占星術師サーペンティナイト卿の事件簿

狭倉朏

第1話 リムストーン教会

 灰色の髪のバサルト少年は背筋を伸ばして、講義室の椅子に掛けていた。

 周囲の人間はそこまで生真面目ではない。少しだらけた姿勢のもの、明らかに隣とノートの上で雑談を交わしているもの、もう眠りそうになっているもの、人それぞれだ。

 しかし、バサルトはその姿勢を、わざわざ選ぶでもなく自然と取りながら、壇上を見下ろしていた。

「占術の歴史は長い」

 壇上にただ一人立つ白髪を腰元まで伸ばした老人が、しわがれた声で口を開く。

「人は昔から星を見上げ、夢に意味を見出し、神の声を聞いた」

 老人は鋭い眼光で講義室を見渡した。

 年齢のばらついた聴講生たちはドキリとしながらその視線を受け止める。

 寝かけていた崩れきった姿勢の生徒が、慌てて背筋を正すのが視界の端に見えた。

「占術の優劣は数ある魔術の中でもハッキリしている。一定の水準までは学びで補えるが、それを越えた一定以上は完全に才能の世界だ。諸君らが、せいぜい真面目に学んでくれることを祈っている」

 どこか皮肉な雰囲気を帯びた老人の言葉を、しかし、少なくともバサルト少年は真摯に受け止めていた。


 占術に限らず、魔術とはほとんど才能の世界である。

 生まれ持った魔術と魔力、その影響を無視することは誰にもできない。

 どれほどの努力も、才能の前には屈する。それが魔術の世界だ。産まれたときから、バサルト少年はそれを思い知らされる環境に生きていた。


 ここはリムストーン教会。魔術師たちの集う組織のひとつだった。

 世界各地に魔術師の組織は点在するが、リムストーン教会はその中でもだんとつで門戸の広い組織である。

 リムストーン教会の中にあるリムストーン教会学術院は若き魔術師たちに魔術の教えを授けている。

 このような教育組織がある魔術師組織は珍しい。

 たいていの魔術師は他者に依存しない。関わろうとしない。己の研鑽を他者に受け渡すことをよしとしない。

 個人主義こそ魔術師であり、魔術師は孤独であるべきだ――そう言った昔の偉い魔術師もいたとかいないとか。


 壇上の老人、アノーソサイト卿はリムストーン教会の重鎮のひとりにして魔術史の権威である。

 占術史以外にも多くの魔術史学の授業を担当している。魔術史というくくりでならば、彼に扱えない分野はないとまで言われている。

 万能の天才、そう呼ぶものもいる。

 座学に興味のある生徒達にとってはアノーソサイト卿こそが、一番顔を合わせる教師と言っても過言ではないだろう。


 そんなアノーソサイト卿の講義の終わり、老人が締めの言葉に何かを口にしようとしたそのとき、重厚な講義室のドアが軋んだ音とともに開いていった。

「……なんだ?」

 うっとうしそうにアノーソサイト卿は顔を上げた。

 長い授業に集中力を再び欠き始めていた聴講生たちも一斉にそちらを向く。


 そこには輝ける男が立っていた。


 白い滑らかな肌が窓から差し込む陽光に照らされて、光を反射している。首の後ろで結った細い金の髪がなびく。大きな緑の目が輝く。口元は微笑みの形に固定されている。

 まとった魔術師の証である漆黒のローブには、金糸で魔術紋様が施されていて、胸元のループタイには彼自身の目と同じ緑色の宝玉が埋まっている。

 年は二十の半ばくらい。すらりと背の高い男だった。


 カツカツと靴の音を立てて、男は堂々とした足取りで扉からアノーソサイト卿の元へと真っ直ぐに向かった。


 男は学術院の生徒ではなかった。

 生徒達にはそうと見分けがつくように『本』の意匠があしらわれた金バッジが配られていて、誰か魔術の師匠に許可をもらうまで、そのバッジをローブの胸元から外すことはできない。


 バサルトは無意識にその金バッジを撫でていた。

 誰だろう。あの男は誰だろう。いやに目を惹く美男子で、数人の女生徒が頬を赤らめている。


「……何の用だ、サーペンティナイト卿」

 アノーソサイト卿の呟いた名に、多くのものは聞き覚えがあった。

 聴講生たちはざわめく。

「授業中、失礼します、アノーソサイト卿」

 そう老人の名を呼んで、男・サーペンティナイト卿はアノーソサイト卿の耳元に口を近付けた。

 サーペンティナイト卿といえば、当代きっての占星術師として国家に名声の広まる男であった。

 この若さで実力主義のリムストーン教会で重鎮の一角を担っている。

 壇上にいるふたりは老若の差こそあれ、学生であるバサルトたちからしてみれば、雲の上のふたりだった。

「……わかった」

 アノーソサイト卿はサーペンティナイト卿のひそひそ声に耳を傾けると、深くうなずいた。

 授業の最中に入ってきたことを許すような事態がふたりの間で起こっていることは一目瞭然であった。

「今日の講義はここまでだ。聴講を続ける意思のあるものは事務局で手続きをしておくように」

 そう言うと、アノーソサイト卿はサーペンティナイト卿と連れだって急いで講義室を後にした。


 今日の講義は一回目、いわゆるガイダンスだ。

 バサルトは手製の時間割に丸をつけた。

 この講義は受け続けよう、そう思った。

 そう思えるだけのものをアノーソサイト卿はこの九〇分で語ってくれた。


 サーペンティナイト卿がアノーソサイト卿にもたらした情報が、バサルト自身に大きく関わってくるなど、その時の少年には思いもよらないことだった。


 バサルトがサーペンティナイト卿と再会したのはその日の夜だった。

 魔術の中には夜に真価を発揮するものも多い。

 占星術の実践の授業もその一つだ。

 リムストーン教会学術院の外れにある星見の塔を生徒達は登った。

 その先に、輝ける男は待っていた。

 彼の美しさに改めて数人の女生徒がため息をつく。


 夜空の下にあってなお、男の輝きは鮮明であった。

 灯りを少しも点してもいないのに、彼はどこからこの光を得ているのだろう?

