フルスイングでバス停を。
バール
命と引き換えに切腹が上手くなる方法
そのバス停も消えていた。
――死のう。
そう思った。
眼の前には、長イスとひさしだけが取り残されていた。
本当なら、そのそばにバス停が立っているはずなのだ。
篤がいつも利用している『亀山前』のバス停。原生林が生い茂る山を背景にぽつねんと立っている情景は、「ド・田舎」という表現が恐ろしいまでによく似合う――そんなバス停だった。
それが、雑草にふちどられた丸い跡だけを残してきれいさっぱり消えてしまっているのだ。
――もうダメだ。
今日は妹のお見舞いに行かなければならないというのに。だからこそこんな朝からバス停に出向いたというのに。
バス停のないところにバスは来ない。それは世界の摂理だった。
リンゴが地面に落ちるのと同じレベルでの法則である。
バス停が存在しないということは、バスに乗れないということであり、それはつまり妹の待つ姫川病院へ行くことができないという結果を意味していた。
地面にくずおれる。
――俺という人間の全身全霊は、ここに敗れ去った。
おぉ、なんということだろう。
だが、打ちひしがれる前にやることがある。
「よし」
篤は決然と立ち上がった。
その顔からは、さっきまでの落ち込みようは欠片も見られない。
「ここでクヨクヨしていても仕方がない」
諏訪原篤、切り替えは早い。
「死のう」
たぶん、間違った方向に早い。
落とした小銭が見つからなければ腹を切り、家に忘れ物をしても腹を切り、インスタントやきそばを作ろうとしてお湯と一緒に麺までこぼれたらやっぱり腹を切る。
日々を全力かつ完璧に生きることを自らに課す。正しく生き、正しく死ぬ。些細なミスを許容せず、フォローが不可能ならば即座に命を絶つ。
物心ついた時から変わらない信念だった。
死のうとするたびに妹にどつかれて止められていたが――
今ならば。
懐にいつも忍ばせているドスを抜き払い、腹に狙いを定める。
今ならば!
瞬間、目の前が白くなった。
遅れて爆音が大気を震わせ、篤は自分の体が宙を舞っていることに気づいた。
●
ふもとの町では、バス停が消えるという事件が相次いでいたらしい。
一週間前に『萩町神社前』、三日前に『谷川橋』、そして昨日は『針尾山』。町に四つしかないバス停が、三つまで消えてしまったのである。
死活問題、と言っていい。
このまま最後のひとつである『姫川病院前』まで消えてしまえば、交通が途絶え、この付近の人里は陸の孤島と化してしまう。
そこへきて今度は篤の村の『亀山前』である。
いよいよ事態は深刻といっていいだろう。
いや、問題はそれだけではなく――
交通の流れとは、つまりエネルギーの流れと同じことだ。交通量の多い場所の地下深くには、人や物の流通に伴って眼に見えない力が蓄積されてゆく。これを放っておけば、大地に溜め込まれた力は臨界を突破。熱や衝撃の形で噴き出し、大爆発を引き起こしてしまうのである。
このすさまじいエネルギー流を、地政学用語で〈BUS〉――すなわち
だが、狭い国土に億を超える人口を抱える現代日本においては、すでに自然の〈BUS〉分解作用だけでは大爆発を抑えきれなくなっている。
全国に無数に存在するバス停が今にも暴発しそうな〈BUS〉を制御する装置であることは、もはや社会の暗黙の了解と言っていい。
一見ただの看板にしか見えないが、その内部は現代の科学ではありえない超技術の塊なのだ。
嘘だと思うなら近くのバス停を持ち帰ってバラして見ればいい。
捕まるけど。
●
「げぶほぁっ!」
篤は地面に叩きつけられた。
視界が激しく揺れ、衝撃が体を突き抜けてゆく。
やや遅れて痛みがじわりと染み出てくる中、篤は地面に手を突いて跳ね起きる。
なぜか落ちてたボロ雑巾をふみしめ、身構える。
「……すわ、敵襲か……!」
何の敵襲なのか、というか本当に敵襲なのか。自分でもわかってないがとりあえずそう言っておいた。侍かぶれのボンクラ少年としては、心機を二十四時間臨戦態勢に整えておくことなど当然のたしなみである。
もうもうと立ち込める土埃の奥から、徐々に人影が現れ始める。
「あれ、死んでないんですか? 瀕死ですか? 半死ですか?」
神経質そうな声がした。
粉塵が晴れてゆく。
影が少しずつ鮮明になってゆく。
そこにいたのは、なんか、変態……としか言いようのない、人の形をした何かだった。
いや、特にみょうちきりんな格好をしていたわけではない。普通のスーツを着た男である。
だが……だが、なぜ背中を極端に反らすイナバウアー、すなわちサーキュラーイナバウアーを完璧に実演しながら逆さまの顔でこっちを見ているのか。理解できなかった。
「面妖な……何者だ! 名を名乗れ!」
「ゾンネルダークですか?」
いや聞かれても。
「……いま俺を吹っ飛ばしたのは貴様か!」
「そうなんですか?」
「一体どうやって!」
「企業秘密ですか?」
「なぜイナバウアーをしている!」
「企業秘密ですか?」
「というかそのしゃべり方はなんだ!」
「企業秘密ですか?」
うざっ。
篤は男と会って十秒で看破した。こいつ友達いない。
男は極限まで反り返った上半身を揺らして笑った。蛇の笑みだった。
「ま、とにかく『亀山前』のバス停は私の物になったんですか? ここに近づく人は問答無用で殺すんですか? 覚悟しろですか?」
篤は深呼吸をする。気持ちを落ち着かせる。
そして男の言葉を反芻する。
――『亀山前』のバス停は私の物になったんですか?
