〈公用旅券をめくり昔日思う〉

「イラクの話をしよう」と爺医は語り始めた。


 ――探し物をして目に留まったのは深緑色の公用旅券。

 三冊とも〈無効〉の印〈VOID〉がパンチ済だ。


 なかをめくると、マダガスカルに1か月ずつ滞在したときのものが二冊。


 三冊目にはアラビア文字の印がたくさん押されていた。

 2003年8月、当時の国立国際医療センターに勤務していた頃〈日本・エジプト合同医療調査団〉の一員としてイラクに派遣された際のものだ。


  深緑色の公用旅券に記(しる)さるるアラビア文字のかなし懐かし


 バグダッドでは約10カ所の医療施設を調査。

 医薬品も医療器材も欠乏するなかで患者さんへ対応するイラク人医療従事者の姿は崇高ですらある。

 偶然にもヒッラ総合教育病院では帝王切開に立ち会えた。

「おぎゃあ、おぎゃあ」と元気な男児の泣き声が響くなか粗末な器具で手術を続ける産科医の姿に胸が熱くなり言葉もかけられず黙礼して去った。


 この非常にタイトなスケジュールを準戦時下で遂行できたのは、現地駐在の日本大使館員によるサポートのおかげだ。


 それから4か月後の11月29日のイラクで起きた日本人外交官射殺事件は、今でも忘れられない。一緒に食事をして飲み語り合ったのだから……。

 犠牲となられた奥克彦大使と井ノ上正盛一等書記官の御冥福を祈る。

(合掌)

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