 そう錯覚するほどに、サーペンティナイト卿という存在は輝いていた。


 サーペンティナイト卿はせっせと望遠鏡を等間隔にセッティングしていた。

 輝ける男がせせこましく作業をしている姿はともすれば滑稽ですらあったが、サーペンティナイト卿の優雅さはその程度で損なわれるようなものではなかった。


「ようこそ、占星術の授業に。私の名前はサーペンティナイトだ。よろしく諸君」


 サーペンティナイト卿の声は暗い夜空に染み渡るような穏やかさと明朗さが入り交じっていた。

 単純な一言一言が思わず聞き惚れるほどの力を持っている。

 これはこれで一つの魔術なのだろうか、とバサルトはふと疑いを持った。

「好きなところを選びたまえ、今夜がいい天気でよかった」

 サーペンティナイト卿はにっこりと笑った。

「さて、望遠鏡は足りるかな? 足りそうだ。うん、よかったよかった」

 生徒達が思い思いの望遠鏡に陣取るのを眺めながら、サーペンティナイト卿はうなずいた。

「授業の配分はまず占星術の簡単な説明。後は星を眺めてもらう。なんとなく気に入った星の名前を星図から見つけて、そして、次の授業までにその星について簡単なレポートをまとめてくること。今夜の授業はたったそれだけ。私はその間、適当に話でもしよう」

 サーペンティナイト卿はそう言った。

「ああ、占術史の授業を取っているものはいるかな?」

 バサルトを含めた数人が手を挙げた。

「うんうん、となると私がこれから口にする言葉は君たちにとって聞き飽きた言葉になるかもしれない。そうであれば、聞き流してくれても構わない」

 サーペンティナイト卿がそう言って始めたのは占星術の歴史についてであり、確かにアノーソサイト卿が講義をした部分と被るところが大いにあった。

 しかしバサルトは作業をしながら、サーペンティナイト卿の言葉を聞いていた。

 同じ事柄でもふたりの人間が語れば語り口は違う。

 バサルトはそういったものに興味を傾けられる性格をしていた。

「……そういうわけで、占星術とは単純な領域であれば、魔術の能力があろうともなかろうとも、たとえば魔力がゼロだろうと、星を見てそのメッセージを読み解くことだけは学べば誰にでも出来る」

 サーペンティナイト卿は歌うようにそう言った。

「だから君たちが特別になりたいのなら占星術の授業なんて投げ捨ててしまいなさい。だけど、基礎というものを固めたいとき、占星術は基盤になる。魔術という深淵なる世界の入り口にはおすすめだ。……ただし、それ以上がある。この授業ではその領域は扱わないが、占術の世界にはいつだって座学以上がある。そこに君たちが足を踏み入れられるかは、才能次第だ」

 この世でもっとも占術の才能のある魔術師の一人はそう言った。

「才能というものは残酷だ。君たちがいかに努力し足掻こうとも、越えられぬものがそこにはある。それを……君たちは覚悟しなければならない」

 そしてサーペンティナイト卿はポンと手を打った。

「しかし、まあ、なんだ、この単元において教えることに才能は関係ない。ぜひ、君たちの日々の道しるべに占星術を一つ添えてみてはいかがだろうか。さあ、それでは望遠鏡を覗いて星空を見上げようじゃないか」

 彼が明るく優しく微笑むと、女生徒たちからうっとりとしたため息が漏れ聞こえた。


 サーペンティナイト卿の指示通り、望遠鏡を覗き込みながら、バサルトはふと不思議に思った。

 どうしてこんな基礎の授業をこの天才が担っているのだろう?

 占星術の基礎が誰にでも学べるものだというのなら、教えることだってサーペンティナイト卿ほどの天才を配置しなくてもいいだろう。

「ああ、それはね、こういう出会いのためだよ、バサルトくん」

「!?」

 耳元で囁かれた声にバサルトは跳ね上がった。

 辺りを見渡せば各々が望遠鏡を覗き込んでいて、こちらの動きに頓着しているものは誰一人いない。

 これほどの存在感を持つ男が、地味でひねた目をした少年の耳元に顔を屈めているというのに、気にするものなどいなかった。

「さ、サーペンティナイト卿……ど、読心術でもお使いに?」

 そういう魔術は一応ある。少し手間と疲労が大きい魔術だが、サーペンティナイト卿ほどの魔術師なら扱えるだろう。

「ははは、残念ながらそれは私の専門外だ。君はただ、そう言う顔をしていただけだよ。何も魔術を使うまでもなくわかるほどにね」

 サーペンティナイト卿は朗らかに笑った。

 自分はそれほどまでわかりやすい顔をしていたのだろうかとバサルトは戸惑う。

 何を考えているかわからない仏頂面のバサルト。実家で彼はそう呼ばれていた。

「こんばんは、バサルトくん」

 バサルトの困惑など気にもせず、サーペンティナイト卿はにっこり笑った。

「こ、こんばんは……」

 戸惑うままにバサルトはサーペンティナイト卿の言葉をオウム返しにする。

「君に話があるんだ。明日のお昼頃、私の執務室まで来てくれるかな?」

「……は、はい」

 どうして自分が、と疑問に思う心を押し殺し、バサルト少年はうなずいた。

 突然の出来事に、心臓がギリギリと嫌な音を立てていた。

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