それはどういう意味か。
篤の脳裏には、否応もなく昨今のバス停盗難事件のことが浮かんでいる。
「このごろ町でバス停が消えているのは貴様の仕業か!」
「そうなんですか?」
うわ殴りてえ。
「ポートガーディアンはどうしたんだ!」
すべてのバス停にはポートガーディアンと呼ばれる護衛官が最低一人はつくことになっている。強大な〈BUS〉を制御する要であるところのバス停を悪用されないためには当然の処置と言えた。それはどんなド・田舎のバス停であっても変わりはない。
「ポートガーディアン? あなたが踏みつけているゴミクズのことですか?」
「え」
言われるままに下を見る。
「うおぉっ」
ちぎれたボロ雑巾だと思っていた物体は地面にめり込んだ人間だった。慌てて飛び退り、しゃがみ込む。
「つ、勤さん……? まさか、勤さんなのですか!?」
「うぅ……」
ボロ雑巾はうめいた。
それは、普段から篤に兄貴分として慕われていた『亀山前』のポートガーディアン、
「篤くん……か……油断したよ……『亀山前』の交通量がほとんどゼロになる早朝に襲われてしまった……」
「しっかりしてください! この戦いが終わったら結婚するんでしょう!?」
「……いや、あの……ひょっとして遠まわしに死ねって言ってる……?」
「わかりました……わかりましたから! もう喋らないでください……傷が開いてしまう!」
まさに外道。
「い、いや、とにかく篤くん、逃げるんだ……! あいつは普通の人間じゃない……!」
「そうですね、なんかまだイナバウアーやってるし……あんな普通じゃない奴はじめて見ました」
「いや、そういう意味じゃなくて……奴は在野のバス停使いだ……つまり犯罪者なんだよ!」
在野のバス停使い。
すべてのバス停が国によって厳重に管理される現代社会において、ポートガーディアン以外の人間がバス停の超常的な力を使うことは、国家転覆を目論むテロリストと見なされて重罪人扱いを受けることにつながる。
「むぅ、それは……」
篤は顎に手を当てる。その辺を飛んでいたモンシロチョウに気を取られている怪人イナバウアー男を見やる。
確か――ゾンネルダークとか言ったか。
そうか、犯罪者か。
他のポートガーディアンを叩きのめし、バス停を奪い取り、何を企むのか。
――世界征服か。
真っ先にその単語が出る。
――まぁ、犯罪者の考えることはだいたい同じだからな。
と、世の犯罪者各位が聞いたら憤死しそうなことを思いながら、ゾンネルダークをにらみつける。
いずれにせよ、放置しておけばこの村は交通的にもエネルギー的にも孤立し、枯渇してしまうことだろう。〈BUS〉は単なる破滅的なエネルギー流というだけではない。淀みなく循環していたなら、その地域の自然や文明を活性化させる霊的な作用が働くのだ。
それが、奪われようとしている。
目の前の、この男によって。
「……捨て置けん」
「え?」
「奴はここで俺が倒します」
「ん? ……あれ? なんでそうなるの? ねえ、なんでそうなるの? 逃げようよ篤くん! むしろ僕を運んで逃げようよ! 逃げてよ!」
「黙れ敗北主義者なんて思ってませんから」
「思っている! めっさ思ってる!? っていうか無理だから! バス停使いの戦闘能力はゾウリムシ三百億匹分のパワーだから!」
比較対象としてどうかと思う。
篤は軽く首を振ると、一歩踏み出す。
踏み出しながら、感慨めいた想いを抱いていた。
――戦ってきたのだ。
物心ついたころからの歴程。
――戦い抜いてきたのだ。
挫折と克己の軌跡。
――戦い続けてきたのだ。
何と?
