょっと見かけたから挨拶がてら決闘でも申し込もうかと思っただけでごわす」

「ほう」

「確か……『姫川病院前』のパワーが一番高まるのは、診察時間の朝と夕方でごわしたっけ?」

 ――そんなことまで知っているのか。

 篤が契約しているバス停『姫川病院前』は、その名の通り姫川病院の前に位置しており、朝と夕方の診察時間には近隣の爺さん婆さんが押し寄せるため、段違いに利用率が高くなる。当然、〈BUS〉の流動も活発になり、バス停の持つ力は最高潮に達するのだ。

 バス停使いにしてみれば、自分が契約するバス停がどこのものなのかを知られるのは非常マズい。そのバス停の利用率が低い時間帯に襲いかかられると、恐ろしく不利な戦いを強いられることになる。

 篤は、己の弱点とも言うべき情報を、いともあっさりと握られてしまったのだ。

「さて……どうだったかな」

「またまたぁ、隠さなくても大丈夫でごわすよ~。利用率が低い時間に襲撃しようなんて思ってないでごわす♪」

 別に隠していたわけではなく、単に姫川病院の午後の診察時間が何時だったのか良く覚えていなかっただけなのだか、篤は黙っておくことにした。

「ほう?」

 いかにもポーカーフェイスやってますよと言わんばかりの鋭い表情だが、実は何も考えていない。

「今日の夕方。学校の裏山で待ってるでごわす」

 にひ~、と射美は意味深な笑みを浮かべている。

「わざわざ俺に有利な時間を指定するとは、よほどの自信があるようだな」

「ふっふっふ、そうでごわすよ? 射美がホンキを出せばセンパイなんてイチコロでごわす」

「それは楽しみだ。場所と時間は了解した。必ず行こう」

「待ってるでごわすよ~♪」

 篤は踵を返し、颯爽と歩きはじめる。

 新たなる敵との戦い。

 その予感に、体中の細胞がざわめいた。

 ――やはり常住死身の信条は、闘いの宿命を引き寄せる、か。

「やれやれだ」

 肩をすくめる。

「夕方に裏山だな? よ~くわかったぜこの野郎」

 肩が、固まった。

 背中に攻牙を背負ったままだったことをやっと思い出し、頭が痛くなった。

 どうしよう、これ。


 ●


 大過なく授業は終わり、放課後に突入。

「すまん、霧沙希。こいつを抑えておけそうなのはお前くらいしかいない」

「ふふ、諏訪原くんが頼みごとなんて珍しいわね」

 ぎゃあぎゃあ喚く攻牙を後ろから抱きすくめながら、霧沙希藍浬はふんわりと微笑んだ。

「どうしても一人で出向かねばならぬ用向きがあるのだが、攻牙が付いて行くと言って聞かぬ。俺が戻ってくるまでの間、こいつを抑えていてくれないか」

「昨日のコ……鋼原さんと待ち合わせ?」

「……霧沙希に隠し事はできんな。そういうわけだ」

「はいはい了解ですよ。がんばってね」

「うむ、恩に着る」

「ち、ちくしょう覚えてろよ篤この野郎―ッ!」

 攻牙の三下っぽい叫びを背に、篤は教室を出た。


 ●


 ちくしょう。

 あの野郎。

 許さねえ。

 嶄廷寺攻牙の脳裏をよぎるのは、その三つだった。

 鋼原射美と諏訪原篤の意味深なやり取りを聞いた時、これだ! と思った。

 ――このつまんねえ日常から抜け出すカギを、ついに見つけたぜ!

 そう思った。

 主人公。ヒーロー。英雄。

 甘美な響きだ。

 攻牙は小さい頃(要するに最近)、自分の名前の由来について父親に聞いてみたことがある。

「え? 名前? あぁ、えっと、ああー、由来ね、うん、由来。由来を聞きたいわけか、なるほどなるほど、うんうん。えっとな、あれだ、一言で言ってしまうと、あの、あれだ」

 親父はそこで爽やかな笑みを浮かべた。

「父さんが当時ハマっていた鬼畜系エロゲーの主人公の名前からなんとなく取ったんだ」

 普通の少年ならば満面の笑みを浮かべながらドメスティックバイオレンスなパッションに身を任せているところだが、攻牙は違った。

 「なんとなく」という言葉尻が引っかかったのだ。

 普段から何かにつけていい加減かつテキトーな親父だが、不意に予知能力でもあるんじゃないかと思うほど鋭いことを言う時がある。

 そういう時は決まって頭を掻きながら「なんとなくだ!」で済ますのである。さらに聞くと、自分でもなぜそう言ったのかわからないという答えが返ってくる。

 まるで、何かの啓示を受けたかのように。

 ――ボクの名前も、そうなのかもしれねえ。

 アホな親父ではなく、運命とか宿命みたいなものによって決められた名前なのかも。

 そう思ったものだ。

 ――なにしろ攻牙だよ攻牙。

 ――こんな名前で主人公やらずに何をやるっていうんだよ。

 小さかった(今も)攻牙は一人そうつぶやき、ニヤニヤしていた。

 別に根拠はないが、確信していた。

 自分はヒーローとなる男なのだと。

 そして今。

 諏訪原篤は明らかに、何らかの超越的な戦いに身を投じている。

 ――きたぜ! ついに!

 宿命の時が来た。

 ――篤の野郎が手を焼く戦いに、ボクも超巻き込まれてゆくにちげえねえ。そしてもうアレだ、超獅子奮迅な活躍をして世界を超救うに違いあるめえ。あるめえよこりゃ!

 とか何の根拠もなく確信しきったのである。

 嶄廷寺攻牙はマジだった。

 バス停使いの闘いに巻き込まれるということ。

 それが一体どんな意味を持っているのか知りもせずに。

 どれほど強大で人知の及ばぬ戦いに首を突っ込もうとしているのか、まったく自覚せずに。


 嶄廷寺攻牙は、あまりにもマジだった。


【続く】

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