――自分の極端な生き方をいさめようとする世界と。
何故?
――ただ、己の道を往くために。
道とは?
――〝正しさ〟を追い求める指標。
今、この瞬間。
篤は機会を得た。
己の正しさは――正しかったのだろうか?
この故郷の、なめらかにうねる草木や、頬をなでる薫風や、田んぼの中で生きる人々――それらを守れるのだろうか?
これ以上ないほどわかりやすい悪を前にして、己の道を全うできるだろうか?
それを、今、問う。
篤は全身でターンし、目の前の空間を右手で薙ぎ払う。
「オォ――!」
横に伸ばされた腕が、バス停の遍在する異空間に突き込まれ、肘まで見えなくなる。
――〈BUS〉の流動よ、俺の思いを届けてくれ。
別の空間で何かをつかんだ腕から、宇宙的な高まりが流れ込んできた。
一方ゾンネルダークは爬虫類を思わせる動作で篤の方を向くと、
「話は終わりましたか? もういいですか? 殺していいですか?」
弓を引き絞るように両腕を後ろに引きつけ、一気に前へと突き出した。腕の先は、この世ならざる空間へと潜り込み、見えなくなっている。
「
驚くべきことにまっとうな口調でそう叫ぶと、全身をしならせつつ、空間から〝何か〟を引き抜いた。
赤い稲妻とともに。
荘厳なまでの光と熱に包まれた〝何か〟を。
――それは、鋼とコンクリートの輪舞曲。
――それは、ジュールにかしずかれた神の樹。
――それは、摂理を執行する無窮の刃。
あたりに真紅の雷光が走り、草木が次々と発火しはじめた。
同時に、大気が轟々と泣き叫びながらソレを中心に四方へ吹き荒れる。吹き散ってゆく。まるで、ソレを恐れているかのように。
「……フフフ……ヘヘッ……エヒャーッハッハッハッハッハァ! 素晴らしいんですか!? この力!?」
力強い疑問系。
その手には、青地に白文字で『萩町神社前』と書かれたバス停が握られていた。二メートルを超える刀身(停身?)にも関わらず、ゾンネルダークはイナバウりながら軽々と保持している。
「そろそろ殺そうと思うんですが、かまいませんかね!?」
古代の投石機のごとく、反り返った姿勢から一気に身体を引き戻し、『萩町神社前』先端部の丸い看板を足元の地面に勢いよく斬り込ませた。
反動で身体は宙に打ち上がる。同時に、地面に潜り込んでいた丸看板が大量の土砂とともに篤のほうへ跳ね上げられ、紅い斬光波を撃ち出す。
「土竜裏流れですか!?」
高密度に圧縮された〈BUS〉が、地中を泳ぐサメのヒレのような形を取って篤に迫る。
地面を斬り進むことでの『抑圧』。そして中空に斬り抜けた瞬間の『解放』。これら二つがデコピンのごとく作用して、恐るべき初速を斬光に与える。
土竜裏流れ。
ゾンネルダークの波動拳コマンド技であった。大地を砕き散らしながら、篤へと殺到する。
その必殺の飛び道具が、
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
蒼い光によって爆裂に四散した。青白い雷撃が四方へ弾け飛んでゆく。
「何ィィーッ! ですかァァーッ!?」
そろそろ無理やりになってきたゾンネルダークの驚きリアクションをよそに、拡散した土竜裏流れの余波は扇状に広がる衝撃波となって人里に殺到。バイオダイナミック農法で一山当てた野田信一の紅茶栽培園を一撃でオシャカにし、お向かいの脱サラファーマー山本功治が借金をものともせずにこさえたビニールハウス農場を粉砕。後方に位置する島川昭人、善導寺乙矢、石井和彦の伝統的藁葺き屋根住宅(重要文化財指定)を半壊せしめたのち、広大なニセアカシア防風林を威力を減じつつも突破。村から離れた山中で暮らす変人・
南無。
「どういうことですか? ポートガーディアンでもないガキが、バス停を召喚するなどありえないんですか? 何故ですか? 謎ですか? 不可解ですか?」
再びイナバウアー体勢をとるゾンネルダーク。
篤はうつむいている。
「あそこは――姫川病院は、俺の罪が生まれた場所」
うつむきながら、長大な蒼いバス停をヴンと振り回し、肩に担いだ。村の破壊をみすみす許してしまったことへの自責が、彼をうつむかせる。
後で死のう。
「こいつは――俺に課せられた罪の焼印。その顕現だ」
『姫川病院前』の文字が刻まれた、そのバス停。
ゾンネルダークはケタケタと哂う。
「『姫川病院前』のポートガーディアンが見つからなくて困っていたんですが、そういうことだったんですか?」
「さっさと『亀山前』を返せ。あれがないと霧華の――妹のお見舞いに行けない」
ゆっくりと顔を上げる。睨みつける。全身を〈BUS〉の青白い雷光が網目のように這っている。その勢いは徐々に高まってゆき、ついには篤の全身を覆い尽くす。
「それはこっちの台詞なんですか? 私は貴様と違って仕事でやってるんですか? ガキの相手なんかしてる暇はないんですか? さっさと渡せば許してやるんですか?」
「断固として断る! それから――」
轟音。
篤が地面を蹴り砕き、青い光弾となってゾンネルダークに肉薄する。
「後でちゃんと村のみんなに謝っておけ!」
渾身の力で振り下ろす。
「しゃらくさいんですかァッ!?」
蛇の擦過音。再び吹き上がってくる紅い斬撃。
『萩町神社前』と『姫川病院前』が激突し、爆発。凄まじい量の〈BUS〉が撒き散らされ、周囲の環境に無差別に襲い掛かった。熱が周囲数十メートルの草木を発火させ、衝撃が大地にクレーターを穿ち、白い光がすべてを押し包んだ。「ぐぎゃぁ!」とか声を上げながら吹っ飛んでいくボロ雑巾が視界の端をかすめていったが、篤はとりあえずほっとくことにした。
まぁ、多分、大丈夫、なんじゃないかな、うん。
激突と同時に通りすぎ、背を向けあう二人。……いや、ゾンネルの方は腹だったが。
めぢぃっ――と、金属が折れ千切れる音。
折れたのは、赤い光を纏う『萩町神社前』だった。
「バぁカなぁー! ですかァー!」
先端の丸い看板部分が回転しながら地面に突き立つ。そこを中心に稲光が発散してゆく。
「何故ですか!? 何故競り負けたんですか!? こんなガキに!?」
「その油断が貴様を敗北させた」
篤は再びバス停を肩に担ぎ、振り返る。
その持ち方は、ゾンネルダークとは逆――丸看板よりやや下を持ち、基部のコンクリート塊が先端となる形だ。
「そ、その握りは――!?」
バス停闘法には、より重い方を先端に据えて振り回すことで、破壊力を倍化させる特殊な握りがある。
「逆持ちですか……? 魔停流の使い手がこんなところにいたとは驚きなんですか? 道理で競り負けるはずですか?」
魔停流――バス停使いたちの中でも、特に一撃の破壊力に重きを置いた一派である。事実だけを言うなら篤は完全に自己流でバス停を振るっているのだが、ゾンネルダークは勝手に納得していた。
ククク……と、蛇の笑み。
「ではこういうのはどうなんですか?」
ゾンネルダークは背中を強烈に反らしながら、観客の喝采を受ける役者のような動作で両腕を広げる。それぞれが手首の辺りから見えない空間に埋没している。
「
ぐにゃりと変態じみた動作で旋回し、何もない空間から得物を引きずり出す。
右手に緑の光――『谷川橋』。
左手に橙の光――『針尾山』。
二振りの神柱。
さっきとは段違いの威圧感。
「二刀流――いや、二停流か!」
「エェヒャッハァーッ!」
篤の目の前で、緑と橙の軌跡が網目のように交錯した。
連斬連撃。
慌てて飛び退るも、腕と胸から次々と血が噴き出す。
逆持ちは強力だが、反面取り回しが遅い。加速するまでが遅く、一旦加速するとなかなか止まらない。
「まだまだまだまだまだァー!」
順持ち二停流の圧倒的な手数を前に、篤はなすすべもなかった。
「これだ……!」
歯を食いしばりながらも、心機は充実していた。
ずっと前から、こういう窮地を待っていたのだ。
――俺は、罪を背負った。
幼い頃の痕。
その罪は、もはや取り返しの付かない類のものであり、償いようのないものであった。
『谷川橋』と『針尾山』の乱舞は続く。篤の全身に傷が刻まれてゆく。
――あのとき妹の霧華には、一生かけて詫びても許されないであろう非道を働いた。
あぁ、だかしかし、それは償おうとしないことへの言い訳にはならない。
――俺はだから、償うため、我が穢れた魂がこれ以上黒く染まらぬため、正しく生きると心に誓った。
自分はもう二度と、あんな過ちはしでかさないと、霧華に対して証明し続けることが、贖罪の道の第一歩であろうと。
そしてそれが、無駄ではないと信じて。
●
それは、妹が生まれた年のことだった。
柵付き赤ちゃんベッドの中ですやすやと眠り続ける赤ん坊を、篤の両親がメロメロな笑顔で見つめていた。
その光景を見て、篤は五歳にして人生初の嫉妬を覚えた。
――すわ一大事……パパとママを盗られ申した……ッ!(※意訳)
そしてその夜、篤は超絶に眠りを求める肉体を意志の力でねじふせ、あどけない表情でねむりこける妹の前に立っていた。
――不埒な輩よ、天誅を受けよ!
そして――おぉ、なんということだろう。
振りかざしたマジックペンで、どこかの部族みたいな恐ろしい化粧を、無垢なるその
やった、と思った。
この異教の邪神のごとき形相を見れば、必ずやパパとママも己の気の迷いに気づいてくれるであろう、と。
そして満足のうちに自らの寝床へと戻っていったのだ。
だが、ことはそれだけでは終わらなかった。
……どうも、幼少の篤には芸術の天性があったらしい。
望みもしないのに。
翌日、可愛い可愛い第二子の顔を見に来たパパとママは驚愕した。
そこにはワビサビがあった。
単純な線の集合の中に、豊かな情景が広がっていた。
霧の中にたたずむ可憐な華。そのさまが赤子の顔に生き生きと描かれていた。いや、篤はそんなつもりで描いたのではないのだが、少なくともパパとママにはそう見えた。
「霧華……」
パパは呆然と言った。若いころ絵画にかぶれていたこの男は、驚愕とノリのままに自らの娘の名前を決めた。
「この子の名前は霧華にしよう!」
興奮気味に叫んだ。
「そうね、綺麗な名前……」
ママものせられやすかった。
――かくして諏訪原家長女は呪われた命名を受ける。
諏訪原霧華。
すわはらきりか。
その名が偶然かもし出した恐るべき意味に気づいた時、篤は己が取り返しのつかない非道を働いたことを悟った。
――すわ、腹切りか。
ハラキリて!
女の子の名前にハラキリて!
恐るべき慙愧の念に、篤は絶望の深淵へと突き落とされていった。
なんという――
おれはなんということを――!
両親には怒られなかった。むしろほめられた。二人とも霧華の名の意味には気づいていないようだった。天才だな息子よ、となでられながら、篤は一人うちひしがれる。
――妹に呪われし因習の名を押し付けしその所業、許しがたし。
当時は語彙が貧困だったので正確には違ったが、おおむねそんなようなことを考えていた。
ようやく両親から開放された後、人生初の
「しのう」
をつぶやき、台所から包丁を持ち出す。
が――
かつん、と、頭に何かが当たった。
振り返ると、柵つきベッドで毛布にうずもれていた霧華がそこにいた。
足元を見下ろすと、ピンクのおしゃぶりが床に転がっている。
「むう……?」
「あ~う~」(意訳:オムツかえて~)
澄んだ眼が、こっちを見ていた。
「よせ、というのか」
「だぁ」(意訳:オームーツーかーえーてー)
「このおいぼれたおとこに、いさぎよいさいごすらえらばせてはくれぬのか」
先週見た時代劇の受け売りである。五歳児とはいえ、大意は朧気に理解していた。
「ぶぅ!」(意訳:ちがーう! オムツー!)
「ではどうしろというのだ」
「ばぶ」(意訳:なんという兄貴…少し言葉を交わしただけでわかった。この男は間違いなく救いようのないアホ…)
自分で考えろとその眼は語っていた、ように見えた、少なくとも篤には、多分。
「……しかたがない」
どっかりと床にあぐらをかき、しばしの瞑目。
篤は思考の海にたゆとう。
二時間三十二分二十五秒後、少年・諏訪原篤は生涯の道を定めた。
正しくあろう、と。
二度と、昨日の夜のような気の迷いに心を奪われぬよう。間違わぬよう。
一片の曇りもない、まったき正しさを得よう、と。
その結果、少女・霧華はとてつもない苦労を背負い込むことになるのだが――この時の彼女には知る由もないことだった。
●
……あぁ、だが、気づいてはいるのだ。
正しく生ようとするあまり、些細な間違いですぐに死ぬのは愚かなことである。
死のうとするたびに。霧華にどつかれて止められるたびに。
ひどく思い知らされる。
――あぁ、俺はまだ生きていていいんだな。まだ生きろと言ってくれるのだな。
その事実を確認するために、自刃未遂を繰り返しているのだろう、と。
――許しを求め続ける餓鬼。
それが俺。
今の俺。
なんという浅ましさ。
後で死のう。
「だが、それでも――」
胸を切り裂かれ、吹き飛ばされる。
「それでもな――」
遅れて飛来する二条の斬空波をかろうじてかわすも、余波だけで体が吹き飛ばされる。
地面に叩きつけられ、骨がみしりと悲鳴を上げる。
すぐに起き上がる。すでに全身は傷だらけ。
「――『今日、見舞いに行く』と言った以上、約束を守れぬ兄貴にはなりたくないのだ!」
全霊の咆哮。
全身を駆動させ、『姫川病院前』を振りかぶる。そのモーションの間に三度斬られたが、意に介さず。
「俺は絶対に『亀山前』を取り戻し、霧華の元へと辿りつく!」
叩きつける。
打撃点を中心に、光が爆ぜる。
「そのためにお前は倒す!」
「無駄なのですか!? 一本のバス停で二本のバス停には敵わないんですか!? 小学生の算数ですか!?」
瞬間、Xの形に爆光が吹き散らされる。篤の攻撃が、正面から押し戻されたのだ。
その向こうから、両手のバス停を振り抜いたゾンネルダークが現れる。
甲高い哄笑が響き渡る。
「そろそろ死ぬといいんですか!? ダブル土竜裏流れ!!」
土砂とともに襲いくる二重の斬空波。二つは踊っているかのように互いの位置を入れ替えながら殺到。篤を完膚なきまでに叩きのめしたのち、数十メートルを直進。草、土、草、土、草のド田舎ロードを粉砕しつつ、バイオダイナミック農法で一山当てた野田信一のモダンなマイホームを十七分割し、お向かいの山本功治の愛犬ケンシロウの小屋を完全破壊。後方に位置する島川昭人、善導寺乙矢、石井和彦の伝統的藁葺き屋根住宅(半壊)に止めを刺したのち広大なニセアカシア防風林を苦もなく突破。村から離れた山中で暮らす変人・霧沙希紅深の屋敷に門から突入し、庭で野放図な繁栄を謳歌している雑草を根こそぎ斬り裂いてから屋敷そのものには一切傷をつけずに裏門から山奥へと通りすぎていった。
一体どれだけ運がいいのだ、霧沙希紅深。
「がァッ!」
篤は血を吐いて吹き飛ぶ。仰向けに倒れる。全身から、力が抜ける。かわりに断続的な痙攣が支配する。
「ぐぅ……」
手の中にあった『姫川病院前』が、薄れて消えてゆく。本来別の場所にあるはずのバス停をこの場につなぎ止めていたのは、〈BUS〉と共振するほどの篤の戦意。それが消えた今、元の場所へと還ってゆくのみ。
「妹のお見舞い――ですか? くだらないですね?」
足音がする。死の足音が。
「私のバス停を収集せんとする意思に比べれば、なんと薄弱な理由でしょうか?」
「貴様の、理由だと……」
篤はうめきながら起き上がろうとする。しかし手足に力が入らず、体中の痛みがより鮮明に脳へと突き刺さっただけだった。
「ククク……我ら《ブレーズ・パスカルの使徒》は、神造兵器たるバス停の力を誤った形でしか利用しないこの現代社会を叩き潰し、その本来の目的に沿った秩序あるエネルギー社会を構築せんとする有志の軍勢ですか?」
ゾンネルダークは恍惚とした顔で語り続ける。
《ブレーズ・パスカルの使徒》。
なんかよくわからないがそういう集団がいるらしい。
その素晴らしさについて説く変態。演説は延々三十分にも渡り、しかもまだ終わる気配がない。
なんか上層部にいるっぽい女幹部について言及するに至り、イナバウダークの興奮は臨界に到達。イナバウアーしながら手を大きく振り、腰を小刻みに振り、彼岸を見つめる瞳で裏返った奇声を上げ続ける。
「あぁ、彼女は素晴らしいィ! あぁ、彼女は素晴らしいィ! もっかい言いますよ? あぁ、彼女は素晴らしいィィィ! それに比べれば一介の雌犬の見舞いなんてクズ!? 大変にクズですか!? どっちが重要かなどまったく論議にも値しないんですかァ!?」
涎が垂れている。
「だからとっとと『姫川病院前』を渡すんですか!? さっさとしないと殺すんですか!? 殺すんですかァーッ!? っていうか貴様の妹とか多分私が『萩町神社前』でぶっちめてやったんですか!? なんかよく覚えてないけどちっさいメスガキを吹っ飛ばしてやったような記憶がおぼろげにあるんですか!?」
二振りのバス停を振りかぶる。
篤は、その時
笑っていた。
「…………テメェか」
「!?」
「霧華に怪我をさせたのはテメェかよ」
篤は上半身を起こす。
「そうか、そうなのか……」
会う人全員が知り合いなこのド田舎の中で、『ちっさいメスガキ』という言葉に当てはまり、かつ今現在ケガで入院している人間といえば、一人しか心当たりがなかった。
「キレましたかァーッ!? キレちゃいましたかァーッ!? キャハハハァーッ!」
全身に、黒くたぎる力がゆきわたる。
「おい、今何時か知ってるか?」
「え? はぁ? 八時ぐらいですか? それがどうかしましたか?」
篤はゆっくりと立ち上がる。さっきまでの半死状態からは考えられないほど、その動作には危なげがなかった。
「ここいらの年寄りたちはやたら元気でな。基本的に病院に用事なんぞないのだが、腰が痛いだの背中がかゆいだの嘘偽りを口実に病院に行き、待合室でダベる習性がある……」
ゾンネルダークはそこで表情を一変させる。愕然とする。
「ま、さか……」
「診察時間である朝と夕方だけ、『姫川病院前』の利用率は跳ね上がるのだよ」
「な、な……」
「今、丁度朝の診察時間の始まりだ……しかもウチの妹は村中で人徳を得ていたからな。お見舞いに行かんとする者たちでさらに交通量は高まることだろう」
バス停の持つエネルギー量は、それが本来根付いている場所の交通量に比例する。
「そ、そ、そのために今までわざと『姫川病院前』の召喚を解除していたというのですか!? 病院にジジババを誘い込むために!?」
篤はギラリと嗤いながら、右手を天に掲げた。
途端、世界が暗転する。
周囲を青い龍のような稲妻が、何百何千と荒れ狂う。熱風が吹き荒れる。
神がいるとするならば、その降臨はこのような形でなされるのではないか。
そう思わせる光景。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
天空が、爆裂した。
そこに出現したモノがさっきと同じ存在であるなどと、誰が信じられるだろう。
桁違いの存在感、重圧感。
「メスガキ、と言ったな」
感情を殺した声。
「妹を――霧華を、メスガキと言ったな」
「ヒ、ヒィ!」
篤は、その手に降臨してきた超存在を握り締め、ゆっくりと歩みを進めた。
振り上げる。
「謝れ。病院には送ってやる」
振り下ろす。
光爆。
はじけ飛ぶ。
すべて。
すべて。
すべて。
●
爺さん婆さんでごったがえす朝の姫川病院。
ベッドのひとつに、腕にギプスを巻かれた少女が寝ている。
やや跳ね癖のあるショートカット。健康的に日焼けした肌。Tシャツとスパッツを身につけ、大きな瞳は溌剌とした光を湛えていた。しかし、その目尻は自らの境遇に不満を抱いているのか、やや吊りあがっている。
樹の洞でしぶしぶ雨宿りをする猫――といった風情だ。
「……遅い」
頬が膨らむ。
傍らには、山のような果物や花束が机に積み上げられていた。子供の少ないド田舎では、彼女はやたらと可愛がられている。
ようやくの登場であった。
ふもとの町の中学校から家に帰ろうと『萩町神社前』のバス停に近づくと、いきなりイナバウアーな変態に襲われて吹っ飛ばされ、腕を骨折してしまったのだ。
正直、怖かった。あんまり認めたくないけれど、ちょっと泣いてしまった。
しかもそれから慣れない入院生活だ。
知り合いの爺ちゃん婆ちゃんと話しているうちはそうでもないが、不意にそれが途切れると心細くて膝を抱えてしまう。
なのに……
「……ぐすっ……」
慌てて目をぬぐう。
「こっ、子供じゃない! わたしもう子供じゃない! 来なくても全然平気!」
「邪魔をするかもな」
「うわっ!?」
珍しくしんみりした気分をブチ壊す勢いで、招かれざる客が一人。
窓から入ってきたそいつは、少なくとも篤ではなかった。
「だ、だ、誰!?」
「ヴェステルダークかもな」
「断言しろよ!? っていうかなんで窓から!? ここ五階なんだけど!?」
「企業秘密かもな。……なんだ、諏訪原篤はまだ来ていないのか」
「あ、兄貴の知り合い? 兄貴になんの用よ」
「ゾンネルダークの眼球に埋め込んだ〈BUS〉感覚変換機の映像が途切れたので、直接会っておこうかと思ったのだが……まあいい、奴に伝えておけ。今日のところは勝利を譲ろう。だがゾンネルダークは我ら《ブレーズ・パスカルの使徒》地方征圧軍十二傑の中でも最も格下――とな!」
「はぁぁ?」
「いわゆる『俺たちの戦いはこれからだ! 第一部・完!』という奴だ! ではさらば!」
「え、あ、ちょっと!?」
珍妙なる不審者は再び窓から飛び降りていった。
と、その時病室の前が騒がしくなった。霧華が視線を転じると、出入り口の前を担架が通り過ぎてゆく光景が目に入った。
「……あれ、勤にぃ?」
運ばれていたのは布藤勤。村一番の(という言葉をつけるとすごくショボくなるのは何故だろう)ポートガーディアン。なんかすごいズタズタのボロボロでボロ雑巾のようだった。ボロ。
続けてまた一台の担架が通り過ぎてゆく。
「……げげ!」
霧華に怪我をさせた変態がいた。こっちは勤以上にボロボロで、いったいどんな目に遭ったんだと思うほど全身バキバキだった。あと寝てる時でも腰や背中がやたら反り返っていて、すごく…変態…です。
そして三台目の担架が通過する。
運ばれていたのは、
「……って兄貴じゃんッ!」
がばり。
布団を跳ね除ける。
「あんのバカ兄貴ィィ! 今度はなにやった!?」
Tシャツを腕まくりし、担架に向けてダッシュ。
一方、篤の方は。
「先生、お願いです、刃物を貸してください……できればドスとか、ドスとか、あるいはドスとか……」
「え……なぜ?」
「いえ、ちょっと野暮用で……最期のお願いです……」
「い、いや、しかし」
「後生ですから」
「うーん」
篤の妙な迫力に負けて、迷いつつもポケットに突っ込まれていたメスを渡そうとする医師。
その瞬間、
「このあんぽんたーんッッ!!」
ドロップキック状態で飛来した霧華が、篤の横っ面を蹴り飛ばした。ついでに付近にいた看護師数名を巻き添えに吹っ飛ばす。
医師が眉を吊り上げた。
「き、君ぃ! 患者になんてことを!」
「わたしも患者だぁーッ!」
「え、あ……ハイ、すいません」
床に投げ出された篤がうめくような声を上げる。
「……霧華よ、何をする。俺はこの後三回は死なねばならないのだ。邪魔をしないでくれ」
いつもと変わらない静かな眼差しが、霧華を包み込んでいる。
ずいぶん長いこと、この眼を見ていなかった気がした。
――考えてみれば、こんなに長い間兄貴をどつかなかったことはなかったな。
「もう、このバカ兄貴ッ!」
今度は肘を落とす。「げふっ」
霧華の大きな瞳が、少し、潤み始めていた。
「うぅ……もう、今日は何!?」
「何、とは」
「その全身の傷はなんなの!」
「……あー……うむ……コピー用紙で切った」
「騙す気カケラもないでしょ!」
「いや、そんなこともないが」
騙そうとしたことは認めるらしい。
「うぅ~!」
猫にも似た唸り声。
震える唇を噛み締めながら、霧華は握りこぶしを振り上げる。
「バカっ! アホっ!」
どしっ! どしっ!
「うむ、うむ」
篤は目を閉じたまま抵抗しない。
「うそつきっ! 遅刻魔っ!」
どしっ! どしっ!
「うむ、うむ」
1ヒットのたびに「うむ」と返す。
「ぼんくらーッ!」
どがっ!
「うむ!」
強く言いました。
それから、とうとう泣き出した霧華を篤があやし、
おもむろに死のうとする篤を霧華が殴って止め、
結構な大怪我を負っていたことを忘れていた篤がついに気を失い、
速攻で霧華の隣のベッドに入院となったのだった。
完
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